退屈と不安。愛しき女神。
それはまるで、空に浮かぶ巨大な城だった。
昼間だというのに空は陽の光を一筋さえ見ることができないほど重い灰色に埋め尽くされ、その下に広がる岩が剥き出しの渓谷には身を切るような寒風が吹きすさぶ。風に混じった細雪は、地面に積もることもなく散っていく。
そんな、世界の果てのような景色を見下ろすようにして、空には紫色を帯びた巨大な雲のとぐろが浮遊し、しかしそれは確かに、ただオレだけを見つめていた。
「ああ、かったりぃな……」
オレは溜息混じりに言い、黒牙竜の鱗を内側に縫い込んだズシリと重いマントを脱ぎ捨て、黒一色の陰気な衣服――ソレンブル帝国騎士団の訓練着に、白金の胸当てのみを身につけた身軽な服装となる。
身の丈もあるような長い両刃の剣――魔剣・ロジオンを右手に出現させて、
「……身体能力向上魔法」
呪文を唱えると、ロジオンの柄を強く握り直す。瞬間、紫色帯びた雷雲の渦、その下部に見えた小さな光が、鼓膜を打つような爆発音を立てながらオレを襲った。
オレは先程唱えておいた魔法の効果を発動させ、矢のような勢いで空高くへと跳躍してその雷撃を躱すと、
「はぁっ!」
ロジオンを袈裟斬りに振るった。
すると、その一振りで文字どおり空間が大きく割れる。その大気を斬り裂く一撃は空を覆い隠す厚い雲までを真っ二つに断ち斬り、高みからこちらを見下ろしていた雲のとぐろの中から、大国の王城ほどの大きさもある『それ』が姿を現す。
どこか光沢のある質感の黒々とした翼を閉じ、まるで巨大な黒い卵のように身を守っていた『それ』は、その翼をゆっくりと開く。
そのわずかな羽ばたきのために、肌を切るような寒風がいっそう強くなり、そこに血のような生臭い臭いが混じる。
その不快な風が去るのをしばし待ってから、オレは背けていた顔を『それ』へ――古くから『魔王』と呼ばれる存在へと向ける。
『忌まわしき血を受け継ぎし者よ……』
まるで地鳴りのような魔王の声が、空気を、世界を重く震わせる。
『再び我の邪魔をせんと欲するか……』
「そう言われても、オレだって好きで勇者の血なんて継いだわけじゃないんだがな」
『……我は生命に非ず。世の意志なり。よって、汝、我を止めんとすることは愚劣の極みなり』
「オレがバカなことは、オレ自身が誰よりも知ってるさ」
オレは苦笑して、自らの胸に手を触れる。
――ヨルカ……。
『あなたはわたしの、この世界で一番大切な人……。だから、わたしより先に死ぬなんて、絶対に許さない』
この胸に顔を埋め、そう涙を流してくれた女性のため……ただ、それだけでいい。世界のことなど、知ったことではない。彼女が笑顔になれるような世界を手に入れる。オレにはそれにしか興味がない。
「さあ、そろそろ始めようぜ。オレもお前も、お喋りを楽しむようなガラじゃ――」
○ ○ ○
「ぶぁっくしょっ!」
頭が前に飛んでいきそうな勢いで士条悟はクシャミをして、危うく携帯ゲーム機を浴槽の中に落としかけた。
熱い風呂に入っているのにクシャミが出るとは何ごとだと思いつつ、悟は真空パックの中に入れている携帯ゲーム機を操作して再びプレイを始め――
ようかとも思ったが、気が変わった。ラスボス戦途中のゲームを休止して、保存している画像データをなんとなく見始める。
最近は、ゲームでさえもあまり面白く感じられない。三度の飯より大好きだったはずのゲームでさえもそうなのだから、現実が面白いはずもない。まだ中学の二年生なのにこれだけ人生が楽しくないなら、来年、再来年はどうなってしまうのだろうか……。
悟は最近、漠然とそんな不安を感じながら過ごしていた。これは中学生なら誰でも感じている不安なのだろうかとも思うが、だからといって簡単に割り切れるものではない。
退屈と不安。
暢気で楽しそうな周囲を見つめる冷めた自分と、周囲のスピードについていけず焦る自分。自分だけが子供のまま取り残されているような疎外感……。
だが、そんな鬱々とした気分を和らげてくれる存在が、悟にとってただ一つ、この世にはあった。それは、
「ふふ……桜は可愛いなぁ、本当に……」
愛すべき妹の、桜である。
今見ているのは、二年前、七歳の七五三の時に撮った画像である。風に舞う桜の花びらが描かれた赤い着物を着て、こちらへ向かって誇らしげにピースしているその画像を見ていると、思わず頬がチーズのように蕩けてくる。
半袖短パンでスイカを頬張っている写真。テーブルに向かって真剣な顔で勉強をしている写真。色鉛筆を握り締めながら床で眠りこけている写真……。
そのどれを見ても、桜は我が妹ながらまるで天使のような可愛らしさなのだった。
黒々とした真っ直ぐな髪や、黒目がちでパチリとした瞳は人形のように愛らしく、ほっぺたや小さな手は大福餅のようにふっくらとしている。
こんなに可愛い生き物が、世界にいてもいいのか。
最早、一日中抱き締めて片時も離したくない。できるものなら家から出さずに宝物として守ってやりたい。
そんな行き過ぎた感情も湧き起こってしまうくらいに全力で可愛がってやりたいところなのだが、そんなことはできるはずがない、許されるはずがない。
まず第一に、そんなことをしたところで桜が喜ぶはずもないのだし、それに加えて、中学生にもなった兄が妹をそんなに溺愛するなんて、普通はありえないことだ。
『俺には趣味なんてない。好きな女子もいない。だって、何よりも桜が――妹が大好きだから』
こう叫ぶことが許されるなら、声の限りに叫びたい。でも、これはおかしな気持ちだ。許されない、異常な気持ちだ。
そう解っているから、悟はなるべく桜と適度な距離を取って、積もり積もっていく心のモヤモヤを、こうして一人、画像を眺めながら解消しているのだった。
「ただいまなんよ!」
唐突、バン! と勢いよく扉が開け放たれ、耳がキーンとするほどの大音声が浴室内にこだました。
この世の天使、もとい桜の登場である。風呂に入ってきたのだから服も下着も身につけていないのは当然なのだが、その右手にはなぜか食べかけの桜餅を持っている。
口の端にアンコをつけてモグモグしながらこちらを見下ろし、ごくんと口の中の物を飲み下して、もう一度言う。
「お兄、ただいまなんよ」
「あ、ああ、おかえり……」
あまりに唐突な登場の仕方に悟は呆然として、それからハッと携帯ゲーム機の電源を落とす。この中には大量の桜画像が溜め込まれていて、自分が一日に三時間はこれを眺めて過ごしていると知られればどうなるか、そんなことは想像するだけで恐ろしい。
「って、コラ、桜。ものを食べながら風呂に入ってくるんじゃない。行儀悪いぞ」
「お兄もまたお風呂に入りながらゲームしてるん。それ、お母さんに『やめなさい』って怒られてたんよ」
「父さんは『別にいい』って言ってただろ。だから、いいんだよ」
「でもお兄、桜が塾に行く前からゲームしてたんよ」
残っていた桜餅を口へ放り込みつつ、桜はじとりと冷めた眼差しをこちらへ送ってくる。
「別にずっとやってたわけじゃないさ。たまたま今やってるだけだ」
「そんなにゲーム楽しいの」
「いや、別に」
「なら、なんでやってるの」
「なんでって……特に理由はないけど」
「……はぁ」
人生に疲れたような重い溜息をつき、桜は風呂イスにちょこんと腰を下ろす。
「お兄は、中学生になってからは本当にダメになったんよ。昔はもっとキリッとしてたのに……」
「別にそんなことはないだろ。俺は昔からこんなものだろ。小学生の時のことなんて、もうほとんど憶えてないけど」
「お兄は昔はカッコよかったんよ。でも、今はもうその見る影もないんよ」
「お前、やけに難しい言葉知ってるな」
心から感心して言うと、桜は細い喉を鳴らして桜餅を全て飲み下し、平淡な眼差しをこちらへ送る。
「お兄、まだお風呂上がらないの」
「ん? ああ、あと五分くらいしたら上がる。お、お前もお湯に入りたいなら、入って来ていいぞ」
桜と一緒にお湯に浸かれる。そう考えただけで思わず緊張してしまう自分はやはりおかしい。おかしいのだろうが、別に妙なことをしようとしているわけではないのだから、何も恥じることはない。
そう厳重に心構えをしているこちらのことなど知らず、
「ううん。お兄と一緒に入ったら狭いからいい。先に髪洗ってるんよ」
桜はあっさり首を横に振り、シャワーのレバーを捻った。それを見て、悟は慌てて言う。
「お、おい、待て、桜。シャンプーハットはどうした? 着けなくていいのか」
「桜はもう九歳なん。今日学校で担任の先生が、『三年生からは大人です。一年生と二年生のいいお手本になりましょう』って言ってたんよ。だから、大人の桜は、もうシャンプーハットなんて使うのはやめるん」
「で、でも、もし溺れたりしたら……!」
「シャワーで溺れるなんて、子供っていうか赤ちゃんなんよ」
「いや、ダメだ、使いなさい。万が一があったらどうする。シャンプーが目に入って、目の病気になったりしたら大変だぞ」
「目に入ったら病気になるの」
「なることもある」
「そうなん……。それは大変なんよ。桜、病気になりたくないから、やっぱり使うんよ」
と、桜は大人しく悟に従って、浴室の壁に立てかけてあったピンクのシャンプーハットをすぽんと頭に被る。それから、シャワーの中に頭を入れて、背中の中ほどまである黒髪を洗い始める。
桜は本当に素直でいい子だ。しかもその上、天使のように可愛いのだから、自分が桜をこんなにも愛しく思うのはある意味、自然なことなのではないだろうか?
一所懸命に目を瞑りながらくしゃくしゃと髪の毛を洗っている桜をうっとりと眺めながらそんなことを思っているうちに、桜はシャワーを止め、泡を流し終えた髪をタオルで纏め上げた。それから、何も言わずに浴槽の中へ――悟の股の間に入り込んでくる。
「狭いから入りたくないんじゃなかったのか?」
「お兄にお願いがあるんよ」
質問には答えず、桜はどことなく真剣な声色でそう言う。身体を捻ってこちらを見上げ、
「明日、桜と一緒に『こどもたちの国』に来てほしいんよ」
「『こどもたちの国』……?」
『こどもたちの国』とは、この街の郊外にあるレジャー施設である。郊外の山の中にあるとても広い公園で、様々なアスレチック遊具やキャンプ施設があり、休日にはたくさんの親子連れが訪れる。また、屋内の遊具施設へ行かない限り入場料がかからないので、平日には地元の子供たちの格好と遊び場となっていた。
――俺も小学生だった頃はよく行ったよなぁ。行って何をして遊んでたかは、なんにも憶えてないけど……。
湯にのぼせてボンヤリしてきながら、悟は尋ねる。
「来てほしいって……なんで俺が?」
「お兄の力がどうしても必要なんよ」
「俺の力って、どういうことだよ。何をさせるつもりだ?」
「そういうことはあっちで話すん。お願い、お兄。桜の桜餅、後で特別に一個あげるんよ。だから……」
「え? あ、う……」
じっと見つめられ、さらにどこか悲しげな表情までされて、悟はその妙な色気に思わず狼狽える。が、そんなこちらの動揺を悟られることは許されない。
「メンドくさいけど」
と、どうにか気怠そうな声を絞り出して悟は言う。
「しょ、しょうがないな。お前がそこまで言うなら……」
「うん。ありがとうなん、お兄」
パッと笑みを輝かせて桜は頷き、小さな肩から力を抜きながら、こちらへ向け続けていた顔を前へ向ける。纏め上げた桜の髪の毛から、甘い、フルーツ系の匂いがふわりと漂う。
「あ、そういえば、さっき塾から帰ってくる時、ウメちゃんが歩いてたんよ」
「ウメちゃん……って、誰だ? 桜のクラスメイトか?」
「お兄、そんなことも忘れたの。お兄、小学生の時、『俺の彼女』って言って、よくうちに連れて来てたん」
「はあぁ? 俺の彼女? ……ハッ、なんだよそれ。生憎、今のところ俺の人生で『彼女』なんてものができたことは一度もないぞ」
「嘘じゃないんよ。アルバムに写真も残ってるし」
「そんなタチの悪い冗談はやめなさい」
浴室内に染み入るように厳かな声で言って、それから悟はザバリと湯から上がった。彼女なんてできる気配もない人間にとってそんな冗談は悲しすぎるだけだし、それに桜の口から『彼女』などという言葉は聞きたくもない。
『俺が好きなのは、桜、お前だけなんだ』
この一言を言えたなら、どれだけ楽だろう。長湯をしすぎた頭を押さえながら、悟は浴室を後にしたのだった。




