ep.8
翌日、私たちは空が白み始めた頃に小屋を出た。
ヴィルも私も、旅などほとんどしたことがない。森と、城。互いに狭い世界で生きてきた。呑気なものだと自分でも思うが、私は生まれて初めて自分の意思で動いていることが新鮮でたまらなかった。
吹雪は夜のうちに止んでいた。
森は静かだった。
雪を被った木々の枝から時折ぱさりと雪塊が落ちる音だけが聞こえる。
私は外套をかき合わせながら歩く。傷はだいぶ良くなっていたが、まだ長く歩けば痛む。
ヴィルはそんな私に歩幅を合わせてくれていた。
「港まで何日くらいなの?」
「7日」
「意外と近いのね」
「普通は5日だ」
「どういう意味?」
「お前が歩くからだ」
「失礼ね」
思わず睨む。
ヴィルは真顔だった。
冗談なのか本気なのか分からない。
「私は王女よ。歩く訓練だって一応受けてるんだから」
「その割には、昨日は半日で疲れ切っていたが」
「それはっ、怪我人だから!」
ヴィルの口元が少しだけ動く。
笑ったのだと気づくまで数歩かかった。
「今笑ったわね」
「笑っていない」
「嘘」
「気のせいだ」
「絶対笑った」
私も笑う。
そんなくだらない言い合いをしながら歩く。
不思議だった。
ほんの数日前まで、私は王国最後の王女として追われる身だった。いや、今もだが。
父も母もいない。
帰る城もない。
それなのに今は、雪道を歩きながら他愛もない話をしている。
胸の奥に、不安に混じってほんの少しだけ温かなものが灯っていた。
やがて森が途切れ、小さな街道が現れた。私たちは小高い丘の上にいるようだった。
ヴィルが足を止めた。
「見ろ」
彼の指差す先。
遠く北の空の下に、鈍く輝く銀色の帯が見えた。小さな小さな、草の茎程の大きさだったが。地平線のどこまでもその帯は続いている。
私は目を見開く。
「海……?」
「ああ。北海だ。俺も近くまでは行ったことは無い」
初めて見る北海だった。
まだ遥か彼方にあるはずなのに、その存在感は圧倒的だった。
あの向こうにノイヴァルディアがある。
希望があるかもしれない場所が。
私は思わず一歩前へ出た。
その瞬間だった。
ヴィルの手が私の手を掴む。
「来い」
声が低かった。
私は茂みに引き倒される。仰向けになり、その上をヴィルの身体が覆っていた。冷たい雪の感触が頬に伝わる。
「え、ちょっと…」
ヴィルの胸の鼓動が伝わる。同時に、私も動悸が早くなる――私の視線の先には、近づいてくる騎馬の一団があった。
ヴィルの表情が変わる。
「追手だ」
皇帝家の紋章を掲げた騎馬の一団が、街道の奥から私たちの方へ向かってきている。
「隠れていればバレない。静かにしろ」
ヴィルはフードを被り、頭を低くし、私の顔の横に顔を埋めた。
しばらくすると馬の蹄の音が近づいてきて、やがて私たちの真横を通り過ぎた。辺りが完全に静まり返ってから、私たちは体を起こす。
「奴ら、思ったよりも動きが早いな。吹雪が止んですぐ早馬でも出したか」
「それだけ私を捕まえたいのよ」
ヴィルは少し考え込んで、私の方を向いた。
「予定変更だ。小さな村を経由して徒歩で行くつもりだったが、都市を伝って行くぞ」
「どうして?」
「村は人が少ない。これだけ大々的にお前を探してるとなると、人口の少ない村じゃすぐに足がつく」
「でも、都市は都市で人が多いから人目につくでしょう」
「1万人の中の2人を探すのと、100人の中の2人を探すのとなら話は違う」
「なるほど」
「よく分かってない顔だな」
「だったら何よ」
「何も。とにかく北の最寄りの街へ向かう。そうだな、場所は…リーンシュタッドがいいだろう」
ヴィルは変わらず軽口を叩いている。
私はこんなにも心臓が跳ねているというのに。
私だけが、不安なのだろうか。心配しすぎなのだろうか。ヴィルの言うように、都市へ行けば彼らの目を欺けられるのだろうか。
その時、ヴィルがふん、と鼻で笑った。
「お前は考えていることがすぐに顔に出るな」
ヴィルの灰色の瞳が私を見つめている。
「…不安がないわけがないもの」
父と母の死の事実。今の私はいたって冷静だ。私は両親のように死にたくは無い。
「今はそんなもの忘れろ。街まで行く。それだけ考えろ。不安は街に着いた時思い出せばいい」
不器用で、でも素直な慰めに、少し気持ちが軽くなった。
ヴィルはいつだって冷静だ。
私より数段大人びているように見える。ヴィルにとって見れば、私など世間を知らない小娘のようなものだろうか。
ヴィルはそれ以上何も言わず、街道へ視線を向けた。
「行くぞ」
短くそう言って歩き出す。
私は一度だけ、騎馬隊が去っていった方角を見た。 もう姿は見えない。
だが、あの先には兵士たちがいて、私を捕らえようとする世界がある。そして背中の方角には、向かうべきノイヴァルディアがある。
この道の両側に、相反する世界があることが奇妙に思えた。
――振り返っても仕方ないか。
私は小さく息を吐いて、ヴィルの背を追った。
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─── ─
──
半日後、夕暮れ、ヴィルの小屋。
「王女が潜伏していたのはこの小屋か」
騎馬団の先頭の一騎から、質素で、それでいて華のある乗馬服を纏った人物が下馬する。
兵士は皆頭を下げ、膝を雪で湿らす。赤い絹の服を来た一人が、男の前に躍り出る。
「この近辺の王女捜索を任されておりました、マールベルン守備隊長のエルネスト・フォン・マットにございます。アウグスト様直々にお越しいただくのは畏れ多く…」
「御託はよい。それより、早く例のものの所へ案内しろ」
男は何か焦っているような口調でそう命じた。
ライヒスブルク侯アウグスト。 皇帝家を代々支えるライトン家当主にのみ許される選帝侯位を持つ男。
兵士に案内され、離れの紋章を見た瞬間、「間違いない…」「おお、神よ…」と、アウグストは小さく呟いた。
「ここに元より住んでいた住人がいるはずだ。その者は誰だ」
「近くの村人の話によれば、偏屈な爺さんとその子供が住んでいたようで…」
「爺さんの方に話がある。どこにいる?」
「それが、兵士たちが離れの小屋近くに最近の墓を見つけ…石碑にはアルベルト・ツー・ブラウベルンの銘が…」
手袋の革が軋む。
「……遅かったか」
「アウグスト様、その御仁は王女と何か関係あるので…?」
守備隊長が、恐る恐る尋ねる。
「お前の知る必要のない話だ」
冷たい目で守備隊長を見つめると、
「引き続き調査するように。小屋と付近の全てをスケッチしたものを、私宛に届けよ。建物の内外の家具、小物に至るまで全てを私の邸宅に運ぶように」
「しかしアウグスト様、アウグスト様の邸宅はライヒスシュタットに在り、馬でも1週間半はかかります。それはあまりにも現実的では…」
「くどい」
守備隊長は、びくっと肩を震わせ、小さく謝罪した。アウグストは変わらず冷たい目で見ている。
「私は、〝それをせよ〟と言ったが、フォン・マット、貴様はそれに不満があるようだな」
「いえ、それは滅相もなく…!」
「兵士ども」
「こいつを殺せば、ドゥカート金貨10枚をやる」
「死因はそうだな…王女と一緒に逃げたという男がやったことにでもしておけ。これで奴は貴族殺しの汚名と王女逃亡補助のふたつの罪で極刑は免れまい。かえって都合がいい」
「殺したあとは、家具の搬入と王女追走の二手に分かれるように。駄賃は話をつけておくから、マールベルン市長から受け取っておけ。急ぎで届ければ駄賃も増やしてやる」
守備隊長は、様々弁明を繰り返していたが、もはやアウグストは聞く耳を持たなかった。
「願ったり叶ったりだ……」
「吹雪の森へ俺たちを送り込んで凍傷にさせといて、自分だけ暖炉の前で待っていたのはお前だろう!」
「死体は家族の元に届けてやるから、安心しろ」
「ま、待て…!アウグスト様…っ!」
守備隊長の断末魔を尻目に、従者とともに馬に乗り込み、駆け始めた。
(人間とは所詮この程度のものだ。しかし、先生も皇帝陛下も、何故…)
少し離れた場所で、アウグストは小屋を振り返った。
あの男は、ここで数十年も暮らしていた。
――先生、あなたは何故、皇帝陛下を見捨てられたのですか。
雪煙を上げながら馬は皇帝の元へ駆けていく。




