本気のキスに甘くすがって(R15版)1
「柚子」
沈むようにベッドに横になっている柚子の名前を呼ぶ。
「は、い……」
脱力した声で返事をする柚子の唇に、賢人はちゅ、と短いキスをした。
「体、大丈夫か?」
「はい……大丈夫です」
賢人との性行為に慣れてきたとは思う。しかし毎週しているわけではなく、時には間隔が空くこともあるので、毎度体の中が容赦なく開かれているような気がする。けれども、生まれたままの姿で賢人と抱き合うこの時間は、自分が賢人に不釣り合いだ、というネガティブな思考を抱かずにすむ。それほどまでに賢人が愛情深く、やさしくこの体にふれてくれるからだ。
「賢人さん」
「なんだ」
柚子は賢人の二の腕を胸の中に抱き込むようにしてくっ付きながら話しかけた。
「六月の中旬まで……少し、会えなくなるかもしれません」
今の季節は四月。柚子は大学四年次に上がり、就職活動が始まっていた。
「公務員試験が六月の中旬にあるので……」
「ああ、就活か」
「はい……」
柚子は一応、地方公務員を志望していた。一般企業の採用面接にも行く予定だが、公務員試験に受かって、地元の役所に勤められればいいなと思っている。
「家庭教師のアルバイトも、年度末いっぱいでやめてしまったので……その……お金もあまりなくて」
柚子は大学一年の頃から、高校の恩師の紹介で中学生の女の子の家庭教師を務めていた。その子はこの春で無事に高校生になり、きりがいいので家庭教師のアルバイトは辞めた。その子からも、その子の母親からも、ぜひ続けてくれないかと請われたが、公務員試験に向けた勉強で忙しくなるので、これまでのようにきめ細やかに指導することはできなくなると思い、柚子自身も惜しみながら別れを告げたのだ。
だが、たった一つの収入源がなくなってしまったので、これからはしばらく、わずかな貯金を切り崩すしかない。最低限の食費などは親を頼れるが、賢人とのデートに使えるお金はほぼない。公務員試験は決して簡単ではないので、勉強漬けになることを考えたらアルバイトをしなくても大丈夫だ、とは思ったのだが、賢人との付き合いにはどうしても影響が出てしまう。
「金なら俺が出すからいい……が、そうじゃないよな。試験勉強をしないといけないんだよな」
賢人は柚子の頬を指先でふにふにと軽くつまみながら、優しい目をした。
「俺のことなら気にしなくていい。学生と違って、社会人の数カ月はあっという間に過ぎるからな。会えなくて申し訳ないなんて思わずに、しっかり勉強してくれ」
「はい……すみません」
「謝らなくていい。でも、これは忘れるなよ? 会えるなら柚子に会いたいと、俺はいつでも思ってる。会えない期間があっても俺は平気だが、それは柚子を軽んじているからじゃない。大人の矜持って名前の強がりだ。俺の気持ちを疑ってくれるなよ?」
「ふふっ……わかりました。じゃあ、あの……メッセージはこれまでみたいに、送ってもいいですか?」
柚子は苦笑しながら尋ねた。
「もちろん。お前が大丈夫なら、週末に通話もできる。勉強が嫌だと、愚痴ってきてもいいぞ。まあ、最終的にはケツをたたくけどな?」
「うっ……賢人さん、先生だったら絶対スパルタなタイプですね」
「努力を放棄して自滅したい奴は好きにすればいいが、小さくても目標があるなら、そこを目指すための最大限の努力は続けるべきだろう。俺は応援してるだけだ」
さすが、サッカー部で全国大会に出場する運動神経を持ちながらも、この国で最も権威のある大学を卒業し、大手の証券会社に勤める人だ。みなぎる自信と妥協を許さない姿勢が、明らかにほかの人とは違う。
「応援もしてほしいですけど……もし私が甘やかしてほしい、って言ったら……どうしますか」
そんな賢人を見つめ、柚子は好奇心で尋ねた。
「決まってる。もういい、もうやめて、ってお前が泣いて止めるまで、考えられる限りの方法全部でお前を徹底的に甘やかすだけだ」
(うっ……何それ、どうなっちゃうの……)
徹底的にやると言った賢人なら、本当に妥協せずにそうするだろう。
嬉しくもあるが、自分が駄目人間になってしまいそうで、柚子は少しだけ怖いと思ってしまった。けれども、そんなことを賢人に尋ねられるようになった自分は、賢人に寄りかかる勇気を持てるようになったのかな、とも思った。
◆◇◆◇◆
「お母さん、私、明日はちょっと夜遅いかもしれない」
「あら、そうなの」
五月になり、就職活動の予定が立て込んできた。
夕飯の席で、柚子は母に就活の予定を告げる。
「明日一次面接があるんだけど、夜の七時開始なの。終わったらまっすぐに帰ってくるから、夕飯は家で食べるね」
「はいはい、わかりました」
「どこの会社だ」
母はいつもと変わらない調子で頷いたが、その隣にいた父は表情を険しくさせて、詰問口調で尋ねてきた。
「どこって……普通の……サービス業の会社だけど」
「そんな時間に面接を組むなんて非常識だ。行かなくていい」
「行かなくていいって……そういうわけにはいかないよ」
厳しい口調の父に少しばかり怯えながらも、柚子は首を横に振った。
明日面接を受ける予定の会社は、第一志望というわけではない。面接経験を積むために、練習として受けるだけの会社だ。とはいえ、向こうも時間を割いて面接の時間を確保してくれているわけで、その面接に行かなくていい、なんてことは決してない。
「そもそも、公務員試験を受けるのに、なぜ一般企業の面接に行く必要があるんだ」
「それは……面接の練習のためで……」
公務員試験に受かれば、それだけで就職が決まるというわけではない。その後、合格者に対しては面接が行われ、それを突破して初めて公務員としての採用が決まるのだ。
民間企業の面接とは異なるだろうが、緊張せずになめらかに話せるようになるには、それなりに練習が要る。それに公務員試験に落ちたら、どのみち民間企業に就職するしかない。公務員試験を受けるからといって、一般企業を対象にした就職活動をしなくていい、ということではないのだ。
だが、父はそうした細やかな事情を知らない。かといって、すべてを丁寧に説明するつもりは、柚子にはない。どうせ説明したところで、返ってくるのは否定の言葉ばかりだからだ。
「だいたい、お前は本当に就職するのか? 女が働いてどうする。家のことができないだろう」
今日の父は機嫌が悪いのか、イライラしながら持論を持ち出した。いち早く父の不機嫌さを察知した母は、すっかり貝のように黙っている。
「どうせ女は、男と同じようには働けないんだ。責任も背負えないだろう。就職したところで、結婚すればすぐに仕事を辞めるのが女だ。そうして職場に迷惑をかけるんだったら、最初から働かなければいい。大学なんて行くから、就活という空気に染まるんだ。さっさと見合いをすればよかったものを。まったく、女が社会に出るなんて、ろくなことがない」




