【まごうことなき、罠である】
依頼書にあった峠道までは、一晩野営を挟んで少し行けば到着しそうだった。
久々に歩き通した一日を終え、夕刻。街道脇の草地、少し土が露出した場所に、ガルドが手際よく野営地を設えていく。
……つい今朝方まで高級宿に泊まっていたにもかかわらず、ルシアンは相も変わらず楽しそうにしていた。
「薪、これで足りそうかな」
そんな言葉とともに、近くの林から乾燥した枝を何本か抱えてきて、ルシアンが地面にガラリと置く。それを見たガルドも、小さく肩で笑った。
――ギルドの奴ら、こいつがこんな仕事をするなんて想像もできないだろうな、と。
「ああ……足りんだろ」
ぶっきらぼうにそう答えながらも、張った天幕の下で、虫除けの香を焚く。せめて快適であるようにといつの間にか染みついた習慣は、ガルド本人も気づいていない。
「ねぇガルド、今日の火の番はどちらからにする?」
久々の問いかけに、ガルドがふと顔を上げた。野営の時は、夜半過ぎに夜番を交代する。後先は、その時の気分で決める。ルシアンは……やはり楽しそうだった。
「……先やる。お前は寝とけ」
短くそう答えたガルドも、手早く焚き火の準備を終え、傍らに腰を下ろした。枝の組み方も、石の並べ方も、手慣れたもの。火口を添えた火打ち金に短剣を打ち付ける。一度目の火種が上手くつかなかったが、二度目にはしっかりと炎が灯った。
ルシアンがそれを見て、ふっと笑みをこぼす。生活魔法を心得る魔術師の手からは、……そっと指先に魔力を巡らせれば、それだけで炎が生まれる。それでも、こうしてガルドが灯す火を見ている方が、楽しかった。
「……なんだ、見やがって」
椅子もない地面に当たり前のように腰を下ろし、高級宿に泊まっていたとは思えない態度で草を払うルシアンに、ガルドが呆れ混じりの声をかけた。だがその口調は柔らかく、どこか気遣う気配すらある。
「ふふ、野営をしていると、"旅してる"っていう感じがしてね」
「ったく……のんきなもんだ……」
そうぼやき……護衛はふと視線を逸らす。焚き火を揺らす風の中、かすかにあの香油の匂いが漂う。
朝よりも薄くなっているのに、妙に意識してしまうのは――火を囲んで、距離が近いせいか。
「……、……勘弁しろよ……」
対面の男に聞こえないように、ガルドは低く漏らした。銀の眼差しは、火を見つめている。その表情に、柔らかな灯りが揺れていて。
静かな夜。再び始まった二人旅の、最初の焚き火だった。
林縁の葉擦れの音だけが、穏やかに聞こえていた。魔獣の気配もない。時たま森の小動物が顔を出しては、草陰に消えていく程度。
夜半、空の月の位置を見て、ガルドは腰を上げた。簡単に設えた天幕の下で、焚き火に背を向ける形でルシアンが仮眠をとっている。
……一瞬このまま寝かせてもいいかとも思ったが、朝起きたときに文句を言われそうだ。
「……おい。交代だ」
「うん……?」
手は触れずに声だけをかけると、小さく返事が聞こえて、ルシアンが毛布ごともそりと起き上がる。
「……お疲れさま、ガルド」
「ああ。……魔獣もなんもねぇ。寝てもいいぞ」
「ううん、交代するよ」
ぱさ、と毛布を避けたその下、ローブが捲れて腰の編み上げが見えていた。……のを、しっかりと見てしまい、……不自然ではない程度に、ガルドはそろりと目を逸らす。
緩く立ち上がり、焚き火のほうへいく淡紫の影。――当の本人は、やはりのんきなもの……というより無防備なものだった。
「手帳にケルピーのことでも書こうかな」
「……好きにしろ」
火の番を交代し、ガルドは少し離れた場所に腰を下ろす。その視線は、焚き火の向こう――手帳を開く、ルシアンの指先へ。
淡く揺れる炎の光が、彼の柔らかな輪郭を照らしている。
ガルドの視線は、その手元を見るようで、淡い輪郭を見るようで、もう全く何も見ていない。
(……ッいや、動揺しすぎだろ……)
――そう、内面が大変なことになっていた。
ローブの隙間から見えた、生成りの防具。
常時であれば、目にする機会などない、核心を守る装備が、……今も彼を守っている。
いや、今のは別に、見たくて見たわけじゃない。まして故意でもない……事故で、たまたまで……そんな苦しい言い訳を、自分の中で繰り返す。
それでも、見えたものは、消せない。
「――……」
思わず喉が鳴りそうになり、雑に手元の水袋を引き寄せる。がぶ、とひと口。ぬるい水が、乾いた喉奥を流れていった。
(落ち着け……仮眠だ……今は……)
対してルシアンは、膝を立てて手帳に文字を綴っている。その佇まいがまた、どこか無防備極まりないとわかっているのか、いないのか。……いや、そう感じているのは自分だけか。
月明かりと焚き火の灯りの中、ふわりと流れる香りがまた、ガルドの鼻腔をくすぐる。
「……っ……寝る」
「ああ、うん。おやすみ」
トドメとばかりにガルドは、焚き火に薪を乱暴に押し込んだ。ぼっと少し高く火が上がる。
それでもそばにいる魔術師は気にする素振りもなく、手帳をめくる音だけが、夜気に溶けていった。
その日の仮眠は……もう、まごうことなき、罠だった……。
寝床に入ったガルドの鼻に、ルシアンの香油の香りが漂ってくる。
……それはそうだ、さっきまでこの毛布を使っていた。……どこで、――どこで間違えた。そう自問しながらも、毛布は避けない。
(……先に、仮眠……取らせたのが、ダメだったか……)
木と花のような香りに、柔らかな――恐らくルシアン自身の匂い。
これまでの旅路では気にも留めていなかったというのに、もう、無理だ、だいぶまずい。
背後では、焚き火の炎がぱちりと音を立てている。ルシアンの気配とともにそれを聞きながら、ガルドは寝返りすら打てずにいた。
(……くそ……なんでこんないい匂いすんだ……)
毛布にはっきりと染み付いた香り。しかも、それが"ここにいた証拠"だと想像――どころか裏付けまで取れてしまう分、余計に脳裏から離れない。
(そんで……あいつはのんきに手帳開いて……)
考えれば考えるほど、わけがわからなくなっていく。わけがわからないことがわかっているのに、胸の奥の焦燥は消えない。
「……バディって……こんなしんどいのか……?」
どこにも聞こえないように、低く呟く。焚き火の向こうでは、ページをめくる音がひとつだけ。
月が雲間から顔を出し、地面に淡く光が差す。香りがまた少し強くなる気がして――毛布をかぶり直し、顔を背ける。けれど眠れやしない。
緩やかに流れる雲が月を隠し、闇が一瞬濃くなる中……ガルドは背中を固くしたままの姿勢で目を閉じた。
誰よりも鋭敏な嗅覚を持つ男が、眠れぬ夜を過ごす羽目になるなど、誰が予想しただろう。
こんなに精神が消耗するのは、かつての壁画調査の村での、あの清拭の音やら何やらとどっこいどっこいだ。
今後の野営の夜番、その後先を考慮するには十分すぎる要素。でもどこか、これを"落ち着く匂い"に昇華させかけている自分もいた。
(……次の夜番は、俺が先に……)
きつく閉じた瞼の奥で、思考は回る。
そう、夜番を……いやだがしかし、……しかし……。
……後先は、やはり……その時の気分でいいかもしれない……。
絶妙に切り捨てられない香りへの未練と共に、というかもはや嗅覚に馴染みつつある匂いに……ガルドはひたすらに夜が明けるのを待った。
――【まごうことなき、罠である】




