1. 文庫本を眺める
記念すべき……かどうかはわからないけれど、第一話。
文庫本を眺める
後ろの席の笹山くん。彼はいつも、同じ文庫本を机の上へ置いて眺めている。
プリントを後ろへ回すとき、僕は机の真ん中に置いてある文庫本をよけて、なるべく端っこへプリントを置くように気をつけている。これは、今の席順になってから三日も経たないうちに身につけた、僕の誇れるスキルだ。
不思議に思うだろうか、彼が文庫本を文字どおり「眺めている」光景を想像したら。そう、彼は本を開かない。イラストのついた表紙を上へ向けて置き、ぼんやりと……まるで弱火でクツクツと煮込むように、見つめるのだ。
彼は口数が少なかった。というより、本を眺めている時間があまりに長いために、クラスメイトと会話をする時間が少ないのだ。
たとえば、移動教室のとき。彼は常にぼうっとしているため、教室を出るのが最後になる。階段のあたりでクラスメイトに追いつくと、二言三言、何気ない言葉を交わす……それも彼からではなく、前を行くクラスメイトが、彼に気づいて話しかける……、そうして少しも経たないうちに、理科室なり音楽室なり、目的の教室へ到着してしまい、かれはまた、机に文庫本を設置するのだ。
その本は、ある小説家の短編集らしい。なんでも、二、三年前に再編されて話題になったものだそうだ。僕は読書家ではなく、読んだことはないけれど、クラスの女の子たちがその本について話していたのを聞いたことがあった。
表紙のタイトルは、代表作の作品名『風景』で、イラストはその掌編のワンシーンを描いたものだという。椅子に腰かけた少女が、紅茶の入った白いカップをつまんでいる。喫茶店だろうか、窓から差し込む光によって顔がぼやけて、表情が見えない。明るくて柔らかく、けれどもどこか、哀愁のただようイラストだった。
あるとき、僕は訊いてみた。
「その本、好きなの?」
彼はいつものようにぼうっとしていて、僕が三回呼びかけた頃になって、「え」という一言を発した。
「あ……本……」
「本でしょ、それ」
「あ……、本……ね……」
そんなことはないのだろうけど……彼は生まれて初めてその言葉を発するように、「本……」と繰り返した。
「どういう話だっけ」
あらすじはなんとなく知っていたが、あえて訊いてみた。読んだことのない本なのだから、同じストーリーでも訊く相手によって、まるっきり印象が違うかもしれない。
しかし、彼は……
彼は困ったような顔をして、こう答えた。「読んだこと、ない」
「え」
「読んだこと、ないんだ。ストーリーには興味がなくて……」
「じゃあ」
「絵が……」
「ああ」
不思議に思うだろうか、こんなことを聞いたら。僕は不思議だった。
「でも、それって小説のシーンなんでしょ」
そう言うと、彼はまた困ったような表情を見せて、しばらくしてから答えた。「絵だよ」
「え」
「絵。ただの絵」
「あ……」
「君にとって、僕は、クラスメイト。……友達って言ってくれるかもしれないけど、でも、そう……。僕にとって、これは、絵。綺麗な絵。だから……」彼は自分の眼鏡を触りながら、言葉を探して言った。「本当に綺麗なものは、ただ見るだけで綺麗なんだ。何が描かれてるとか……本質みたいなものはいらないんだ、僕にとって。そんなものを知らなくても、心が動けばそれで……」
彼は不安そうに、僕の目を見る。「わからないかな……」
「……」
それ以来、彼とは少し仲良くなったけれど、会話が続かないのは相変わらずで……彼が一番長く話してくれたのは、いまだにあのときの、文庫本の絵についての会話だった。
だから僕は、笹山くんというとあのときの光景を思い出す。それはぼんやりとした印象だけど……とにかく、僕にとっての彼は、あのときの、眼鏡をずり上げながらしゃべる不思議な感覚のクラスメイトなのだ。