十八話 激戦・幻術 対 変化 "Betting life"
美月山の虎騒動に始まる決着に挑む灯子。
月昇る夜に今、幻使い萩原灯子と狐の総大将の煽との幻術VS変化の戦いが始まる。
時刻は夜の九時を指し示し、登り始める月夜に稲見村は眠りにつき始める。今だ肌寒い季節ともなれば虫の音はなく、暗闇に静寂だけがあった。
灯子と己が美月山の麓にたどり着き空を見上げると、ほんのわずかに月が顔を出している。あと数分もすれば月は上がり、八尾をもつ狐、煽五郎左衛門狐との一騎打ちが始まる。
「それじゃ己は手はず通りに」
「ああ、そっちは任せるぞ」
短い言葉を交わすと、己は灯子より先に美月の山中へと一人足を進める。己はこれから狸の総大将、斑六郎右衛門狸に狸達が動かないよう願い出なければならない。
灯子は山中に消えたその背を見送ると一つ深呼吸をした。今日、山に登るのはこれで二度目、疲れの残る体が僅かに軋む。足は重く感じ、体中に疲労の色が見え始める。
だがここが大一番。灯子は深呼吸を一つすると、着替えもままならない紅葉柄の着物の袖をまくり上げ、九字印を指で切り結ぶ。
「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」
そして短く息を吐き柏手を二つ打ち鳴らすと、誰もいないその場で誰かに語り掛けるように言葉を口にする。それが幻使いである灯子が最後にする準備だった。
「人事に獣事とはいえ、霊山美月が山中に起きたるはちょっと五月蠅いひと騒動。流石に見下ろすばかりじゃこっちもあっちも釣り合わないってものよ。だから……蕎麦の代金分は手ぇ貸してよね」
灯子は白い息を吐いて山を見上げる。美月山より勝負の鐘の音を告げる月昇る。九時、山中に灯子が静かに踏み入る。緊張の線が張り、灯子の集中力は一気に高まった。
一歩一歩夜の山中を進み、それからすぐの事、真っ暗だったはずの山中にわずかな青白い光が灯る。立ち止まってよく見ればそれは揺らめいていた。火の玉。妖狐である八尾の煽の神通力の一端がいくつも灯子の前に現れる。
『――――待ちわびたぜェ、幻使い』
四方から煽の声が木霊した。声の方向はわからない。灯子は耳を傾けながら生き物の気配を探ってみるが、周囲に動物の気配は一切ない。狐や狸だけでなく鳥や蟲の気配さえ全くない。
どうやら今聞こえた声は、遠くから妖力を使って山の中に自分の声を木霊させているらしい。これも尋常ではない神通力があればこそできる技。美月が山の頭領を名乗る実力は伊達ではないらしい。
「あら、お出迎え?」
『てめェの命惜しさに来ねェかと思ったぜ』
「勝ちが決まってる戦いに背を向けるなんてしないわよ」
『山中で震えあがッても逃げ場はねェ。山中に悲鳴を届かせてやる』
「瓦釜雷鳴にしか聞こえないわね」
『はッ!笑わせてくれるぜ。所詮人の子。蓄えた神通力とは年月にこそ真価がある。百も生きられるかどうかの猿の劣等種族なんぞ赤子をひねるに等しい。彼の九尾は人の世を恐れに陥れたり。その力の系譜、とくと見せてやろう』
「威勢は怯えの裏返し。それを虚勢というのよ。黄色い黄色い負け犬ワンちゃん」
『犬と狐の見分けもつかねェかこの野郎』
「あら、賢い賢いお狐様と貴方を同列に捉えるだなんてそれこそ失礼よ」
『んだとォ!』
「人に関すれば禍しか起きないと言うが獣の通説。悪知恵ばかり働かせれば人の怒りを買うも同然のこと。よもや過去にした失敗に学ぼうともせずに今こうして私と一騎打ち。正直呆れを通り越して笑いも出るってもんよ。今や岩に隠れたる九尾もお嘆きでは?」
『白面は金毛、九尾狐の様を侮辱する気か!』
「ま、せっかくだから虎の勝鬨と一緒に負けの遠吠えでも頼もうかしら。ねぇ、八尾狐さん」
『ッ!?て、て、てんめェえええ!!ぶッ殺してやる!』
灯子の言葉が煽の怒りに触れると怒号が山中に響く。すると、ばんっ!と近くの木が爆ぜて皮を飛ばした。それは連鎖するように木々が爆ぜて音を立てる。
美月山は今、煽の神通力がそこら中にある状態。葉の一枚、枝の先まで染み渡った煽の神通力がそれを通して怒りのほどを灯子に伝えている。重い山の空気がまるで激怒の赤に染まっているようにも見えるほどだ。
口先で煽の怒りを買った灯子だが特に焦る様子もない。近くで木が爆ぜようと特に構うことなくやれやれと息をついた。その表情は呆れ顔である。
「煽と名前を付けておいて安い挑発によくぞ乗るもんだ。さてさて、私はゆるりと参りましょうかね」
少し待つと辺りは最初のように落ち着きを取り戻す。煽の怒号も聞こえなければ木々も爆ぜはしない。ただ、怒りのほどは収まっていないようで空気に怒りの迸りを感じる。灯子は山中の様子を注意深く観察しながら足を進め始めた。
騙しの勝負は常に意識の隙をつく。プライドが高い煽は正面を切って襲ってくる可能性の方が高いが、それでも強襲はその中でも基本中の基本。わずかな違和感、わずかな気配さえ逃すわけにはいかない。簡単な舌戦に勝ったとはいえ、ここから先は油断の一つが命を落とす。
――――勝機は?
灯子は山中を堂々と歩きながら、屋敷より美月山に来るまでの間に己に言われた言葉を思い出す。当然のように勝つと答えたが、それは全て自分がどう勝負を動かすにかかっているとも答えていた。
この勝負、灯子の勝ちは八尾の煽に殺される前に美月山中腹の見晴岩に居る虎の元へたどり着くこと。逆に八尾の煽の勝ちはその前に灯子を殺すことだ。
灯子にとってしてみれば見晴岩にたどり着けさえすればいいので、煽に見つかることなく隠れ進むのが一番いいのだが、それをさせてくれるほどこの勝負は甘くない。
煽は灯子が山中に一歩踏み入れただけで気配を察知し話しかけている。今こうして歩いている場所さえ完璧に把握されているはずだ。ならば直接噛み殺しに来る煽との接触はどうあっても避けられない。
つまり、勝負の分かれ目は互いにぶつかり合った時の騙し勝負にすべてがかかっていると言っても過言ではない。
「まぁ己には勝つって言ったけども、互いにまだ手の内を隠したままで、どっちが上なのか互いに量りかねてるところなのよねぇ」
灯子と煽は昼間に一度だけ互いの騙しの技術を見せたのみ。無論お互いにそれが実力のすべてではない事を互いに理解している。完全に力の比較ができない以上は一気に攻勢をかけることはできない。今は互いに手の内の探り合いという状況。
もしも相手の騙しが上だった場合には灯子に待っているのは死。それでも戦いを挑むには勝機がなければならない。それこそが萩原家の奥義、炎幻の秘奥である。
「さて、そろそろ頃合いか」
灯子はある程度山の中を歩いてから立ち止まり、袖からマッチ箱を取り出した。並箱で本数は三十七本入。そのうちの一本に火をつけると、暗闇の空間に赤い光が灯った。
灯子が山中にてマッチに火をつけたのは暗闇の山中を照らす為ではない。灯子の騙しの幻にはどうしても欠かせないのだ。
「炎幻の名の通り、萩原家は火を媒介に幻を生み出す。火が無きゃ私は何もできないぞっと。それと、よい子のみんなはマネしないでね」
一人そう口にすると火のついたマッチを宙に軽く放り、それを柏手と共に手の中に収めた。山中に灯った明るさは一気に消え、代わりに灯子の手には鞘付きの小型のナイフが握られていた。
この小型ナイフ、所詮は幻と言いたいが、灯子の幻は実体に触れることを可能とする奇妙な神通力。火を媒介にしてできた幻のナイフと言えど殺傷性能がある。灯子はそれを手の中でじっくりと握り心地を確かめ、袖の中へしまい込むと声を上げた。
「こっちの準備はもういいよ。騙しの勝負と言えど奇襲をかける気なんてないんだろう?堂々と騙しの技術で正面勝負といこうじゃないか」
『……へぇ、わかってんじゃねぇか』
ゆらり、灯子が睨みつけるその正面。見上げるそこに行く手を阻む巨躯の影を捉えた。殺意に揺れる八尾が天に向かって揺らめき、得物を食む為の牙が山中の闇夜に白く映えている。金の毛は青白い光を纏ってより妖しく艶やかな美しさ。しかして怒りの形相は強く、殺意を灯子へと向ける。
白面金毛にして八尾の狐、煽五郎左衛門狐。奴は――――ニ十匹もいた。
「ちっ……本体が出てくるとは思えない。ニ十匹全部葉っぱか」
狐の頭領としてのプライドの高さから正面から実力を見せつけてくると読んだ灯子は、煽を言葉で誘い出す。だが既に騙しの勝負は始まっている。現れた煽は化けの力を利用して分身をつくりだし、数の上でいきなり優位に立った。
にらみつける両者の間により一層強い緊張感が生まれる。ここから先は体中の神経を尖りに尖らせなければいけない。灯子は小さく息を吐いて体中の余分な空気を吐き出し、集中力をさらに高める。
『さてさてお嬢さん。狐の狩場にどうぞようこそ。逝くも帰るもここは逢坂の関。道逝きの駄賃は命で許してやらァ!』
「ははは、何の冗談よ。駄賃が命じゃ高すぎる。ここは……押し通る!」
『んなことが許されると思ッてんじャねぇだろうなア!』
煽の怒号が途中から後ろから聞こえた。瞬間、灯子は確認すらせずに地面を蹴り、その身を空中に躍らせる。後ろから二十一匹目の煽の牙が空を噛んむ。容赦ない牙のかち鳴りは轟音を立てて灯子の耳に届いた。
一騎打ち。死を賭けた騙し合い。距離零の接近戦勝負。灯子にとってはできれば避けたく、煽にとっては願ってもない大一番がここに始まった。
「くっ!炎幻萩原が幻術・爛天紅葉!」
空中に飛び上がった灯子だがこのままでは格好の餌食。すぐさまマッチに火をつけて柏手を二つ打ち鳴らすと、地面に幾万と広がる落ち葉の絨毯が風もないのに勢いよく巻き上がった。それは見事な赤に色を変え、灯子の周囲を渦を巻いて幾百と舞い踊る。それは瞬き一つの出来事。それだけで美月山の冬の景色は色鮮やかな秋化粧となって煽に魅せつける。
『邪魔くせぇェ事を!てめェの紅葉柄はその為か!』
舞い上がる紅葉吹雪。紅葉柄の着物を着た灯子の姿が紅葉に紛れ見え隠れする。特徴たる黒い長髪、その長身のシルエットでさえ、舞い荒れる葉に視界を邪魔され上手く姿を捉えることができない。
煽はすぐさま化けの神通力で灯子が舞い上がらせた葉の幾つかを自らの分身に変化させようとしたが、それは灯子の幻術。舞い上がったように見えている紅葉は全て幻。煽の神通力は灯子の幻には通じない。
煽が僅かに戸惑う瞬間に灯子は空中で姿勢を整えると、着物の衽を大きく広げ、動きやすいように空中で着崩す。そして牽制の意味も込めて袖から小型のナイフを握り締めた。来てみろ!その頭をかち割ってやる!言葉にせずとも灯子は意味を込めて強く睨む。
『それで怯むような相手だと思ッてんじゃねェだろうなアッ!』
ナイフをちらつかせる灯子の姿に煽に迷いはなかった。吹き荒れる紅葉の中を大顎を開けて一気に突進する。視界が紅葉で邪魔されようと多少狙いが外れようと全くの構いなし。煽にとって二十一匹の内どれか一つでも牙が当たればいいのだ。数の優勢こそ今の煽の強み。煽にとってこれを逃す手はない。
『死に晒せェええッ!』
「そいつはお断りっ!」
ぱんっ!強く灯子がもう一度柏手を打つ。同時に煽の大顎が灯子の胴を捉える。だが灯子の身体が紅葉となってぶわっとはじけ飛んだ。勿論噛み応えなどない。幻を食んだところでそれは空を食むと同義。そして噛んだ灯子が幻ならば本体はどこに?疑問の答えは煽の後ろにあった。灯子が放つ人としての匂いと火の気配を煽が鼻でとらえる。
『後ろッ!?逃がすかァッ!』
「あっバレた。やっべ!」
煽を幻で騙して紅葉吹き荒れるその場を後にする灯子。飛び上がった灯子も吹き荒れる紅葉も煽の注意を引くための幻。できればそのまま一気に駆け上がりたかったが獣の足は灯子の俊足の倍を行く。すぐさま煽の大顎が灯子を捉えようと後ろに追いつき大口を開いた。と同時に灯子が急反転する。
『なにっ!?』
「せりゃあっ!」
逃げる灯子の背を食らうだけの姿勢に入った煽。それに向かい灯子は叫びながら一気にナイフを横に振るった。攻撃の一瞬できる無防備な顔を灯子は狙った。が、騙し合いの手は嫌というほど知っているのが化けの才たる煽。ぼんっと軽い音共に大口を開けて灯子を噛もうとしていた煽は煙となって消え、同時に灯子の上、樹上の葉が煽へと変化し飛び掛かった。
『その命!もらッたア!』
「マジ!?」
瞬時に上を向く灯子だがその視界一杯に煽の大口。距離は零。ナイフを振ってしまったために逃げの為の体勢が整わず、その場を飛んで避けることさえできない。そんな灯子を煽は一気に躊躇なく頭から食いちぎった。ばごん!と山に響く轟音。殺った!と煽が思う。と同時に殺った!と上から灯子が強襲を掛けた。
「私はさらに上を行く!」
『これも幻かア!?』
煽は突如として上から現れた灯子に驚きながらもそのナイフをあえて背で受けた。だからこそ灯子は気づく。刺しごたえがない。つまりこれは葉っぱか。ならその真意は一つ。こいつは囮。またも灯子の攻撃の隙をついてほかの分身に食いつかせるための騙しだと。そのことに気づいた時にはすでに遅し。坂下から一気に駆け上がってきた二十匹の煽の分身が一気に灯子へとめがけ飛び掛かり。頭、体、足、その全てに牙を食い込ませる。が、これも灯子にとっては予想の範囲内。
『ッ!?』
灯子の身体がずたずたになったところでぼふっ!と紅葉となって爆ぜ散った。これも幻。舞う紅葉すらもすぅと霧のように消え失せる。これで再び灯子の姿が消え失せる。今度は灯子の気配が完全に消え去り、煽は周囲を探りながらにやりと笑みを浮かべた。
『……ほォ、なかなか頭の切れる騙しだな』
命を賭けた攻防に見えた灯子の実力の一端。長く生き、騙しの何たるかを知る煽は素直に関心する。同時に久方ぶりの強敵にどこか心の内が震えていた。
『着物の柄すらも目くらまし。その行動すべてに誘いが込められていたってェわけか。一騎打ちを堂々と受けるにャ確かに相応しい。ふん、どこのどいつかは知らねェがまァ人間の中でも随分とマシな方だぜ。さァどう出る幻使い。来るなら着やがれ。幻一匹通しャしねェぞ!』
一回目の攻防は互いの分身をぶつけ合って互角。しかし、状況は完全に灯子の不利で動いていた。木々に間に隠れる灯子は煽の言葉を耳にして、わずかに顔をしかめる。
灯子と煽の違いは随所にみられる。一撃の威力の違い。美月山を領域とする煽と、火を媒介にしないと幻を出せない灯子。そもそもの身体能力の差。騙しの程が実力伯仲であったとしても見えてきた差は煽が優位に立つものばかりだ。おまけにこのまま持久戦ともなれば山に慣れている灯子と山に生きる煽では勝負が見えている。
「しかも自分が有利だってわかってるのがさらに厄介。随分と手ごわいじゃない。でもま――――こっちも順調と来たもんだ」
このまま隠れてやり過ごすのは無理だろう。そもそも灯子の性格がそれを許さない。やるなら正々堂々と騙し勝つ。
マッチを擦る。火をつける。柏手を打つ。次に仕掛けたのは灯子だった。木々の合間からするりと抜け出ると煽に見つかるのを承知で一気に坂道を駆け上がる。長くすらっとした足は大胆に太ももを見せながら俊足のそれを繰り出した。
それを見たニ十匹に煽が一斉に反応、うち五匹が駆けあがってくる灯子に向けて突進した。残り十五匹は灯子の幻の騙しに備える。
『はッ!また紅葉で姿隠しで抜けるつもりか!同じ手が通用すると思ってんなら甘露の如く甘ェッてんだ!』
「んじゃお次はこうだ!狐ってお耳塞げるんだっけ?試してみっ!」
『ッ!?』
「行くぞ!ばあーーーんっ!」
灯子が強く叫んだ瞬間、激しい雷の轟音が煽の耳で一気に轟いた。その音量は脳震盪を起こしかねないほどで音というよりはもはや衝撃に等しい。灯子を捉えていた煽の視界がぶれる。足場が不安定になる。ぐわんぐわんと頭の中で音が幾重にも反響。ついには灯子に突っ込んだ五匹の煽の分身はぼんっと音を立てて葉っぱに戻った。
『ぐッアアア!今のはなんだ!?何しやがッた!?』
「炎幻萩原が幻術・雷神響華っ!もっかい行くぞ!そらっ、ばあーーーんっ!」
ガァン!ゴゴゴゴン!さらに強く、さらに激しく煽の耳に届く雷鳴の爆音。その音は一度目よりもさらに強く、鳴り響くたびに頭は強く揺さぶられ、視界が明滅する。ついには分身と言えど頭に響く衝撃が激痛となりさらに分身が十体消える。獣の足ではうまく耳を押さえられず煽はその場で悶えるしかない。
「まだまだ行くぞ!」
『このッ!』
そのまま一気に突っ込んでくる灯子。その姿に憎いとばかりに顔色を変える煽。頭の中轟音の衝撃でぐわんぐわんと揺れているが冷静だった。轟音を打ち鳴らしているにも拘らず灯子自身には全く影響がない事を見て、すぐに音の正体を理解する。
『こいつも幻か!?』
幻聴。灯子が次に打ってきた手はそれだった。灯子が発した「ばあーん」という声が煽だけ雷が耳元で鳴り響くように聞こえている。そもそも今日は月明かりが見える快晴。雨雲一つなければ雷鳴など本来鳴るはずもない。
『幻出すだけが能じャねェってか!だが!それでやられる俺でもねェぞ!』
「ほら、ばあーーーんっ!」
『ぐアアアアッ!』
耳元で鳴り響く雷鳴。子の爆音が幻聴であれ頭がそう理解してしまえば本来ないはずの衝撃も受けてしまう。もともと頭の中で聞こえているものなので耳をふさいでも効果は全くない。
だが、煽は揺れる視界の中に灯子という得物を逃さない。爆音の幻聴は死ぬほどではない。死ななければ食える。なら食わなきゃならない。食い殺せ!心の叫びが煽の中で強く叫んだ。煽は衝撃に堪え、分身をさらに三十増やすと気が狂いそうなほどの爆音に耐えながら灯子に向かって突っ込む。
「もっかいだ!ほら!ばあーーーんっ!!」
『五月蠅ェエエエエんだよオッ!』
凄まじい怒りの形相で飛びついた煽。その鋭利で巨大な牙で一気に灯子に食らいつく。たとえそれが幻だとしても幻聴の原因である以上はほっとくわけにはいかない。空を切り、その体が紅葉となって霧散するとわかっていても全力で噛みついた。
「御馳走をくれてやる。炎幻萩原が幻術・偽甘鬼灯っ」
『っ!?』
ぐちゃん!肉を食んだ感触があり煽は驚く。そして噛んだ先からどくどくとあふれ出る赤い液体を目にし驚愕の内に思考が巡る。なんだ本体を噛んだ?噛めたのか!?あの女を殺したのか!?噛み殺したのか!?とその答えが出る前に口の中に違和感を感じた。
『ッ甘ェ!?なんだ!?こりャァ木の実か!』
口を濡らす赤い液体。独特の甘みとわずかな酸味が口の中を支配する。血にあるはずの鉄の様な味は一切にない。この液体が血でないことは確かだ。
煽はすぐに吐き出すと、それが真っ赤に熟れた赤い木の実であることがわかった。噛みこぼした赤い木の実からその正体がわかる。名前はクロガネモチの実。モチノキ科の植物で、秋ごろから身を着け、鳥が口にする植物だった。そして毒のある物ではない。害こそないが、そこに違和感がある
『どういうこった。なんだこりゃぁ。なんでコイツが甘ぇんだ!?』
そもそもモチノキ科の赤い植物の大半が苦いのだ。鳥は食べるとはいえ、その他の哺乳類は口にすればそに苦さに吐き出すほど。食糧不足にこそならないと絶対に手を出さないほどの植物である。
『こんなもんを食わせやがッて……』
煽がにらみつける先、いつの間にか煽の包囲網をするりと抜け出た灯子が駆け抜ける。幻聴による衝撃と、噛ませた先にある驚愕の二つを持って煽の意識の外へと抜ける騙しの技術。一方に意識をそらすというやり方は紅葉で紛らせるというものと同じだが、その衝撃の程は比較できないほどに上だ。
『この俺から、こんなもんで逃げようたッて……そうはいかねェんだよオオ!』
逃げる灯子。結った長髪をなびかせてさらに加速する。このまま見晴岩まで一直線に駆け抜けられればと思った瞬間、その背に以上な威圧を感じた。灯子は思わず足を止めて振り返る……真っ暗な影が灯子に覆いかぶさっていた。
「げっ!嘘でしょっ!?」
灯子の視線は徐々に上へと上がっていく。追ってきているだろうと思っていた煽はその場にとどまり強く強く灯子を睨みつけているのみ。一切の足を動かしてはいない。だが、だがその巨躯の身体が徐々に膨張しているのだ。いわば巨大化。その背丈は既に山中の木々から頭を出すほどに大きい。
『噛み殺すのやめだ!てめェは踏みつぶす!この足で赤い血をはじけ飛ばせェエエ!』
これぞ化けの真骨頂。今までは葉っぱを分身に帰る程度だったが、今度は自身を巨大化させたのだ。真上を見上げるほどのでかさはついに月をも隠し、ビルほどにも相当する。天にまで向かう八尾のシルエットが灯子の眼に映る。大きい。とにかく大きい。灯子の長身が今や煽の爪の先ほどにしかない。
そして、煽が右前足を振り上げた。無論灯子を押しつぶす為だ。圧倒的であり単純な力。もはやここまで来ると小手先の騙しなど一切通用しない。
『美月妙典郷・才天院神社が稲荷の守。我が名は煽五郎左衛門狐。もはや加減の一切をせず、怒りの一撃にて、死に失せろ女ァアアアア!』
高く、高く振りあがった右前足が全力を持って灯子に降りかかった。叩きつけられれば灯子は木の実のように地面ごとはじけ飛ぶ。しかもその前足は巨大化しており単純に飛びのいたところで避けられない。
灯子はその前足を凝視しながらマッチに火をつけ、そして慌てることなく柏手を打った。避ける気など最初っからない。むしろ、灯子はこれを待っていた。怒りに一撃を込めるこの一撃を灯子は狙っていたのだ。
「やっと来た!ここだ!炎幻萩原が奥義、炎幻の秘奥――――灯幻郷っ!」
お読みいただきありがとうございました。




