本気のキスに甘くすがって(R15版)2
柚子の父は、とても前時代的な考え方の持ち主だった。
女は高校を卒業したら親のつてで見合いをして、結婚して家庭に入る。そして子供を産み、家族のために人生を捧げる。そうすべきで、そうすることが女の幸せだと信じて疑っていない。事実、柚子の母はそのような経緯で父と結婚し、高卒のまま一度も働きに出たことがない。
そんな母と子供二人を養える分だけ稼ぐ父は、役職も付いて立派な勤め人ではあると思う。しかし、時代遅れも甚だしいその考え方を押し付けられることは、非常に窮屈で煩わしかった。
「ごちそうさまでした」
そんな父とこれ以上会話を続けたくなくて、柚子は暗い声で挨拶をすると、自分の食器を洗って早々にリビングを後にした。自分の部屋に行き、公務員試験の問題集を開くが、心の中がささくれ立ってしまい、まったく集中できない。
(嫌い……お父さんなんか、大嫌い……っ!)
解く気にならない問題集を眺めていると、黒く濁った泥が臭い空気を含んでふくらんできて、あっという間に柚子を不愉快に覆う。
そもそも高校三年生の頃、大学進学を希望したら真っ先に父親から反対された。女が大学を出る必要なんかない、余計な知恵なんかつけなくていい、それよりも見合いをして家庭に入れと、そればかりだった。三つ年上の兄の時は、「なるべくいい大学に入れ」としつこく言っていたのに、女の柚子に対しては百八十度言うことが違った。徹底した男尊女卑思考だった。
そんな柚子が大学に進学できたのは、兄が味方してくれたからだ。
今は時代が違う。大学生の半分は女性だし、多くの女性が大学卒業後に働いている。就職することを考えたら、大卒という資格は最低限持っておくべきものだと、「今の」時代について懇々と父を諭してくれたのだ。
おかげで柚子は大学に進学できたが、決して父の価値観が変わったわけではなかった。父はあくまでも、大学に進学することを嫌々認めてくれただけで、柚子が就職することには反対だった。かろうじて、安定しているということで公務員だけは認めるようなことを口にしたことがあったので、柚子は公務員になることを第一志望にした。
(なんで……いつまでもあんな価値観なの……)
父は「女」を主語にして、あらゆることを否定する。それが、「女」である柚子の尊厳や、時には母のことさえも傷付けているということに、まったく気が付いていない。
そんな父を嫌い、父の言うことには常に反抗心を抱いていた。しかし、いつも最後には、父の言葉に従ってきてしまったように思う。大学に進学し、卒業後は就職して働くつもりでいるが、実は働く業界や業種には、なんの希望も思いもない。仕事としてやりたいと思い描けたことが、一度もないのだ。
これでは父の言うような、「女は仕事などせず家庭に入るべき」という道を進むしかない。その道を進むことを、肯定してしまうような気がする。柚子はそう恐れていた。
(気持ちがぐちゃぐちゃ……もうやだ……)
父の価値観になど合わせず、社会に出て働き、自立したいと思う。けれども、どんな仕事をしたいのか、それはまったく見えない。自分が働いているところが、何も想像できない。公務員試験という目標が目の前に迫ってきているが、「公務員になりたい」と憧れたことなど、一度もない。第一志望に掲げてはいるものの、その進路すらも、「公務員なら父の文句が少しだけ減るから」ということで、結局は父親の顔色をうかがった結果なのだ。
(やだ……もうやだ……っ)
柚子はスマホを持ってベッドに寝転ぶと、ぎゅっと体を小さく丸めた。
自分の人生には、なんの意味があるのだろう。やりたいことを見つけられず、選ぶこともできていないのに、果たして社会に出られるのだろうか。父親の言うことが嫌で、拒む気持ちがあるのに、どうしてその価値観に沿ったような道を行こうとしてしまうのだろう。
そんな自分が弱くて惨めで、悔しくてはがゆい。けれども、いまいる場所から離れられない。劇的に変わったり、成熟したりできない。柚子の心を覆う黒くて濁った泥は、ますます重みを増していく。
――ブルッ。
その時、柚子のスマホが一回だけ振動した。
柚子ははっとして、スマホの画面に視線をやる。
〈来週の土曜日、十四時から少しだけ会えないか〉
(賢人さん……)
じんわりと涙が浮かび始めていた目で、柚子は賢人からのメッセージをじっと見つめた。
賢人と最後に会ってから、もう一カ月も経っている。大学の授業と試験勉強、それに就活の事前セミナーや説明会など、日々のスケジュールをこなすのに必死で、賢人とはこの一カ月、メッセージのやり取りしかしていない。通話ならできるかも、と思っていたが、夜は毎日ぐったりと寝てしまうので、落ち着いて数分の電話をすることもできていなかった。
(会いたい……けど……)
柚子はベッドの上にスマホを置いたまま、バッグの中に入れっぱなしのスケジュール手帳を取りに行く。そしてそれを開き、来週の土曜日の予定を確認する。午前中に会社説明会の予定が一件入っていたが、それは十二時前には終了する予定なので、十四時から賢人と会うことはできるだろう。
だが、こんなにも重たい気持ちで賢人に会うのは憚られた。就活のこと、試験のこと、父親とのことで頭も心もぐちゃぐちゃで、穏やかな気持ちで賢人に会える気がしない。今の自分は、いつも以上に賢人に不釣り合いな、全然きれいでもかわいくもない、自己嫌悪の塊のような女だ。
柚子はベッドに戻り、スマホを手に取る。忙しいから、という理由で断ろうとも思うが、画面に映し出された賢人からのメッセージを見ていると、ふと、賢人に甘えてしまいたい気持ちにもなった。賢人は社会人で、当たり前だが就活を経験している。いま自分が抱えている漠然とした悩みを、賢人に聞いてほしい気もする。
(でも……)
それは迷惑じゃない? 就活の悩みなんて、社会人の賢人からしたら戯言のように聞こえるだけで、そんな話をされても鬱陶しいだけじゃない? いつも真っ先に顔を出す「いい子の柚子」が、そう引き止める。
けれどもその一方で、こんな声もする。甘えてもいいんじゃないかと。賢人になら、この心を侵食する不快な気持ちさえも出してしまっていいんじゃないかと。なぜなら、きっと賢人は、頼られるのを待っている気がする。頼られて嫌だ、迷惑だ、鬱陶しいと、そんなことを言う人ではない。
悩んだ末に、柚子は「はい、会えます。でも午前中が説明会なので、服装がスーツになってしまうのですが、大丈夫ですか」と返事を送った。すぐに既読マークが付いて、「問題ない」という返事と待ち合わせ場所が送られてくる。
その場所と時間をスケジュール手帳に書き込むと、柚子の心はほんの少しだけ軽さを取り戻していた。
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