第1話:みんなと同じ制服を着たかった
どこか、遠くで、声が聞こえる。
耳を澄ましてその方角に目を向けると、そこには昔馴染みの面々を確認することができた。
「早くしろー」
昔馴染みの一人がそう急かすと、俺はコクっと頷いて彼らの元へ向かおうとする。
しかし、足を一歩踏み出したその瞬間、だまし絵を見た時のような違和感によって体が硬直した。
あれ? どうして俺だけが違う制服を着ているんだ。
そんな違和感に気が付くと、彼らの顔は突如として醜悪なものに変わっていった。
いや、表情だけではない。目つきもまた人のものとは思えない代物に変貌を遂げている。
蔑むような、嘲笑うかのような。
そんなグロテスクな視線が槍となり、俺の体を無慈悲に突き刺していく。
どうして、こんなことに。
そう思いながらも、俺は化け物たちに向かって必死に手を伸ばす。
「待って。置いていかないで!」
そんな羽音のような声が届くことは無かった。
彼女たちは俺に背中を向けると、どんどん輝かしい光に向かって歩み始めた。
片や自分の肩には闇から這い出る手指のせいで、身動きが上手く取れないでいる。
この手は俺を闇に連れて行くつもりだ。
クソ、俺はみんなと肩を並べて歩きたいだけなのに。
そんな願いを望めば望むほど彼らの姿は小さくなり、やがて自分を置いてどこか遠い彼方へ消えてしまった。
ポツンと残された俺はただ一人、呆然と立ち尽くしながら涙を流す。
絶望に打ちひしがれて、膝から崩れ落ちそうになったその直後、温かく白い人の手が俺の体をそっと抱きしめた。
「誰?」
俺はそう問いかけて後ろを振り向くと、眩い光によって夢から現実へと引き戻される。
「またか……」
涙を流しながら目覚めるのは、一体何度目だろうか。
溜息を吐きながら義務的にベッドから立ち上がると、壁際に掛ってある制服をじっと見つめた。
「まるで入墨刑だ」
無駄に値の張る敗北の布地に対して、八つ裂きにしたいという感情が如実に表れる。
しかし、一過性の快楽に浸れるほど馬鹿にもなり切れなかった。
俺は乱雑に涙を拭うと、制服に腕を通し始める。
その行為によって毎回身の毛がよだつ感覚に襲われるが、それでも学校に通うと言う習慣からはそう簡単に抜け出せなかった。
世間では嫌なら逃げれば良いと簡単に言ってくれるが、俺はその逃げ方が分からないでいる。
どこへ逃げればいい。そして、その先はどうすればいい。
生まれつきポジティブではなかったが、いわゆる受験戦争に敗れてからはネガティブ思考に偏った。
将来に馳せるのは不安と絶望。
ニュースで耳に入る言葉は増税や汚職、殺人と言ったワードばかりでテレビの前に長時間居座ることはできない。
あの時、あの問題を間違えていなければ。
朝食のパンを口に運びながら、過去の過ちを思い出すのは虚し過ぎる。
本来なら楽しい食事も苦行へと真っ逆さまだ。
「衣織。そろそろ学校でしょ?」
母に急かされると食器の上に齧ったパンを置き、塩素味の水道水で喉をケミカルに潤わせた。
「行ってきます」
形骸化した言葉を呟いて通学カバンを手にする。
そのカバンは、自分の心と同じくらい軽かった。
教科書や文具、その他学校生活において必要な物は全て引き出しに収められており、このカバンを持ち歩くと言う動作にいささか疑問を抱き始めている。
もういっそのこと、自分の身一つで登校してみようか。
そんなことを考えるも先生から怠惰を指導される未来しか見えないため、ここは大人しく余計な重みを背負うことにした。
自宅の扉を開けて、近くの最寄り駅まで歩いて行く。
そして、俺が着たかった制服でごった返す電車の中に体を捻じ込んだ。
この電車で過ごす時間は正しく拷問であった。
四方八方からコンプレックスを刺激され、幸せそうに笑う見ず知らずの男女に狂おしいほどの殺意が込み上げる。
もちろん、その感情が行動に現れることは無い。
そこまでの勇気はないのだから。
それでもこの黒い気持ちは本物であった。
強くつり革を握る手が徐々に痺れ始める。
あぁ、このまま発狂してしまおうか。ここで全てを失って楽になってしまおうか。
そう思い始めた頃が解放の合図だ。
列車が駅に到着してドアが開くと、大勢の生徒が電車からいなくなった。
これでようやく、まともに呼吸ができるようになる。
先ほどのすし詰め状態が嘘のようにガラッとした空間になると、倒れるように座席へ腰を掛けた。
しかし、これで地獄が終わったわけではない。
ここから学校近くの最寄り駅に着くまでの一時間は決まって憂鬱な気持ちになるのだ。
もし、志望校に受かっていれば彼らの様に笑えていた。
それに、通学時間も少なかったし、家族に経済的な負担を掛ける必要もなかった。
俺は受験の失敗が人生を狂わせると言うことを学んだが、それを知るための代償はとても大きかったと感じる。
この最悪な気分を少しでも紛らわせたくて手元のスマートフォンの電源ボタンを押すと、ある人物からラインが届いていた事に気が付いた。
「やっほー、元気してる??」
そんなメッセージを送ってくる相手の名前を確認する必要はなかった。
なぜなら、既に俺に接触をする人間は彼女を残す以外に存在しないのだから。
田名城唯花。
彼女は俺の幼馴染であり、中学生のころまでは多くの時間を共有していた。
俺は受験戦争に敗れてからというもの、仲が良かった友人たちとの縁を断ち切っていったが、田名城だけはそんな俺を見捨てようとはしなかった。
不義理な人間に対しても手を伸ばす聖人。
そんな彼女がハッキリ言って邪魔だった。
敗者に与えられる慈悲は更なるコンプレックスを刺激する。
だから素直に馬鹿と罵しり、離れてくれた方が何倍も心地がよかった。
「別に、普通だよ」
そんなぶっきらぼうな返信をして唯花と距離を取ろうとするが、すぐに「そうなんだ、私たちも変わらずだよ! あ、でも最近面白いことがあってさ!」とやり取りを継続しようとする。
別に俺は本気で彼女が嫌いな訳じゃない。
だけど、今は本当に関係を保ちたくなかった。
ただそれだけ。
こんな自主的な疎外感は我儘で傲慢で何といっても気持ちが悪い。
俺は既読だけを付けると漫画アプリを開いて、そのまま虚構の世界に身を投じることにする。
今読んでいるのは良くある青春ラブストーリー物。
主人公とヒロインは学校で様々な困難に直面しながらも、文化祭や修学旅行を通して仲を深め合っていく。
そんな姿に自分を投影することによって束の間の幸福を味わう。
この行為に虚しさを覚えるのは至極当然と言えるが、それでも止めることはできない。
いわゆる、大人にとっての酒。米国人にとっての麻薬みたいなものだ。
現状が苦しくて仕方が無いのだ。
それから逃れられるのなら、言葉通り藁にだって縋って見せる。
心の中でいつも通りの黒い渦が湧き始めた頃、ちょうどよく電車が目的の駅に到着したため席を立ち、自分と同じ制服を着た人々の後ろを力なく付いていく。
そのまま美少女と角でぶつかることもなく改札を通って駐輪場に向かい、自転車を探した。
しかし、不思議なことに自分の物が存在しなかった。
次々と自分を置いて通り過ぎていく生徒たちを横目に、必死に自転車を探していく。
そして遂に自分以外の人間がこの場に居なくなった時、盗難に遭ったという事実を認識することができた。
残念ながら、思い至る節はある。
俺は鍵を掛けるのを忘れていたのだ。
だが、これは最初の一回目だぞ。
不運で可哀そうな俺に更なる試練を与えるなんて……。
やはりこの世に救いはないらしい。
遠くの方で「キーンコーンカーンコーン」と虚しく素朴なチャイムが聞こえる。
この音は間違いなく学校の始業を告げる合図であり、この時点で遅刻が確定した。
「なんか、今日はもういっかな」
俺はそう呟くと、近くの自販機に小銭を入れて甘いコーヒーを購入する。
幸いにも空は晴れており、絶好の散歩日和だった。
缶の蓋を「プシュ」と開けて、豊潤なミルクの香りをグイっと喉に流し込む。
そんな甘美な代物は、脳みそにこびりついた不安や怒りを一切合切取り除いてくれる。
糖分の摂取もまた、俺にとって現実を忘れることができる手段の一つであった。
俺はコーヒーを全て飲み干すと、そのまま何処かに向かって足を動かし始める。
何かを探して、ただ歩き続ける。
そのまま夕方まで色々な場所を歩き回ったが、特別何かが見つかることはなかった。
しかし失望することはない。
なぜなら、最初から期待などしていなかったのだから。
唯花への返信内容でさえ思いつかないまま、自宅の玄関のカギを開けるとそのまま自室に入ってベッドに倒れ込んだ。
歩き疲れたのだろうか。
そのまま瞼を閉じるとすぐに睡魔が襲い始める。
徐々に意識が遠のいていくとき、俺は「もう二度と起きなければいいのに」と思いながら深い眠りに付いた。
もちろん、翌日には自然に目を覚まし、現実に深く絶望したのは言うまでもない。




