【余計なものが、またひとつ】
セレフィーネの街並みは今日も穏やかで、夏の鮮やかな日差しが朝の大通りに降り注いでいた。天気も良く、旅立ちには爽やかすぎるほどの通りを冒険者ギルドへ向かう最中……ガルドはどうにも集中できなかった。
いつまでも、鼻にあの香りが残っている気がする。
先ほどのルシアンは、不躾に匂いを嗅がれてなお、身じろぎ一つせず、ただ穏やかに笑んでいた。
拒絶がない。揶揄もない。ただ、許していた。
……きっと、“旅立ちの日にふさわしい香り”とでも、彼なりに選んだのだろう、と、思う。だがそれよりも、己の鼻先がそれを“嗅ぎ取った”という事実の方が、ガルドの思考を引き裂いていた。
そして困ったことに、……それがどうしようもなく、いい匂いだった。
鼻を近づけた自分の行動が、明らかに“護衛”の域を逸脱していたと気づいてはいる。なのに、ルシアンは微塵も怒らない。――そう、怒られなかった……もうわからない。
目の前には何も言わず、いつものように歩を進める後ろ姿。淡色の外套、腿の丈のローブ。恐らく中には、あの魔術師の腰装備をつけている。
(……なんつーか……罠が……増えてねぇか……?)
触れてはいけない魔力核、魔力溜まり。”触れたら半殺し”とまで言われるそこを密かに守る腰装備。普段は見えもしないのがまたタチが悪い。しかも”ガルドなら触れてもいい”などと本人からの言質があって……そこにあのどうにも抗いがたい”いい匂い”。
……もしかしたら、明日の朝も嗅いでしまうかもしれないと、頭のどこかで思いながら。
ガルドは冒険者ギルドの扉を、重いため息交じりに開いた。
ギルドの扉を引いた瞬間、いつもの喧騒と、金属のぶつかる音、紙をめくる音が一斉に耳を打つ。けれど、その全てが、なぜかわずかばかり遠く感じた。
「こんにち……あっ……!」
受付にいた職員……ロンドが、ふたりの姿に気づき、反射的に姿勢を正す。その動作に釣られるように、近くの職員たちも一斉に手を止め、目線が集まった。
気づいたルシアンに柔和な微笑みを向けられ、彼らは目礼や会釈を返事として目を逸らしつつ、また書類へと視線を戻していく。
誰も言葉にはしないが、確かにその空気には、ひとつの信頼と、静かな敬意が宿っていた。
「依頼、貼り変わってるな」
ガルドがやや低く呟くように言って、入り口からまっすぐ掲示板の方へ歩を進めた。
その背を、ルシアンが緩やかな歩調で追う。
「……アウルグレイ方面の依頼だよね……」
掲示板を見上げながら、銀の瞳が依頼書の海を泳いだ。ガルドへの問いかけもあったし、自分への言い聞かせもある口調。
小さく頷きながら、ガルドもまた同じように掲示板を見やる。……街中でも、うまい料理屋を探すのに役立つこの鼻の良さは……淡く、けれど確かに、隣の香りを嗅ぎ取ってしまう。
チッ、と舌打ちをひとつ漏らして顔をしかめたのを見て、ギルド職員や冒険者連中がわずかに肩をびくつかせた。
――《峠道の安全確認・痕跡調査》
【依頼内容】
アウルグレイ方面への峠道にて、魔獣の目撃情報あり。地元の荷運び人が足止めされており、安全確認および簡易討伐を依頼する。
【討伐対象】
付近に出没した小~中型魔獣(単体/複数未確定)
【報酬】
銀貨四十枚+討伐数に応じた追加報酬
【備考】
調査範囲はアウルグレイ街道の峠中腹付近。
「道中の依頼はこれくらいだね」
大して興味のなさそうな声色で、ルシアンがぽつりと呟いた。
まぁ、綺麗な景色や不可思議な依頼など、そうそう転がっているものでもない。……ガルドが軽く頷いたのを見て、細い指先が依頼書を引き抜く。
そのまま足取りは、姿勢を正して待つロンドのもとへ。
「っお、おはようございます、ガルドさん、ルシアンさん!ご出立ですか?」
受付のロンドが、旅装となっているふたりを見て、にこやかに声をかけた。ルシアンも微笑をもってそれに頷き、依頼書を差し出しながらもロンドに向き直る。
「ええ、次はアウルグレイに向かおうかと思っています。近辺に、何か面白い話を、ご存じありませんか?」
受け取った依頼書に受領印を押しながら……ロンドが小さく唸った。――”面白い話”……普通であれば珍しい魔物や街のイベントごとだと捉えられるが、ルシアンの求める”面白い話”がそれとは違う意味であることを、セレフィーネ支部の面々はもう痛いほどに理解していた。
――それはもう、徹夜をするほどに。
だからこそ、……自信をもって、情報提供を行える。
「そうですね……アウルグレイでしたら、街道の山中に守り人が眠る廃祠の跡があったようですが、今は風化して基礎だけが残っているとか。近くに魔力を湛えた泉があって、地元の人々の間では、飲むと願いが叶うという噂ですよ」
「おや、それはいいですね」
真正面からの微笑みと賛辞に、不意打ちを食らったロンドが軽く胸を押さえた。その後ろで巻き添えを食らった職員らも、何人か同じように息をつめる。
「っぱ、パーティーの旅の安全をお祈りします……!」
「ありがとうございます。……では、行こうか、ガルド」
軽やかに踵を返したルシアンが、ひらり、と手の先でガルドの外套を揺らした。
ガルドも同じように居直る背後で、小さく「いい匂いが……」「微笑みが……」「麗しい……」などと、うめき声のような音が聞こえてくる。
――む、とした。眉間に深いしわを一つ。
木と花の香り。通り過ぎざま、職員のひとりが小さく息を呑む音さえ聞こえる。
その辺の露店で売っていた香油だ。何も特別な匂いではない。……が。
(……こいつから香るってだけで……)
執着、のような感情は、自分に縁遠いものだと思っていた。だがそれは、そうか対象がいなかっただけだ、と今さらながら気が付く。
無意味な嫉妬だとわかっていても、胸の内がざらついた。香りは拡がる。だが、それを“間近”で感じたのは、この中で自分だけ……その事実にすがるように、また舌打ちがひとつ漏れる。
「……くそ、どうしたらてめぇは」
俺だけになるんだ、などという、醜いぽつりは……その時のガルドには思いつかなかったし、出てもこなかった。低く呟いたその声は、ギルドの喧騒の中で誰にも届かない。
ただ唯一”隣”を任された自分への……背中に感じる無数の視線を振り払うように、重い革靴の音が石床を打つ。
ギルドの大扉を押し開ける。……扉が開かれる直前、背後の受付あたりから、誰かが小さく悩ましげなため息を漏らした気がした。目の前の淡紫は……残念ながら、もうお前らに振り返る気配はなさそうだぞ、と、ガルドがわずかに目を細める。
表の大通りに出れば、朝の市場が賑わいに彩られている。香草と焼き魚の匂い。すれ違う荷馬車のきしみ。けれど、そのどれもが、隣を歩く香りに霞んでいく。
「…………チッ……」
不自然なほど正面を見据えながら、今朝から今までだけでもう何度目かの舌打ち。もうダメだ。一度意識してしまってから、もうダメだ。覚えた、鼻が、完全に。
しかし無情にも、旅はまた始まる。何故なら自分自身が、この男の隣にあると選んだから。微笑に、腰、時おりみせる無邪気さと、どこか触れがたい雰囲気に、今度は“香り”まで引き連れて。
……しかし、とガルドが頭を掻きながら、大通りを街門へと向かうルシアンを横目でちらりと見やる。
(……また”パーティー”か……)
先ほど、ロンドからかけられた見送りの言葉に紛れていた、この関係のありよう。……思い返せば、街に来たばかりの時も、同じようにそう呼ばれた。
その時のルシアンはパーティーという制度に興味を持っただけで、じゃあ登録しよう、という気はなさそうだった。しかし、そんなことよりも、
『私たちの場合、パーティーっていうか……』
あの時、ロンドの話で切られたその先が、ずっとガルドの頭に残っていた。……あの場で言おうとしたことだ、聞けば恐らくあっけらかんと応えてくれる、とは、思う。
何より、今は護衛契約を改めて更新した。関係性は――悪くはないとも思った。
(……聞いてみるか)
人通りが落ち着いた街外れの道、まだ陽射しは柔らかく、旅の始まりを告げる風が吹いていた。
ガルドの足が、半歩だけ速くなる。ほんの少し、先を行く肩を引き止めるように。
「……おい、」
「うん?」
……呼びかけに、ルシアンが立ち止まり、振り返った。
穏やかな微笑みがそこにある。いつもと変わらない……けれど、今はそれがやけに近く感じる。
「前に……ギルドで言いかけたこと、あったろ。パーティーって呼ばれて……」
ガタゴトと、荷車を引いた商隊が、通りをゆく。それに思わず言葉を切り、ガルドがぐっと顎を引いた。
すれ違う荷車をやり過ごし、再びその銀の瞳を見据える。
「……あれ、なんだったんだ」
ただの制度の話ではないのだと、思ったからこそ。肩書きじゃない……”ふたりで旅をしている”という、何か別の言い方。あのときの、あの口ぶり。
その続きを、今なら聞ける気がした。
ルシアンの表情に、風が淡く揺れる。
「ああ、覚えていたかい?」
柔らかな眼差しが、少し照れたように微笑み、……また歩き出す。そのまま街門を抜け、街道に出た。向かうは北西、アウルグレイ方面。
河川からの風に吹かれて、淡紫の髪が緩くそよぐ。銀の瞳がメルダリオの河を臨み、あ、と指をさす。
……セレフィーネ到着初日、逃げるように河を遡上していたケルピーの群れが、跳ねるように河口のほうへ戻ってきていた。
「……そうか、あの守護獣から逃げていたのかもしれないね」
「…………ああ……」
まるで全てが繋がっているようで、ガルドは少し眩しそうに――が、ハッとルシアンに向き直る。
「……誤魔化そうとしてんな」
「ええ?ふふ、バレたね……、なにも、大したことじゃないんだよ」
笑いながら、やや先を歩いていたルシアンが、少し歩調を緩めた。
歩みは自然と横並びになり、しかめっ面をする護衛を楽しそうに見上げてくる。
「ほら、パーティーって、なんだか事務的じゃないかい?」
「……まぁ、だな」
「だったら、私はバディとかがいいなって。そう思っただけだよ」
「…………」
にこり、とその瞳が細くなる。く、とガルドの片眉があがった。
話はそれきりで、ルシアンの目線は河を下るケルピーに夢中になっていた。
「……バディ、ね……」
ぼそりと口の中で繰り返し、ガルドはその言葉の響きを噛みしめた。契約でも、上下でもない、対等な言葉。けれど妙に……収まりがいい感覚があった。――少なくとも、この魔術師と並んで歩いている自分には。
「……そりゃまた、気取った呼び方しやがって」
小さく鼻を鳴らしながらも、歩調は合わせたまま。隣では、ルシアンが眩しそうにケルピーを見送っている。河面を跳ねる水音が、風に乗って響いてくる。
「……とはいえ、高ランクの君をつかまえて”バディ”っていうのも、なんだかね」
「……は、確かにな……」
ああ、それで、言い渋ったか、と、ガルドは黙って歩を進めた。……だがやがて、ぱちりと視線が合って――一つだけ頷いてみせる。バディと呼ばれたその意味を、ただ静かに胸の内に落とし込むように。
海と河川に抱かれた白水門の街と、潮の香りが……少しずつ遠ざかっていった。
――【余計なものが、またひとつ】




