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ルシアンの物見遊山  作者: フジイさんち
濁潮の咆哮
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【濁潮の咆哮】


わずかな海中の振動は、海面にまで上がってきていた。波が微細な振動を見せる。この大きな船すら、ギシギシと震える。

ふと何かの気配を感じたルシアンが頭上を見上げると、件の水紋らしきが船の上に浮いていた。歪な円の中に、何らかの意匠。

……人間の言葉ではない。文字なのかすら危うい。けれど確かに、……何かの意思を感じた。


ズンッ……!


また、海中から振動が響いた。

あちらはガルドの領域だ。ならば、自分の領域はこちら側、船の上、あの水紋だ。


水紋の真下まで進み、くるりと向きを変える。もう一度向きを変える。上下もわからないが、白く発光するそれに、害意は感じられなかった。

波打つ海面から顔を上げたギルドの補助要員が、ルシアンとその上に浮かぶ水紋に気づき……書板を手に慌てて駆けてくる。


「!水紋がっ……す、すべての船で、全く同じものが確認されています!」

「円の中の意匠も同じですか?」

「え、ええ!」


資料を手に何度も頷いた補助要員に、一つだけ「ふむ」と返し……それきり、ルシアンが黙った。補助要員も、押し黙る。



(……なんだろうね、これは)



揺れる足場には目もくれず、ルシアンは白く揺らめくその紋章から目が離せなかった。

水紋に、魔術用語などどこにもない。古代文字でもない。……これは、人間の理の外にある。

であれば、これの発信源としてもっとも可能性が高いのは、今、かの護衛が相対している水中の魔獣。


頭上の紋様に意識を集中させる。魔方陣、のようなものではない。何らかの魔術が組み込まれているかと思ったが、”これ”は空っぽで、ただここにあるのが役目のようだった。

そして何より、この水紋から害意は感じ取れない。……けれども今も、水中からは害意・敵意・殺意が溢れてきていた。


「……意識の乖離(かいり)……」


薄くぼやくルシアンに、書板を手にした補助要員がそわ、と、自分の肩を抱いた。


「果たしてどちらが本心か……あれの姿が見てみたい」


陽光を受けた銀の眼差しが、くるりと海中に向けられる。

深い闇の中、狩りは、まだまだ終わらなさそうだった。




一方海中でガルドは、その視線を確かに感じていた。

見ている、あの銀の瞳が。今にも飛び込んできそうな圧で。


(――まさか見てぇだの言わねぇよな)


ふとそんなバカげた可能性が浮かんだが、……ありえそうでしかなかった。それはどうにか諦めてほしい、と緩く肩を回す。


シーグロウルは今、ガルドの周囲をぐるりと旋回していた。

隙を窺っているのか、地の利を理解しているのか、ゆらりと優雅に。


(……くそ、面倒だ)


息継ぎのため、水中を一蹴りする。シーグロウルが追ってくるかと思ったが、それは逆に、海中深くに沈んでいった。……バシャリ。


「……っはぁ!」


水面に顔を出すと、船乗りが数人身を乗り出してきた。

その傍らの銀の瞳と、視線が絡む。


「……でけぇ。シーグロウルの十二メートル級。両ヒレに波紋状の紋様」


端的に伝えると、ルシアンが頷いて船の上を指さした。


「これと同じ意匠だったかい?」


ガルドがそれを見上げ、怪訝そうに眉をしかめる。


「いや、ちげぇ。なんだそりゃ」

「報告にあった水紋だよ。他に何か情報は?」

「あー……、光ってた。紋様が。水中で金色に」


ざわ、と船の上がさざめく。今まで特定できなかった情報に、補助要員たちが頭を突き合わせる。


「ガルド、一度上がってこれるかい」


問われ、ガルドはもう一度だけ海中を振り返った。シーグロウルの巨影は、すでに水底に沈んで姿を消している。

だが気配は、消えていない。――潜って、構えている。それが……不気味だった。


「……ああ。上がる」


ひとつ頷いて、海面に垂れた縄梯子を掴む。びしょ濡れのまま甲板に這い上がると、船乗りが慌ててタオルを差し出す。

しかしそれを片手だけで制して、ルシアンの示す水紋の中心へと歩み寄っていった。

濡れた髪から滴が落ちる。甲板の上を一歩進むたび、足元の木板が軋む。けれどそんな些細なことには目もくれず、ガルドはその白く浮かぶ紋様を、真下から見上げることとなった。


「……やっぱり、ちげぇな」


呟き、視線を巡らす。紋様の曲線、中心の意匠。

どれも、さっき見たヒレの紋様とは形状が異なっていた。


「ヒレにあったのは、こういうんじゃねぇ。円なのには変わりねぇが……」


低い呟きに顔を上げたのは、書板を抱えた補助要員らだった。


「”意図的な模様と、自然に現れる魔力痕の乖離”……!?」

「じゃあ……やはり、これは敵意じゃない……のか?」

「でも、現にあれは攻撃してるんだぞ!?」

「じゃあふたつに分裂してるとか……?」

「いや、精神の断層かも……あっ、前例があったな確か、霊域で……!」


船上が一気に騒がしくなる。……なんの話だ、とガルドがルシアンを見やるが、ルシアンも同じような表情をして、小さく肩をすくめただけ。その眼差しが少しだけそちらへ流れるが……すぐに水紋へと戻る。

唇が、ほんのわずかに笑みの形を描いていたが、その騒動に入っていくつもりは毛頭ないようだった。


そののち、静かに目線を海へ向ける。品の良い顔に浮かんだのは、柔らかな微笑でも、冷たい理性でもなく――黙して湛えられた“好奇”の色だった。


ガルドが、ぐっと奥歯を噛みしめる。今の自分の心境に適切な音をつけるとすれば、”ぎくり”だ。その表情は、初めて見た。


「……、お前……」


……やりづれぇ。


その一言を飲み込んだとき、海面がふたたび――静かにゆらいだ。ちゃぷりと小さなその波音に、乗員たちがまた身を乗り出して海面を覗く。


「ま、また来るのか!!」

「その紋様、なんとか見れないか……!」


ざわり、ざわりと交わされる声の中。


ルシアンとガルドだけが、向かい合っていた。



「……さて、ガルド」

「……ああ」


落ちた返事は、ため息交じりだった。ぽた、と黒髪から、海水が滴る。


「ほかの種より大きな個体、特徴的な紋様、潮の流れを変えるほどの強大な力。あれはそれを持っている」

「……そう、だな」

「私も古い文献でしか読んだことがない。存在すら怪しかったけれど、……あれはただの魔獣じゃない。恐らく、この海域の守護獣だよ、ガルド」


……ガルドが息を止め、次に大きく舌打ちをした。

紡がれた言葉は、(そら)んじられた正体は、決して一息に聞き流していいものではなかった。


「船の上の水紋からは、全く害意を感じない。けれど、君は海中で明確な敵意を感じた。それは合っている?」

「ああ。……どうすりゃいい」


ゆらりと、海底からまた気配が立ち上ってきた。

ガルドの視線が海面へ行きそうになり、けれどもルシアンから目を逸らせなかった。


「本来守護獣は、こうした攻撃的行動はとらないという。とるとすれば、老齢で判断力が落ちたか、格が落ち守護獣ではなくなってしまったか。でも、”金紋は輝いていた”んだね?」

「……ああ」

「ならば、あれはまだ守護獣だ。そして、空の水紋は恐らく私たちへの警告だ」


ルシアンの指が、上空の水紋を示す。

まだそこで、白く輝いている。何かを伝えるように、穏やかに。


「こうして近海を通過する船に、ここを離れろと言っている可能性がある。まだ知性が残っている。けれど、身体はもういうことを聞いていない」

「…………」

「……倒すのが、唯一の救いになるかもしれない、ガルド」


大きく、船が軋んだ。その軋みに、ガルドが即座に海面へ振り返る。

波は小さく、しかし確実に”揺れ”を孕んでいた。重たい何かが、こちらへ昇ってきている――そう感じさせる沈圧。


ルシアンへ視線を戻す。


銀の瞳は、まっすぐに海を見ていた。もうあの好奇に満ち満ちた眼差しはなく、すでに役目を終えたようにただそこにいる。

それを見て、ガルドは――あえてもう一度、深く息を吐いた。


「……てめぇの”情け”ってのは、おっかねぇな」


そう言い残して、海へ向かって跳ねた。甲板の端に足を掛け、宙を裂いて飛ぶ。

海面が、彼の突入を迎えるように波紋を広げた。


ザブンッ――。


海へと、再び。……けれど、さっきとは違う。


今度は明確な目的が、……示された指標がある。それが果たして”殺し”か”救い”か……それを決めるのは誰でもないことだけが確かで。いずれにせよ、これは終わらせるための一撃だ。


仄暗(ほのぐら)い海底から立ち上る紺碧の中、赤い双眸はすでに深海の影を捉えている。

巨大な影が、今、こちらへ向かって――浮上していた。






――【濁潮の咆哮】

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