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Key・Box  作者: しなも
第一章 ユグラシアス王国編
6/9

第一章5 無色のハコ


フェンス越しに立つ大柄な背中、茶の髪の間に混じる赤い筋が陽に拾われて揺れた。


その姿が視界に捉えた瞬間、ユノの胸の奥がきゅっと小さく締まった。

何度も見てきたはずの光景だ。それでも、近づくたびに同じ感覚が胸に残る。


……やっぱり、この人は――


団員たちへ的確な指導、長年の経験を感じさせる迷いのない動きで場を指揮している。

豪快に笑う顔を知っているからこそ、今、そこに立つ『団長』の背中は、別の輪郭を持って見えた。

自分がまだ立ったことのない場所に、当たり前のように立っている。

追いつきたい。とは思わない。

ただ、その背中が視界に入るたび、自分の立っている位置がはっきりする。


――遠い――


しかし、その”距離”は羨望ではなく、まっすぐな尊敬として、胸の奥に静かに残っていた。


訓練場から木製の武器が打ち合わさり、踏み込む足が土を押し固める音が低く返ってくる。

その少し奥では、弓を引き絞る弦の音が細く長く空気を震わせていた。

踏み固められた地面から、乾いた土の匂いが立つ。

動きが止まる瞬間も場が緩むことはなく、音が重なり合いながらあちらこちらから団員の声や熱意が伝わっていた。


ルオエンは腕を組み、訓練場全体を見渡しながら、歩きまわり、視線はゆっくりと移り、団員一人一人の動きや癖を逃さず拾っていた。

決して怒鳴ることはない。的確な指摘に、団員たちは応えるように動きを正す。

いつの間にか、足運びが変わり、構えもすぐに整っていった。


そして、また木剣の音が再び重なり始めた。


その少し奥では、弓の弦が張る音が重なる。弦が返るたび、乾いた音が奥へ抜けていった。

音が重なり直したところで、カイルが小さく息を吐き、視線をフェンス越しの背中に留めた。


「あの感じ、変わってねぇな」


腕を組み直しながらぶっきらぼうな声で言ったあと、フェンスの向こうへ視線を向け、口元だけがわずかに固くなった。

ルイは、視線を持ち上げ、並ぶ木の杭や擦り切れた訓練用の的を見渡した。

木剣が打ち合わされる音が重なり、張りつめた空気がその小さな身体を包む。

その音から逃れるように、ルイは訓練場の熱を正面から受けない位置”ユノの横”へと寄る。

ユノの服の袖の先を小さな指先でそっと掴み、足元に視線を留めた。


そのとき——



「お。なんだ、来てたのか」

その声をきっかけにカイルの口元がほどけ、ルイの指先が袖を掴み直す。

カイルは、ルオエンに向けて両手を軽く上げて制す。


「父さん。顔出しに来ただけだって。」


ルオエンは一度、喉を鳴らすように笑う。

腹に響くいつもの笑いだった。


「がっはは!なんだ、カイルよ。随分と照屋さんじゃないか。

相変わらずだな、お前は。もう少し甘えに来てもいいんだぞ?」


ルイが、眉をひそめたままルオエンを見る。


「おっと怖い怖い。悪かったよ、ルイちゃん」

ルオエンは両手を軽く上げてみせる。


ルイは返事をせず、ぷいと視線を逸らした。

ユノが小さく頭を下げる。

ルオエンは気軽に手を振り、それから思い出したように続けた。


「そういや――最近の仕事はどうだ?」


声の調子は変わらなく、ユノに尋ねた。

だが、向けられる視線はまっすぐだった。


ユノは背筋をわずかに整え、足元を揃えて向き直す。息を吸い直してから、口を開く。


「...はい.!カイルにはいろいろ助けてもらってますが....」


「おぉ?それなら安心だな。町の困りごとは、ある程度は防衛団で対処してはいるつもりだが......まぁなんだ、お前たちのほうが俺ら防衛団より気軽に頼めるのだろうよ。これからもやってくれると助かる」


ユノは一度だけ息を整える。

考え込む様子はなく、素直に口を開いた。

「はい。頑張ります。カイル。これからも、よろしくな」


一拍遅れて、カイルが喉を鳴らす。

「お、おう」

短く返した声は、さっきより少しだけ低かった。


そのやり取りのあいだも団員達の訓練は続いていたが、声の張りは少しだけ落ち、三人の立つ場所には私的な温度が残った。


ルイは何も言わず、指先で毛先をいじいじと弄っていて、もう片方の手は、ユノの服の袖をつかんだままだ。ふと、ある光景がルイの目に入った。


ルイの体より大きな火の塊が、岩壁に叩きつけられて弾けた。

次の瞬間には、地面から氷柱が突き上がり、白い破片が周囲に散る。

さらに雷光が走り、岩肌を一瞬だけ昼のように照らした。

ルイは何も言わず、指先で毛先をいじいじと弄っていて、もう片方の手は、ユノの服の袖をつかんだままだ。

ふと、ある光景がルイの目に入った。

ルイの体より大きな火の塊が、岩壁に叩きつけられて弾けた。


 次の瞬間――


地面から氷柱が突き上がり、白い破片が周囲に散る。

さらに雷光が走り、岩肌を一瞬だけ昼のように照らした。



「……わぁ」



こぼれた声は小さかった。

それでも、思わず漏れてしまったような響きだった。


ユノが横目でルイを見る。


「おぉ....やっぱすごいな....」


ルイは少し遅れて、小さくうなずく。

袖をつかむ指先に、さっきより力が入っていた。


「......うん.....すごい」

つぶやきに近い声だった。


ルオエンがその様子を見て、喉の奥で短く笑う。


「はっははは、慣れてないと驚くわな」


ユノは訓練場へ視線を戻したまま言う。


「俺もそのうちできるようになるのかな....」


ルオエンはちらりとユノを見る。

「ユノ、お前さんは、魔法を使えるようになりたいのか」

腕を組んだまま、訓練場へ視線を戻す。

「簡単に出しているように見えるが、実は難しいんだぞ?

まずイメージしながら魔力を練る。形を作る。そこから放つ。基本のステップはこんな感じだ。

"出す"だけなら雑な練りと放つだけできて簡単だが、それだと自分が思っていた場所に当てられないし、威力も落ちる。狙って制御するとなると話は別だ」


少し間を置く。


「魔法も適性もあるし、仕組みを理解する知識もいる。それに、練習もかなり必要だ。魔力を練る、形を作り、放つ…… 魔法によっては、暴走や暴発を起こさないように加減したり”並列思考”できるように練習も必要だったりする。まぁその練習量もセンスも適性も――人によって全部違う」


そう言って、顎で訓練場を指した。


「あいつらも、最初からあんなに出来たわけじゃなかったからな....」


また、間を置く。


「……お前ら、防衛団に入りたいのか?」


ユノは少し考えてから、首を横に振った。


「……まだ、分からない」


カイルはすぐに口を開く。

「俺は入りたいが」


ルオエンがちらりとカイルを見る。


「がっはははは、カイル。言わんくてももう知ってるぞ」


カイルが眉をひそめた。

「……別に言ったっていいだろ」


ルオエンは肩をすくめる。

「まぁ、頑張れよ。また色々見てやっから」

カイルは一瞬きょとんとした顔をして、それから小さく笑った。



それ以降の話題は、取り留めない話が続いた。

その間、ルイは黙ったまま。ユノのそばから離れようとはせず、近さを確かめるように指先でユノの服の袖を掴み、話を聞いていた。

ユノは、その弱い支えに気づくたびに肩の向きをほんの少しだけルイのほうへ寄せていた。


ルオエンは腕を組んだまま、並ぶ二人の立ち位置を確かめるように目を細め、顎に軽く指を当てた。


「そういや……いつもの嬢ちゃんは一緒じゃねぇのか?」


その問いにカイルが小さく首を傾げた。

「嬢ちゃんって……ユリネのことか?」


「ああ。そういえば来てないと思ってだな。いつもお前ら三人でうろついているもんだから。なんかあったのか?」

茶色の髪に混じる赤い筋が、ルオエンが首を傾げた拍子にわずかに揺れる。

カイルは、また短い間を置いてから、ぶっきらぼうに続ける。


「あー。最近、あいつ、家の手伝いだか何だかわかんねぇけど……忙しいっぽいわ」


ルオエンは短く息を吐き、腕を組み直した。


「なんだ、忙しいのか。……まぁ、お前たちも色々あるのか」


ユノは少し視線を落とし、曖昧に頷いた。


「まぁ、はい。そうですね。忙しいです」


「おい。適当なことをいうなよ。話ちゃんと聞いてたか?ってか、俺らは、いつもと変わらねぇだろ。」

カイルの肩がわずかに上がり、語尾が強くなる。

その横でルイがユノの袖をつかんだまま、小さく口を尖らせる。


一拍おいて、ルオエンの腹の奥から笑い声がこぼれる。


「がっはははは!お前たち、やっぱ仲いいなあ!」


ルオエンの低く響く笑いと訓練場の乾いた音に混じり、その余韻がしばらく残った。



風が砂を少し巻き上げ、遠くで団員の声や足音が散る。

ルオエンは背後を振り返り、ひと息吸う。

戻る方向が定まった気配だけが、その場に残った。


「さて……そろそろ戻らねぇとな」


カイルとユノは言葉では返さず、わずかに顎を引く仕草で応じる。

ルイは小さくユノのほうへ身を寄せ、視線を動かさないまま瞬きをする。


その様子を視界に収めて、ルオエンは目尻をわずかに落とした。


「おし、お前ら。気をつけて帰れよ。明日、祭りだ……浮かれすぎんなよ」


それだけ告げて、背を向ける。


振られた手は遠ざかり、背中の大きさだけが最後まで残った。

三人はしばらくその背を見送り、やがて輪郭が音に溶けた。


ルオエンと別れ、三人は訓練場を離れた。

フェンスの影が足元を横切り、白く乾いた砂が靴裏に薄く残る。


ルイは、ユノの服の袖を掴んだまま歩いていたが、指の力がわずかに緩む。

指先が動き、掴んでいた服の袖を掴み直し、ユノに寄り添った。


ユノがふと思い出したように口を開く。


「な、カイル。ルオエンさんって、休みの日とかあるの?休んでいるところ見たことないんだよね」


背後で、木剣の乾いた音がひとつ遅れて鳴った音が聞こえた。


「あぁ、休み?」


カイルは肩をすくめた。


「たまにゃある。けど、結局休みといった休みらしいことはしてねぇな。鍛錬か俺の稽古の付き合い.....とかだな」


砂を踏む音が三つ、同じ間隔で続く。


「……あと、母さんのとこにも顔出してる…ぐらいか」


言葉の終わりで、カイルの視線が足元に落ちる。

小石を蹴り、転がった音だけが前へ逃げた。


ユノはその横顔を見る。視線だけが残った。


(そういえば、カイルの母さんって……)


少しだけ、風が抜けた。

西へ傾きはじめた陽が差し込み、白い砂を淡く染めていた。

踏み出すたび、靴裏で乾いた音が細く返り、やがて、昼の名残を含んだ空気が緩く肌を撫でる。

道脇の木立は動かないまま、枝先だけがざわりと揺れ、葉と葉が触れ合う音は、歩調に合わせてかすかに続いた。

長く伸びた影が砂の上を並び、 足跡だけが、同じ間隔で後ろへ残っていく。


ユノが前を向いたまま、ぼそっと言う。


「団員の人たちさ、顔とか腕とか.......けっこう傷あったな.......」


「……まぁな」

カイルが道端の小石を蹴る。

石が乾いた地面を跳ね、音を立てて転がった。


一拍おいて、言葉を足す。

「でも、お前のお父さんは……あんまり、そういうのなかった気がする。ほら、大けがしている話聞かないもん」


カイルは、少し間を置いてからぶっきらぼうに続けた。

「あー。そうだな。怪我しても治るのやたら早ぇ気がするわ。ちゃんと見てるわけじゃねぇけど、次の日には包帯消えてる....みてぇな?ま、魔法でなにかしてんだろ。知らんけど」


砂を踏む音が三つ、小石が転がる音が一つ、それぞれの音がバラバラの間隔で続く。

ユノは前を向いたまま呟いた。

「んー、魔法.....か....やっぱり、使えるようになりたいな」


ユノの視線が落ちる。

「ルイ。そういや、一緒に行ってみてどうだった?見に行くのも悪くなかったでしょ?すげー魔法見れたし」


名を呼ばれ、ルイの肩がわずかに上がる。


「……別に……」


声は低く、唇が尖り、視線は足元に落ちたまま。


ユノの手が伸び、ルイの頭に触れて軽く撫で、髪がさらりと揺れてすぐ元に戻った。

ルイは顔を横に向け、唇を尖らせたままユノの服の袖を掴む指だけは離れなかった。


「そういやさ、団員って増えたりしてる?前見に来た時よりも人がいた気がするんだよね」

ユノが前を向いたまま、息混じりにこぼす。


「10人ぐらい新人入ったって父さんから聞いたわ」

カイルが足元の小石を蹴る。

転がった石を追って、もう一度つま先で弾き、砂が小さく跳ねた。

「……へー、いつのまに」

ユノが息を落とす。

視線がカイルの足元に落ち、すぐ前に視線が戻る。

「防衛団から抜ける人も何人か。入れ替わりっぽそうだわ」

カイルが足先で小突き、転がった石を追ってまた弾く。


「そうなんだ。.....................てか、ずっとそれ蹴ってるよね」

ユノが横目で足元を見る。


カイルの口の端がわずかにゆるむ。

蹴る方向を変え、ユノのほうに向けて、小石を蹴る。

その瞬間、二人の間にいたルイの小さな靴先が差し出される。

石が弾かれ、乾いた音を立てて横へ飛んだ。


「.........」

ルイは黙ったまま歩き続ける。


「っ!おいおい、俺たちの相棒が………終わった……」

カイルの足が止まり、転がっていった先を目で追い、口元がわずかに下がった。


ユノがぼそっと言う。

「……いつの間に、俺はあの石と相棒になったんだ」



しばらくして砂道が途切れ、石畳に変わり、足音が硬く跳ね返る。

建物の影が切れ、木槌の音と板を打つ乾いた音が重なり、呼び合う声が短く飛び、荷車の軋みが混ざった。三つの影が並んだまま、石畳の上に長く伸びる。


訓練所の空気はもう存在せず、通りには屋台の骨組みが並びはじめていた。

木箱に布をかぶせただけの簡素なものばかりで、派手さはない。

それでも布の端が揺れるたび、明日に向けた準備の気配が小さく浮かぶ。


中央通りに戻ると飾り紐が風に引かれ、ほどけそうでほどけない弧を描く。

人の数は多く、足音や声が普段よりわずかに弾んでいた。


カイルが片手を頭の後ろへ回しながら言う。


「やっぱ今年も地味だな。まあ、この街らしいけどさ、もっとドカンとやってほしいわ」

言葉とは裏腹に、視線は屋台の骨組みや布の端へと移り、人の手元や飾り紐の揺れを、歩きながら追っていた。


ユノはその口調に肩を揺らして笑い、

「えー、派手じゃなくていいよ。こういう雰囲気の方が俺は落ち着く」

と静かに返した。


進行方向の先で、飾り布を抱えた人影が足を止める。

その人影は、祭りの準備を進めていたルアナだった。

ユノ達に気づいた瞬間、張っていた息を整え、表情に柔らかさが戻る。


「三人とも――さっき見たと思ったら、どこへ行ってたの?」


ユノが一歩だけ前へ出る。

「訓練場だよ。カイルの父さんを見にね」

ルアナは短く息を漏らし、目尻を下げた。


「ルイまでいるのは珍しいわね。訓練の様子はどうだった?」


「まぁ、よかったよ。な、カイル。いつもあんな感じなの?訓練」

ユノが素直に尋ねる。


「知らん」


即答だった。

「知らんって...お前は、団長の息子だろ」

「息子だからって、全部が全部知ってるわけねーよ」


ルアナは言葉を挟まず、二人を順に見やった。


その間、ルイは少し後ろで揺れる飾り紐を見つめていた。

指先に糸の端だけ触れ、色が揺れた分だけ胸の奥も少し膨らむ。


「……きれい」


それ以上の意味はなく、ただその場の温度に触れた言葉だった。

ルアナは、しゃがみ込んでルイの目線に合わせた。

「ルイ、疲れてない?」

ルイは迷う間もなく首を振る。


「……だいじょうぶ」


その返事にルアナは、

「無理しないでね」

と、いつもの調子で言い、抱えていた飾り布を胸に引き寄せ、ゆっくり腰を上げた。

「この後、祭りの関係者が集まることになってて。そろそろ行くわね」

仕事の段取りを思い出したような口調だったが、声は急いていなかった。

ユノの方へ一度だけ目を向ける。


「ユノ、引き続きルイをよろしくね」


「分かったよ。母さん」


短く返すユノの声に、ルアナは小さく頷いた。


そのやり取りの間、ルイは黙ったまま、二人の様子を見ていた。

小さな指先で、揺れる飾り紐の端に触れ、淡い色の重なりと空気のぬるさをそのまま受け取っていた。


ルアナは、一度ルイの姿を視界に入れてから、その場を離れた。

さっきまでルアナが立っていた位置だけ、影が薄く残ったみたいに見えた。


「……移動するか。ここにいてもあれだし」

ユノはそう言って、通りの先へ視線を向けた。

ユノの言葉を聞いたルイは、ユノの服の袖をつまんだまま、その方向へ半歩だけ寄る。

「……ああ、そうだな」

カイルが短く返す。

三人の間に隙間はできず、ただ歩調だけが揃った。


通りの先で、灯りの準備が始まっていた。

昼の色に混じって、小さな明かりが浮いている。

三人はその光を横目に通りの奥へ足を運ばせた。


街の明るさがゆっくりと落ちていく。

飾り紐が風に揺れる音だけが残っていた。

その揺れに合わせて灯りがつき始め、窓の光が通りに薄く筋を落とす。


広場の手前でカイルが立ち止まった。


「じゃ、そろそろ帰るわ。明日――あそこの噴水あたりでいいだろ?」

カイルは、噴水の縁を指で示していた。

ユノがカイルが指す噴水を視線を動かした後に軽く頷く。

「うん、じゃそれで。支度終わったらルイと一緒に向かうよ。祭り始まる前にあそこで集まろう」

「ああ」

短く返すだけで十分だった。

ユノに対し、それ以上を重ねず、カイルは手を上げた。

「ルイ、また明日な」

ルイはユノの横に寄るだけで返事にした。


「……うん、また」


言葉より先に距離だけが動いた。

カイルはそれを見て笑ったように息を漏らし、そのまま歩き去り、背中がどんどん細くなっていく。


それを見届けると空気が一段落する。

通りに並ぶ市場はまだ灯りが消えていない。

湯気の残る屋台、焼いたパンの香り、奥では誰かが木箱を運ぶ音。


ユノは並んだ店を見ながら歩き、干し肉と野菜をいくつか買い足した。

袋が一つ、腕に増える。

ユノは袋を一つだけ抱え、店主に会釈する。


「じゃ、帰ろうか」


ルイは小さく頷き、ユノの横に並んだ。


帰宅すると、灯りをつけた部屋に湯気がこもるような静けさが流れ込んだ。

ユノは袋を置き、布を腰に巻いた。


「飯作るよ。一緒に作ろう」


ルイはまばたきが少し遅れたが、包丁を持つと動きは丁寧だった。

包丁がまな板を刻む。

切った野菜が端に寄せられ、鍋に肉と野菜を入れる。

火にかけると、鍋の中でゆっくりと煮え始めた。

木の蓋が軽く鳴り、鍋の中でゆっくりと音が続いた。


鍋の蓋を持ち上げると中から湯気がゆっくりと逃げ、肉と野菜の匂いがふわりと広がった。

木の匙で鍋から具をすくい、肉と野菜を椀へ静かによそった。

横にはちぎったパンが皿に置かれていく。


食卓に並んだ時、ルイは小さく俯いてからスプーンを取った。

「……いただきます」

声が落ちた時、湯気がほんの少し揺れただけだった。


一口食べたあと、表情が緩むでもなく、ただ視線の高さが戻る。


「……これ、好き」


それだけ言うと、また黙々と食べ始めた。

スプーンと器が触れ合う音が小さく響く。

ユノは何も言わず、向かいに座った。


しばらくして、ルイは横を向いたまま小さく言う。


「……お兄ちゃん、変な顔」


ユノは笑ったように口元だけ動く。

「そんな変な顔してるつもりはないんだけどな」

言ってから、ほんのわずか視線を落とした。


“とにかく元気そうでよかった”


その言葉だけが胸の手前に残る。

声にはしないが、それだけだった。


ルイはそのままスプーンを握り直し、不機嫌にも見える静けさで食べ続けた。

向かいで湯気が揺れる。

ユノは器に視線を落としたまま、昼間の訓練場を思い出していた。


いつか変われる日が来るのだろうか。

それがいつなのか、ユノにはまだ分からない。


何が足りないのか_____


それすら、まだはっきりとは分からない。

ただ一つだけ、分かっていることがある。


自分はまだ、強くなるための努力をしていない。

その努力の仕方さえ、まだ知らない。

その事実だけが、胸の奥に残った。


ふと顔を上げると、ルイの器はもうほとんど空だった。

考えているだけで、時間は過ぎていく。


やがて食べ終えると、器の縁を指で軽くなぞる仕草だけが残った。


夜の音はほとんどなく、二人のいる部屋の光だけが

静かに止まっていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 


その夜、街では祭りの準備が静かに終わりへ向かっていた。


白銀の髪は夜の色に溶け込み、風が通るたび細く揺れた毛束の端にだけ淡い紫が滲んだ。

光に触れた瞬間だけ浮かび上がり、離れるとすぐ、静けさへ沈んでいく。


灯りがふたつ、間を置いてともった。

布に映る橙が地面に落ち、の色が少女の瞳にも薄く映り込む。


揺れ幅の小さい灰の瞳。


そこに灯りの橙と飾り布の色が微細に滲み、動くたび、その光の粒が水面のように淡く揺れた。

少女は誰に見られることもなく、広場の景色を一枚の絵のように眺めていた。

張られかけの紐、束ねられた布、木箱に腰かけて笑う影。

遠くの喧騒が、小さな彩色として世界に散っている。


それなのに、自分だけが輪郭の外側にいる。

胸の前で指先を静かに重ねる。

落ち着きではなく、何かを言葉にする手前で止まる感覚。


“届きそうで届かない色”


それが胸の奥に残る。風が通り、飾り紐の影が光の帯を揺らして流した。


その瞬間、胸の奥が微かにきゅ、と締まりかけた。

理由はどこにもない。喜びでもなく、痛みでもない。

ただ、触れられていない何かが胸の奥に沈む。


祭りの明かりが広場に広がり始めている。

それは、今日ではなく、明日を照らすための光。

少女はそれを見て、ゆっくりとまぶたを伏せた。

沈むまぶたに灯りの色が薄く差し込み、そのわずかな明るさが残った。


やがて作業を終えた人々の足音が近づいてくる。

会話の余韻がこの場所まで届きそうになり、少女は踵を返した。


誰にも気づかれない道へ、

灯りが届かない方へ。


白銀の髪だけが一瞬浮かんだが、それもすぐに夜へ沈んだ。

残ったのは淡い灯りと、揺れる布だけ。

そして、輪郭の外にいる少女の気配は、夜気に溶けるように消えていった。

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