第22話:異物
「雪子さん……、いや店長! 今お時間よろしいですか?」
彼女は改まった様子を見て、「えっ、辞めるの!?」と勘違いをする。
確かに退職する際はこういった雰囲気を出すのだろう。
しかし、今のところ辞める予定つもりは微塵もない。
「違いますよ雪子さん。実は食べて欲しいパンがあるんです」
俺は手にしていた保冷バッグから膨らませたビニール袋を取り出した。
そこに入っているのは、以前考案したパンナコッタパンである。
「もしかして、オリジナルのパン?」
彼女の問いかけに頷くと、「君もとうとう麦道を歩み始めたわけだ」と感慨深そうに腕を組む。
「そんな大層なものじゃないですよ。ただ、プロの意見を聞きたくて」
そのプロと言う言葉に反応したのか、雪子さんの込み上げる感情は口角を通してこちらに伝わった。
「任せて! パンのプロフェッショナルである私がばっちり魔改造してあげる!」
「あ、あの。魔改造は望んでないです。味の感想を貰えれば……」
彼女の手が加わればきっと、パンの原型を留めることはないだろう。
否定するところはきっぱりと口にすると、残念そうに「塩辛とか合いそうなのに」と恐ろしいこと呟いた。
「まあ、とりあえず頂こうかしら」
そう発した瞬間、雪子さんは目を静かに光らせる。
正しく職人の眼差しであり、彼女が本気であることを察するには十分すぎた。
まずは見た目のチェック。
そして次に匂いや触感。
そこからパンの試食に入る。
パンを口にする光景を見ると同時に、緊張から思わず生唾を飲んでしまう。
そこにはいつもの優しい雪子さんはいない。
本気で自分のパンと向き合っていており、安易に「美味しい」と口にすることはなかった。
当たりに静寂が訪れる。
そしてごくんと唾を飲み込むと、「発酵が甘いね。それとパンの加水率がパンナコッタと合ってなくてマリアージュ不足」と評価を受けた。
雪子さんは俺が不安に思っていた箇所を的確に指摘する。
やはり経験不足が仇になったか。
分かっている結果であったが、やはり悔しいという感情を抱かずにはいられない。
外観では悟られないように平静を装っていると、彼女はいつもの笑顔に戻った。
そして、「でも優しくて、とても懐かしい味がする。なんというかな、竹取衣織って感じがする」と独特な言い回しで俺の事を褒めてくれる。
「どういう意味ですか」
「フィーリングで伝わってよ。あ、それとお店に並べるから私が少しだけ手を加えても良いかな?」
雪子さんがした突然の提案は、自分にとって恐れ多すぎる。
「いや、お店に並べるなんていいですよ! 俺のパンで評判が落ちたら嫌ですし!」
俺は首を勢い良く振ると、「大丈夫! くさやパン枠で販売するから! あ、でもそれだとインパクトが足りないな。やっぱり塩辛乗せようか?」と思いもよらぬベクトルを向き始めた。
混沌としたメニューが生まれそうになるのをいつの間にかいた太助が「これは衣織の考えたパンなんだから、あまり手を加えるのも良くないだろ」と割って入る。
「確かに、そうだよね。残念ではあるけど仕方ないわよねぇ」
どうやら彼の助力によって事件は未遂に終わったようだ。
「それにしても、凄いなぁ」
彼は何も言わずに俺のパンを食べて、「新しくて美味しいものを作るって難しいんだぞ? もしかして天才か?」とオーバー気味に褒めてくれた。
「別にそんなことないよ」
一応は謙遜の姿勢を見せるが、認められたという喜びで体温が上がっていく。
満腹ななったときでも、スポーツに勝った時にでも味わえない感情。
何と言うか、他人と共有できるような幸福。
俺はどうやってこれを表現すれば良いか分からずに、体を横に動かしていると「もうバイト終わりの時間だから帰って大丈夫だよ。唯花さんのためにご飯作ってあげて」と雪子さんが帰宅を促した。
確かにここに居てもやることが無くなったため、むしろ邪魔になる可能性がある。
「そうします。お疲れさまでした」
そう言い残して浮足立ちながら休憩室に向かうと、急に地震が襲ってきた。
俺は思わず体制を崩して床に手を付いてしまう。
しかし、あれだけの振動であったのにも関わらず、棚の上から物が一つも落ちていなかった。
それを不可解に思ったが、すぐに立ち上がって着替えを済ませようとする。
その時、肺から生温かいものが込み上げてくる感触がして、咳と共にそれは体外に吐き出された。
口を瞬時に抑えて視線を落とすと、そこには真っ赤に染まった手の平が瞳に飛び込んでくる。
思わず叫びたくなった。
それでも、自分の状態を知られる訳にはいかない。
妊婦に余計なストレスを与えたくないし、このパン屋でもっと働いていたかった。
持っていたハンカチで血を拭うと、軽く息を吐いて直ぐに店を去る。
帰り道、くすんだ赤を見つめていると、ぽつりぽつりと色が滲み始めた。
死を予感される出来事に、腹の底から生きたいという感情が溢れてくる。
こんな気持ち、少し前までなら決して抱くことが無かったはずだ。
未来に希望を見出せず、ずっと死ぬことを考えていた自分。
それが今では自分のオリジナルパンが店に並ぶ日を心待ちにしている。
そればかりか、唯花との日々がずっと続けばいいとも思った。
だけれど、それを運命は許してくれない。
ここは本来なら竹取衣織が存在しない世界なのだ。
すなわち俺は異物と呼ぶに相応しい。
体内に侵入したウイルスを免疫細胞が駆逐するように、間違えた答えを消しゴムで消すように、この時間が自分を追い出そうとしているのだ。
この事実は悲劇的であるが、受け止めざるを得ない。
そもそも、十年後の彼女たちと同じ空間にいること自体が異常なのだ。
これ以上を誰に、何を求めると言うんだ。
しかし、頭で理解していてもなお、それを受け入れるのは酷であった。
どうしてやっと手に入れた幸せを奪うのかと神に問い掛けたが、もちろん返答はない。
ふらふらする足取りは体調不良のせいだろうか、もしくは精神的ショックとも考えられる。
それでも、彼女のいる家に辿り着くと、必死に笑顔を作った。
「ただいま唯花」
そう言って玄関を開ける。
すると、トタトタ足音を立てながらこちらに近づいてきて、「おかえり衣織! あのパンどうだった?」と雪子さんからの評価を知りたがった。
彼女の顔を見ると、失う恐怖から言葉が出なくなる。
それに不自然さを感じ取ったのか、「もしかして、駄目だった?」と下から顔を覗いてきた。
唯花は俺のせいで悲しそうな顔をしてしまう。
だから全力で笑って、吹き飛ばそうとした。
自分の不安も、叶わない未来も、全部全部。
「改良が必要だけど、なんかお店に並べてくれるって言ってた」
そう伝えるや否や、彼女は目を見開いて口角を高く上げる。
「えっ! 凄すぎるよ! おめでとう衣織!」
唯花は感情的になってそのまま抱き着いてきた。
一度唇を合わせてもなお、彼女の感触や匂いは思考をクラクラと惑わせる。
「近いよ唯花。とりあえず離れて」
嫌がる振りをして距離を取ろうとするが、「えー、もうちょっとだけー」と言って簡単に開放してくれそうになかった。
もう俺に構わないで。
これ以上幸せを感じると、恐怖がより大きくなものになってしまう。
心の中は嵐に遭遇した海のように荒れており、とてもじゃないがすぐに収まりそうになかった。




