8.マレリウスによる出会いととある兄妹の話(4)
「ガトレ! なんであそこから動いたりなんかして! 居なくなってて俺がどんなに……っ!」
「ご、ごめんなひゃい」
部屋のドアを勢いよくかけたパハロは開口一番にそう言った。包帯の巻かれた痛ましい腕を見て、泣きそうになっている。
「でも、無事でよかった……っ! 兄ちゃんが頼りなくて、ごめんな」
「たよりなく、なくなくないよー」
ぎゅうぎゅうと抱き合う二人を前にマレリウスは眺めているのみだ。が、リギアは遠慮なく二人に近づくと、パハロの後ろ襟を掴むとそのまま持ち上げる。
「うげっ」
「《神さまの落とし物》、出して」
「う……」
目が面白いほど泳いでいる。
マレリウスは肩をすくめて傍観者だ。人にさんざん首を突っ込む、突っ込まないとか話していたというのにリギアもなかなかに巻き込まれていく性格らしい。
「打撲の跡っていうのはさっきのジジィが木の棒を持っていたから分かるけど、真新しい切り傷ってのもあったんだよね。刃物できれいにね」
「ううぅ」
パハロの瞳がますます潤んでいく。
「ごめんなさ、」
「いいから、出してみろって言ってんだけど」
リギアの低い声にパハロがようやく口を開いた。
「ご、ご加護を……っ」
次の瞬間、パハロの手の内にあったのは刃渡り十センチほどの小刀だった。鈍色の刃が鈍く光り、柄は木でできたシンプルなものだ。特に装飾もなく、それだけで見るととても《神さまの落とし物》とは受け取られないだろう。
リギアはパハロを床に戻し、その小刀を観察する。パハロの手から取り上げ、そっと刃に手を添わせてみる。
「兄ちゃんわざとじゃないよ。私が変なとこに居ちゃったから、だから当たっちゃっただけで……」
「ふうん」
リギアはきっちりと検分して、パハロに返した。《神さまの落とし物》は一度、解除すると次には傷も汚れも修繕された状態で戻ってくるため、新品そのものだ。もう血もついていない。
「人に向けるつもりでやったの?」
「ち、ちが……」
パハロが必死に首を振った。
「ドアの錠のとこ、壊そうと思っただけだ!」
悲痛な色を帯びたパハロの声にリギアはどうしたのかと視線を向ける。
「こんなもの……っ!」
パハロは小刀の柄をぎゅっと握りしめ、また瞳を潤ませた。
「こんなこそこそ隠して、持ってる武器……っ! 人を傷つけることしかできねー、やくに立たないものなんていらないのに……っ!」
とうとうその瞳から涙が溢れ出す。頬を伝い、鼻水を流して、パハロは堰を切ったようにわーっと大声で泣き出した。唐突な慟哭にガトレは瞠目し、マレリウスは「あららー」とリギアを見つめ、リギアは「え、私っ!?」と慌てだす。
「神さま、なんて……助けてくれない、運命だけの神さまなんてっ! なんで俺にこんなもん寄こすんだよ――ッ!!」
うわーっとまたパハロは泣き出す。いままでどうやって涙を堪えていたのかも、よく分からなくなってしまっていた。
パハロとガトレは二人で生きてきた。
幼いころに二人は貧民街で出会い、実のところ血のつながりも確かではない。パハロは年長者であり、すっとガトレを引っ張ってきた。引っ張るしかなく、さらに幼いガトレの前で泣くわけにもいかない。
ガトレは優しい子だった。
お腹が空いていても食べ物を分けてくれ、寒い日には自分の《神さまの落とし物》である外套で自分もくるんで一緒に温めてくれた。
そんなガトレを傷つけてしまった自分が嫌で嫌で仕方がなかった。
喉の奥が熱くて、目の奥が燃えるようで、それを堪えることができない。
「ああ、もう!」
リギアはパハロの手からまた小刀を取り上げた。ぎろりとマレリウスを睨み、「下から薪、細いやつ持ってこい」と指示を出す。マレリウスは隊長に言い付かった隊員の如く綺麗な敬礼をして命令を果たし、薪を献上した。
椅子に座ったリギアは小刀を右手に薪を左手に掴み、薪を削り始めた。しーんと途端に静寂に包まれた部屋の中にスー、スーと刀が薪を滑らかに削る音とパハロのぐずる音が響いている。このあたりで何をしているのか見当がついたマレリウスは慣れた手つきのリギアを感心してみていた。
「……できた」
リギアの手の内にあったのは猫の木彫りだ。さすがに小刀一つで細部まで削れず荒さが目立つものの、なかなかの出来だった。
「へー、すげーな」
「田舎育ちだからね」
リギアはそれをそのままガトレに差し出した。
「ほら。白く塗れば白猫――善神レシェルの御使いだよ」
「わあ!」
「さっきは変なこと言ってごめんね。あれは私が悪かった」
眉尻を下げ、リギアは素直に謝った。ガトレは笑ってその非を許した。
「いいよ、リギアのお姉ちゃんだからねー」
「……ありがとう」
リギアはそう言って、手の内で小刀をくるりと回し、柄をパハロに差し出す。パハロはおずおずとそれを受け取り、――けれどリギアの方は刃から手を離さない。二人は瞳を交差させた。一方はありありと困惑を露わにした瞳、また一方はいっそ生気が感じられないほど凪いだ瞳。リギアはまた、ここではないどこかに思いを馳せ、パハロに自分の兄を重ね合わせてみる。
くだらなく、非生産的、いかにも馬鹿げた所業であった。
重苦しい沈黙を破ったのはリギアの方だ。
「小刀が武器にしか結びつかない奴は貧相だよ。想像力が乏しく、真に豊かさが欠けた者の考え方だ」
鋭い物言いに、マレリウスはまたリギアがパハロを泣かしてしまうのではないかと思った。実際、パハロは所在なさげに身じろぎしている。
「だって……」
「こうやって木彫りを作ることだってできるし、魚を捌くことだってできる。暗殺用の毒針で刺しゅうもできるし、勇者の神剣で……」
ちらっとマレリウスの方に視線をやり、肩をすくめてみせる。
「薪を割ることもできるみたいだしね」
「げっ、そうだな、ははっ」
マレリウスはへらりと笑って誤魔化した。良い具合の細い薪が見当たらず、仕方なしに神剣を使って割ったことはお見通しらしい。
リギアは手を放し、パハロは小刀をようやく手元に収める。そして、瞬きの間にそれは空気に溶けるようにして消えていった。
「あ、あり」
「ん?」
「……ありがとう」
微風が草を揺らすほどの、小さな声だ。
リギアは虚を突かれて、たじろぐ。
「な、なんでありがとうなわけ?」
「わー兄ちゃんがありがとうって言ったー。びっくり!」
きゃっきゃっと笑うガトレの横でパハロが顔を赤く染めていく。パハロが謝意を口にするのはひどく珍しいことらしい。一方リギアはどう対応すべきか困窮しているようで、髪を爪繰り、言葉を選んでいる。
両両の反応を見ていたマレリウスはたまらず、ぷっと噴き出した。それだけでは収まらず、腹を抱えて無遠慮に大声で笑い始めた。
「ちょっと!」
「わ、わるい……くくっ、あははは! ほんっとおかしくてよく分かんねーな、お前!」
「いつまで、笑ってんだこの野郎っ」
笑い転げるマレリウスにリギアは口を結び、奥歯をかみしめて憤懣をこめた拳をふるう。
「ちょっ、あぶねーな」
鳩尾めがけて振るわれた拳をマレリウスは片手でひょいを受け止めながらも、くつくつと喉の奥でまだ笑っている。
ぽかんとこちらを見ているパハロとガトレに対してもも、何とか笑いを押えてマレリウスはにやりと口角を上げてみせた。
「よーし、お前らも気に入った! もしその気があるなら、知り合いの孤児院を紹介してもいいぜ。俺の親友の家が後見人やってんだ!」
「は?」
「こーけんにんってなにー?」
目まぐるしく変わっていく状況についていけていないパハロはその内容を咀嚼するために数秒を要した。
「は!? へ? お前、貴族だったのか? つか、紹介とかいらねーよ!」
ようやく我に返ったパハロは叫んだ。
「ねえ、こーけんにんってなーに?」
「ガトレはちょっと静かに! おい、お前……えーと金髪!」
「金髪ってなあ……」
マレリウスは後ろの頭を掻く。パハロは威嚇している幼い獣のように歯をむき出しにしてマレリウスを睨み尽きていた。
「情けなんていらねーからな!」
「べつにお情けかけてやってるつもりはないよ。今はまだ子供だから何とかなっているかもしれねーが、大人になったらどうするんだよ。お前は裏の仕事で何とかしていけるかもしれない。けどガトレなんてこのままだと身売りするしかないぞ」
「……身売り? ガトレが……?」
「みうり?」
ガトレだけがよくわからず、頻りに首をかしげていた。
「十五になるまでだったら、その孤児院に置いてくれる。ちょっとした仕事も紹介してもらえるから伝手もできる。悪くねー話だと思うんだけど」
「うん……」
パハロは難しい顔をして俯いた。下唇を白くなるほど噛み、左手は襤褸衣の裾を握りしめている。右手は縋るものを探して、ガトレの手の先を握りしめた。
リギアはそれを眺めていた。
これは頼ることを知らずに育ってきてしまった子どもの姿だ。だれかに意見を求めることもできず、自分の考えが正しいのか間違っているのかも判然としない。色々な思いが交錯しているのだろう。うまい話を、マレリウスを信用してよいか、否か。自分たちの今までの生活を曲げてまで行く価値があるか、否か。
リギアにはその姿に覚えがあった。いつも隣で見てきたのだ。頼る相手をただ一人しかおらず、その唯一の人物さえも失い、リギアを背に隠して世界を睨めつけていた兄の姿だ。
「お兄ちゃん、どうしたのー?」
「ガトレは……」
瞳をゆらゆらと不安に揺らしてパハロは問う。
「ガトレはどうしたい?」
「うーんとね、よくわかんないけど……お兄ちゃんがしたいこと、すればいいと思う!」
あまりにもまっすぐな物言いにパハロは息を詰めらせた。ガトレは瞳を据えて、一寸たりとも揺らぐことなくパハロと向き合っていた。
「孤児院って屋根があるところでしょ。寒くなくて、お腹空かないならきっといいところ! けど、けどねお兄ちゃんがいないとやだもん!」
その時のパハロの表情はまるで心臓を一矢で撃ち抜かれたようだった。リギアもはっとしてガトレを見る。ガトレは純粋であり、それゆえ複雑に絡まった事象を見抜く力を持っていた。
「俺とじゃないと……」
「だめっ! なのっ!」
パハロの目にまた水の膜が張る。パハロの世界は揺らめいていた。けれど、今度は涙をこぼすことはなかった。
「そっか……」と小さくつぶやかれた声は儚く、この少年の幼さを表していた。
「ごめんな」
「ん? なにが? お兄ちゃんまた泣いてるのー?」
パハロは声もなく首を横に振った。
リギアは胸元の服を手繰り寄せ、右手で握りしめた。なぜだがとても苦しく、寂しく、泣きそうになる。部屋の隅で小さく息を整えて、瞼の裏に遠くの景色を思いうかべた。
不意にリギア左手の端に何かが触れる。
「――っ」
咄嗟にリギアは振り払い、触れた何か――マレリウスを睨みつけた。
一方のマレリウスは「いや、これは……」と露骨に動揺を示してあたふたと手を振り回している。
「触るな、変態」
「いや、これはだな。だってリギアがまた遠くでぼぅっとしてるから……」
「はあ!? 意味不明だね」
リギアは鼻を鳴らしてそっぽを向く。そこには先ほどまでの不安定さは微塵も見られない。すたすたとパハロとガトレの元に寄るリギアの後ろ姿をマレリウスは見送った。
勘違いだったかと首を傾げながら、リギアに触れた指先を見る。初めて出会ったときにも手を重ねたが、今はもっと冷たく、小さいように感じた。
「……柔らかかったなあ」
その瞬間、回し蹴りが飛んできた。
自分自身にしか聞こえないようなか細い声、しかも率直で純情な感想であるというのにリギアは許してくれないらしい。
――本当によくわからない奴め。
マレリウスは嘆息を漏らして、一人笑った。