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ルシアンの物見遊山  作者: フジイさんち
セレフィーネ
37/54

【しずく】



虫の音も聞こえないほどの、――深夜。


ちゃぷ――、と、水の音で意識が戻った。


焚き火が爆ぜる音もする。その中で、しゅる、ちゃぽ、という音。

ぼやりとした頭で、ガルドが目線だけを動かした。焚き火のそば、夜番をしているルシアンからだ。


携帯用の小さな木桶に、水をためている。

手のひらから水が滴る。ついで、小瓶から薬草のオイルを数滴。


ちゃぷ――。そこに、布をひたす音だった。


次に、旅装を外していく。

淡い色の外套を脱ぎ、ローブを外し、シャツの前をはだける。

腰の編み上げを、するりと――


(――まずい)


ガルドが咄嗟に、目をつぶった。

……清拭(せいしき)だ。野営時は、宿と違って風呂には入れない。

どこかのタイミングでしているのだろうとは思っていたが、そうか、夜番の時だったか。


薄く目を開けて天の月を見る。位置的に、まだ交代の時間ではない。

――だが、完全に目が冴えてしまった。


相変わらず焚き火のほうから、水の音と布を絞る音がする。

それがしゅるりと肌を撫でるような音も。


薬草の香りが漂ってくる。

そういえば、確かに野営明けのルシアンからは、こんな香りがしていた。

なるほど――と思いながらも、なるほどじゃねぇ……と自分を戒める。


「……くそ……」


小さく吐き出した声は、枕にした腕の中に沈む。

寝返りを打つふりをして、体ごと反対を向いた。背を向けても、意識だけはいやに冴えて、音を拾いすぎる。


――ぴちゃ、しゅる、くしゅ。


湿った布が肌を拭うたびに、かすかに布が擦れる音がする。

それが、妙に柔らかく、しっとりとしていて、想像力を否応なく刺激する。

ただでさえ夜は静かで、すべてがよく響く。


(……なんで声ひとつ立てねぇんだよ、あの野郎)


気配も、息遣いも、極限まで抑えている。

それは明らかに、“見られてもいい”とは、一切思っていない証拠。

だが、それがまた妙に真面目で、……余計に引っかかる。


ガルドは、薄く開いた目で焚き火の灯りを背に受けながら、さらに深く寝床に沈み込んだ。

それでも脳裏には、見えてしまった一瞬の輪郭と、香りと、音の残滓(ざんし)が焼きついて離れない。


(……っざけんな、今度から夜番、全部やる)


ムキになり、そんなバカげた結論にたどり着く。はるか背後で、焚き火がぱちりと爆ぜた。

その音を合図にしたように、薬草の香りがふんわりと鼻腔を撫でる。


理性という名の糸が、夜風にひやりと軋んだ気がした。




――起きたふりをするか、寝たふりをするか。

――寝返りを打つか、唸ってみるか。


様々なことを考えながら、永遠とも思える時間を、ガルドは過ごしていた。


いつの間にか清拭は終わっていたのだが、身動きが取れない。

そのうち、パタン、と手帳が閉じられる音がする。

立ち上がる気配があって、ルシアンが寝床のほうへやってきた。ガルドの横に屈み、腕に触れてくる。


「ガルド、そろそろ交代だよ」


……それは、まるで救いの声のようだった。あたかも今起きたかのように、片目を開ける。

のどがカラカラで、「おう」と出た返事は、とても寝起きのようだった。


ガルドが上体を起こすと、先ほどの薬草水の香りがする。

無意識に、眉根にしわが寄った。


「……あ、ごめん、匂うかい?さっき清拭したから」


ガルドの表情を見て、ルシアンが少し眉を下げた。

清拭の話題に一瞬息が詰まりかけたが、外套を無造作に羽織る。


「いや……水、まだあんのか」

「清拭の?……出せるけど、それでもいいなら」

「……ああ?」


”出せる”とは、と、ガルドが怪訝な顔をする。それを見とめ、ルシアンも小さく首を(かし)いだ。

ガルドの眼前で、上に向けられたルシアンの手のひらから、滾々(こんこん)と水があふれてくる。

ぎょっとする。川で汲んできた水じゃなかったのか、と。


「……てめぇ、……なんだそりゃ、何の水だ」

「”しずく”っていう生活魔法だよ。……人にあげたことはないけど」

「…………飲めん、のか」

「飲めるけど、魔力で作られた水だから、多飲するのはおすすめしないよ。清拭に使う分には全然問題ない。ガルドも使う?」


ぱた、ぱたた、と足元に、澄んだ水が滴る。地面に落ちた水滴に、ガルドが指先でだけ触れてみれば――ひやりと心地よく湿った。


「……っ、いや、使わねぇ」


その温度を払うように指をこすり合わせ、顔を逸らすようにして立ち上がる。


「……交代だろ。寝とけ」

「うん、ありがとう」


そのやりとりの後にもそり、と寝床に入っていく背を見て、かすかに息をつく。

傍らに置かれていた皮の水袋を拾い、無言のまま腰にぶら下げる。喉の渇きも、清拭の水も、いつも通り調達してくる。それでいい。


それでも……、あの手のひらから滴り落ちていた“水”の光景は、頭の奥にこびりついて離れなかった。

闇の中で静かに溢れる、あまりに自然な、魔力の水。指先に感じた冷たさは、まだぬぐい切れない。

“人にあげたことはない”――そう聞かされて、内心、訳のわからない焦りすら滲んだ。


(……くれてたまるか、あんなもん、誰にも)


焚き火に薪をくべ、夜番の位置につきながら、ガルドは深く息を吐いた。

視線を村跡の方へ向け、もう一度、闇に沈む壁画も見上げる。


「……調査どころじゃねぇ……ったく」


ぼやく声には、諦観(ていかん)の色が見えた。薬草の香りだけが、まだ薄く周囲に残っている。

その香りが、夜の静けさに滲み込んでいくのを感じながら、ガルドは夜番としての静かな時間に身を預けた。


だがやはり耳だけが、ずっと熱を持っていた。






――【しずく】

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