【星を見る子ども】
宿に戻り、それぞれの部屋に帰る頃には、とっぷりと夜が更けていた。
帰りの道中は、ほとんど言葉を交わさなかった。どこか、"送り"の余韻が深く残っていて。
宿の自室で、ガルドが外套を脱ぐ。靴も脱ぎ、どさりとベッドに横たわった。
……少年へ問いかける声が震えそうだった。守らなければと思った。帰り道をずっと探していた。小さな子どもが一人で、夜に、ずっと。
そう思うと、頭がおかしくなりそうだった。
だが自分では、恐らくあれ以上何もできなかった。それが頭をぐるぐると回る。
――コン、と扉が一度だけノックされる音が、暗い部屋に響いた。
扉に視線を投げる。一瞬どきりとしたが、よく知った気配だった。
「……開いてる」
聞こえるかどうかの声で応えれば、静かに扉が開いてルシアンが入ってくる。少し、困ったように笑っていた。
ガルドと同じように、どこにもやれない思いを抱いているようだった。
それを見とめてむくりと起き上がり、ベッドから降りようとすれば、無言のままに手で制された。
柔らかな気配はそのまま黙って、寝台の縁に片膝をかけてくる。
「――なん、だ」
「……見えなかった。……何も、聞こえなかった」
「……、……お前が送った」
ゆらりとルシアンの身体が沈んで、そのままベッドに横たわる。
掛け布団をひいて、……寝る体勢に入っていた。
「……それでも、君がいなければ、素通りしていたよ。……ありがとう、ガルド」
ガルドは、しばらく動かなかった。
隣に沈んだ淡紫の影。布団に伏せられた顔。その隣に、ぽっかりと一人分、用意された空間。
その全部がいつもと違って、けれど、ちゃんと"ルシアン"だった。
「…………」
無言のまま、肩を緩める。
そっと、開けられた場所へと布団を持ち上げ、重く沈んだ身体をそこに預けた。
隣に人がいるのに、背を向けるのは苦手だった。けれど正面から向き合うには、言葉がうまく出てこなかった。
ただ、わずかに横を向いて、静かに隣の気配を感じる。呼吸。体温。匂い。
ルシアンは何も言わず、けれど確かにそこにいた。枕に広がる淡紫の髪が、肩の上下でかすかに揺れている。
「……見えた。あいつの声が」
「…………」
ガルドからぽつりと漏れたその声は、思考よりも先に出ていた。
「"帰り道がわからない"って、言ってた……あんなとこで、一人で」
喉奥で詰まるような音。
ルシアンは目を閉じたまま、黙って聞いていた。
「……ああいうのは、……」
それっきり、ぷつりとそこで言葉が止まる。
視界の端、ルシアンの肩がわずかに寄ってきた。
その距離は、慰めでも、寄り添いでもない。ただ"ここにいる"という、確かな気配。
ガルドは、深く息を吐いた。頭を抱えるように、腕を顔に乗せる。
「……お前がいてくれて、よかった」
その声は、夜の中へ溶けていく。……返事はなかった。
けれど、その沈黙は、確かに隣に在った。
夜に迷ったままだった、小さな命。星の先へ還っていったその背に、もう手は届かない。
けれど、それでも――"ひとりじゃなかった"と、あの子どもが思えていたなら。
ルシアンの呼吸が、ほんの少し深くなった気がした。静かにゆっくりと、まるで言葉の代わりのように。
布越しに伝わる体温。眠っているわけでも、無理に気丈に振る舞っているわけでもない。
ただ、あの子どもの"気配"を、今もどこかで受け止めているのだと――そう感じさせた。
ガルドは額を押さえたまま、もう一度息をついた。掠れるような吐息に、胸の奥のざらつきが少しだけほどけていく。
港の夜が、ようやく静かに明けようとしていた。
――翌朝。
ルシアンの部屋で朝食を取りながら、ガルドは窓から見える海を眺めていた。
終わったことへの安堵が、夜が明け、暖かい朝食を食べたことで、今……身に染みている。
「……ありゃあ、どういう魔法だったんだ。あんのか、なんか、そういうのが」
正面で食事をするルシアンに、そう問いかけてみる。
魔術師の中には、不死系の魔物を浄化する者もいるという。ガルドもかつて一度だけ、そんな魔術師とパーティーを組んだことはあった。
が、浄化魔法はもっと乱暴で、強制的なものだった。
だからこそ、あの"送り"が深く刺さった。
「光の玉は、ただの道標だよ。星を指標にしていたみたいだったから」
「……あの魔方陣みてぇなのは」
「ううん……あの土壇場で練ったものだから……。性質的には、座標を定めるような……」
言いながらルシアンが、ガルドを見る。……続けろ、とその赤い瞳が言う。
ルシアンの魔法を信じていないのではない。同じものを知ろうとする目だ。
「……たとえば防御魔法は、座標を定めて使うんだ。君の肌に纏うようにとか、私の前に壁のようにとか」
「んん……」
「対して回復魔法は、相手の内に届かなければいけない。"壁"を越えて届かないと、伝わらない」
ぎゅ、とガルドの眉間に皺が寄る。
――やや下がり眉で、柔らかくルシアンの頬が緩んだ。
「……つまりは?」
「そういった魔術の性質の応用で、あの子のいきたいところに座標を据えて、帰れる場所があるならそこに届くようにした。あの子の家族のもとでも、信じる神のもとでも、星のもとでも」
「…………」
「どこへいったかまでは、わからない。……けれど、帰れていればいいね」
昨夜の、見送るようなルシアンの眼差しを、ガルドは思い出していた。
あの少年の最後の一歩が、誰かのもとへ帰るように弾んだことも、思い出した。
――そんな魔術を土壇場で練ったと、平然と言ってのける彼は。
「ギルドになんて報告しようね」
……なんて、困ったように微笑むだけで。
「……魔術師ってのは、皆そんなもんなのか」
スプーンを器に置き、ガルドがぽつりと呟く。呆れとも、賞賛とも、感嘆ともつかぬ声色。
彼が言うことは、やはりガルドには少々小難しかった。きっと自分にもわかるように、かなり噛み砕いて説明をしたのだと思う。
帰る座標を与える魔法。別々の魔術の性質を応用し、目に見えない存在に作用させる。
――魔術師の界隈で、そんな手法があるのかもわからない。なかったのだとしても、目の前の男はそれをやってのける。
「……お前が、いてよかった」
「……そうかい?」
「ああ」
昨夜と同じ言葉が、今朝の声で落とされた。言葉を濁さず、ただまっすぐに。
「ギルドには適当に報告すりゃいい。……こういうことも、たまにある」
眉をしかめるガルドに、ルシアンが小さく笑う。その笑みに、ようやく空気が緩んだ。
パンをちぎり、スープに浸して口に運ぶ。咀嚼する合間に、赤い瞳がちらとルシアンを見やった。
「……しかしあれだな」
「うん?」
「お前が"ああいうの"が苦手なのは、意外だった」
「…………」
ちろ、と銀の瞳がガルドを見た。……否定も肯定もないことこそが、それを認めているという何よりの証になってしまう。
ルシアンも何ひとつ言葉を足さず、一度だけ肩をすくめて食事に戻る。わずかばかり、ガルドの口角が緩んだ気配がした。
――【星を見る子ども】




