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エピローグ

--

たつや


迎えに来て


明日正午

港区民スポーツセンター

大食い練習室6

--


突然そんなメールが届いたのは、オリンピック特番のラッシュが終わり、世の中が平常運転に戻り始めた9月の最終日。


送信元はフリーメールのアドレスで――スパムかもしれないと一瞬は思ったけど――普段使わないメールアドレスに届いたこと、メールの中に自分の名前が入っていたこと、もしかしたら・・・という期待が相まって、日曜は借りてきた映画を見る他とりたてて予定もなかった俺は、手持ち無沙汰に足を運んでみることにした。


大食い練習室、という場所を説明するためには、Ohgui競技の歴史から説明せねばなるまい。(二次創作を希望してくださった、ありがたすぎる読者の方々のためにも! ここには少し字数を割きたいと思う。)


Ohgui競技の歴史は、ルールの穴を突く選手の登場と、それに対応したルール変更の歴史でもある。


競技黎明期は食べた量を競っていたのだが、試合中トイレで故意に嘔吐する選手が問題視され、試合開始前の計量と試合終了時の体重の差分、すなわち体重増加量を競う競技に変化をとげた。


しばらくはその形で平和的に運営されていた大会だが、次第に選手のドロッピング(食物をこっそり服にこぼすこと)が常態化し、問題視されるようになる。ドロッピング用に高分子吸収剤を織り込んだ服なども開発され、服の吸水量で世界選手権入賞者の順位がゆうにひっくり返されてしまうようになってしまった。そこで大食い大会用の認定ユニフォームが開発され、選手は試合前後の計量前に必ず、他チームのマネージャーによる清拭と、認定ユニフォームへの着替えを行うことになった。


続いて「脱水寸前で会場に現れ、水をがぶ飲みして体重を増やしてから固形物の大食いに入る」という戦法が横行し、行きすぎた「水抜き」をした選手が生命の危機に瀕する事態が発生した。IOC (International Ohgui Committee)はこの事態を重くみて、試合中の水分補給を禁止。しかしスープや味噌汁などを用いてこの戦略を継続する選手が後を絶たなかったことから、遂には白米以外の選択肢を禁止。1合あたり320グラムの重さに炊きあげられた公式競技米が大会に使用されるようになる。


その結果、10kg台後半で競われていた大食い記録が大幅に下落し、しばらく過去の記録が破られない時期が続いた。ルールの違う参考記録とはいえ、記録の低下は競技人気の低迷を招き、各種大会は競技時間の延長で記録の下落に歯止めをかけようとした。多くの大会が4-5時間という長時間で競われるのは、今もその名残といってよい。


選手側のトレーニング方法やキャリアパスも、ルール変更に対応して少しずつ変化を遂げてきた。依然多くの流派が存在するが、以前真理子に教わったものを簡単に紹介したい。


大食い選手としてのキャリアは近年低年齢化が進み、多くの選手は幼稚園や小学生の頃からどこかの道場に所属することが多い。最初にマスターする基本技術は幽門の開発で、これは胃の出口に相当する幽門を意識的に開閉する術を学ぶものだ。人間は血糖値が高まることで満腹感を感じ、血糖値は食物が腸管で吸収されることにより高まる。裏を返せば、食物が腸管に送られない限りは満腹感が生じず、多くの食物を体内に納めることができるわけである。このテクニックはOhgui競技界の革命と呼ばれ、それまでは大食い選手の中にも一定数存在していた腸管利用型の選手は胃拡張型の選手に敵わなくなり、大食い選手は皆、競技終了まで胃の容量で戦うのが王道となった。


幽門開閉ができるようになると、蠕動調整のフェーズに移る。これは消化管の内容物を後方へ意識的に流せるようにする技術で、これができないと急速に太ってしまう。米は比較的吸収が遅いとはいえ、1合で540 kcal程度。4合も食べれば1日の消費カロリーを簡単に上回ってしまうからだ。この技術を取得しようと大食いを始め、そのまま競技の魅力にとりつかれる女性がこの競技の人口を底上げしている、らしい。いまや全女性の四人に一人が、一度は大食い道場に通ったことがある、との統計もある。(一方、男の競技人口は圧倒的に少ない。)熟練者は試合後数時間で食物を通過させることができ、消化吸収の速い食品は別だが、米食を行っている限りにおいてはそれほど大きくは太らない。拡張期には毎日一斗を平らげるという超一流大食いプロたちも、おおむねスレンダーな体型を保てているのはこのためだ。


大食いは長距離走などと同様、後天的な練習量がモノを言う競技と考えられている。もちろん、胴が長めのモンゴロイドは比較的大食いに有利と言われ、日中韓・ベトナム・タイなどには確かに有力選手が多いが、ロシアやモーリタニアなどのコーカソイドも多く上位に食い込んでいるし、アメリカ選手団にはネグロイドも多い。このような個人競技はあまり類例がなく「食べる」という行為が人間の本質に大きく関わるものであることを改めて感じさせてくれる。能力を練習で「開発したか」「しなかったか」という違いだけで、潜在的には人間誰しも大食いができるものなのである。もっとも、男女別競技になっていることからも分かるように、男女差は如実に存在する。かつては男女合同で行われていたのだが、練習法が確立されるにつれ、骨盤が広く、また腹筋の発達しにくい女性の方が圧倒的に大食い適正があることが露わになり、男性選手が駆逐されてしまった。結果男女別に大会が開催されるようになったが、いまだ15kg程度で競われている男子Ohguiは女子Ohguiに比べて圧倒的に見劣りするためか、男子Ohguiは全くといっていいほど人気がない。


人気スポーツである女子Ohguiは一年を通じて大会が行われているが、主要な大会は夏場に集中しており、多くの大食い選手はそれらの大会に合わせて身体を調整する。調整法は様々あるようだが、一般には拡張期・減量期・調整期という3期に分ける方法が王道とされ、多くの有力選手はシーズンオフの秋口から春にかけて、ひたすら拡張期として胃にモノを詰め込み続けて限界を広げ、春先から減量を始めて、自らの階級より2-3kg程度軽いところまでベース体重を絞る。その後、大会の2週間前から調整期として、減量で落ちた腸管拡張の感覚を呼び戻すべく、少しずつ拡張期のリミットに近づけ、1週間ほどでリミット近辺の値を達成。その後前日まで、その拡張させきった状態を続け、競技前日に一日断食をして、身体の中を空にした結果、ベース体重を階級基準にする、というのが理想的な流れと言われていた。この、減食後に落ちた胃の拡張力を取り戻す大会直近2週間ほどの作業を「胃起こし」と関係者は俗に呼ぶ。シーズン中、エントリーした大会の度にこのようなサイクルを繰り返す訳だが、大会を繰り返せばその分、ベース体重が多少とはいえ増えてしまうため、十分な調整期の確保が困難になって、記録は少しずつ落ちていくのが一般的だ。真理子も昨年の世界選手権後、アジア大会と太平洋大会、全国大会でポイントをさらったあとは、オリンピックまで8ヶ月ほど身を潜め、確実に身体を調整していたと聞く。一方ファリハは3ヶ月前、地元の豪族と盛大な結婚式を挙げ、その初夜に22キロの腹部を披露したらしい。この差がメダルを分けたと、日本の新聞は真理子のストイックさを美談として何度も報じていたが、どちらかというとその豪族が羨ましいと達也は思ったりもする。ファリハにしたって、自国での安寧な生活を保障してくれる程度の五輪金より、今後の豪遊を保証してくれる結婚の方が価値があると判断したのだろう。どちらもある意味正解な判断と言えるのではないだろうか。


結局日本女子大食い代表はこの年、48 kg, 57 kg, 63 kg級で金、70 kg級で銀、52 kg, 78 kg級で銅と、全階級でメダルを獲得し「大食い大国日本」の名を欲しいままにした。大食い選手は多くの食品メーカーにとり、広告塔として申し分なく、彼女らのCMはお茶の間を一時期独占し、「おかわり」「もう一杯」などは間違いなく今年の流行語になるだろうと言われている。


Ohgui競技の歴史が一通り説明されたところで、主立った大会について、その流れも説明しておかねばなるまい。


大抵の大会では、ファンサービスという意味もあり、選手入場が二度行われる。一度目は各自が自由な服装で入場、二度目が指定ユニフォームに着替えての入場である。入場も計量も年齢順で、年齢の若い者から順に入場することになる。一般に大食いの適齢期は20-25歳と言われていたが、最近は強化選手のトレーニング法も進んだからか、低年齢化が進み、10代選手の台頭が著しい。真理子が中学時代に打ち立てた中学女子の日本記録も毎年更新され、いまや全中優勝者の記録は15kg代後半であると聞く。これは全世界的な傾向のようで、この前のオリンピックの入場も、銀メダルをとったイリーナはちょうど入場行進の中ほど――つまり19歳以下の選手が半分を占めていたわけだ。


一通り選手紹介が終わると、選手たちはいったん退場して更衣室に向かい、大会指定のユニフォームに着替える。ユニフォームはたいていカップ付きTシャツと短パンで、同じ重さのものが2着用意されている。選手たちは各自で汗を念入りに拭き、髪を乾かし、ボディーチェックを受けて、ユニフォームに着替える。このボディーチェックは手術痕のないことを確認するためのもので、腹部に手術痕がある場合は、大会自体の参加資格を失うことが通例である。ユニフォームのTシャツは、腹部がマタニティーウエアのようにゆったりとした作りになっていて、試合前の彼女たちには不釣り合いに大きい。もっともユニフォームは、事前に申告されている本人たちの自己ベストウエストを元に作られているため、自己ベストが更新されるような本命の大会では、競技後のユニフォームはどの選手の身体にもぴったりと張りついていることになる。


ユニフォームに着替えると、入場。スタジアム中央に設置された、競技用の椅子へと順に座っていく。椅子は両脚を開き気味に座り、張り出した下腹部の邪魔にならないようにすることができるものだ。そしてドキドキの計量。3回までは再計量が認められるが、それまでに規定体重をクリアできねば失格となる。大抵の選手は長髪になっていて、万一の時は髪を切ることで、規定体重まで調整する。


計量のあと、司会の合図で競技が開始され、4-5時間ほどの大食い。その間、選手たちは自由に体勢を変えることができるから、限界の近い選手は腹部をもみしごいたり、横になったり、四つん這いになってみたりする。しかし最終的には、競技終了を告げるGozzan! (ゴッツァン)の合図があるときに、自力で椅子に座っていなければならない。


Gozzan! の合図があると、みな食後計量のための更衣に移る。更衣室までは選手が補助なく自分の脚で歩いていき、歩いて競技椅子まで戻ってこなければならない、という規定があり、そのため大食い選手の下半身を見れば、かなり筋肉で締っているのが分かるだろう。これは、食べたものを自らの身体の一部と言うためには、それを十分操れなければならない、というOhguiの哲学観に基づくもので「食べすぎて動けない」などと軟弱なことを言った選手は問答無用で失格となる。競技場により詳細は異なるが、たいていは数百メートルのトラックと、階段30段程度の往復が課され、その様子を中継モニターで観察するのも大食い大会の一つの醍醐味となっている。たとえ体重の半分を食せたとしても、彼女らは誘導にしたがって、自分の細い腕でお腹を抱え、自らの脚で更衣室に向かうのである。なお、一時的に四つん這いになることは認められているが、四足歩行で移動することは認められていない。移動の制限時間は20分程度で、それまでに更衣室へ移動できねば失格となる。


更衣室までの移動が終わると、籤で選ばれた他チームのマネージャー(あるいは利害関係のない一般人)による清拭だ。これでドロッピング戦略は無効になるし、競技中にかいた汗も体重増加量にはカウントされなくなる。マネージャーはこれらの清拭を3分以内に行わなくてはならないが、マネージャーによっては他チーム選手の記録を少しでも減らすべく、頭部の汗も蒸発させようと、ドライヤーをかける者もいる。3分間の清拭時間が終わると、選手は自分で新品の大会指定ユニフォームに着替え、再び競技場まで20分以内に戻ってきて、元いた椅子に座る。年少の者から計量が始まり、最後の測定が終わるまで意識を保っていた者のなかで順位が決定されるのだ。そのため選手は試合後も1時間ほどは、幽門を閉じきっていなくてはならない。真理子が俺の家でトイレに行かず、いつも一人で家に帰っていたのは、このための練習でもあったらしい。


そういえば真理子と付き合っていた頃、大食い部内でインフルエンザが流行り、マネージャーが足りずに一度だけ「大食い部マネージャー代理」として大会に参加したことがあった。新人戦都大会の1ヶ月前、前哨戦のように皆が軽い気持ちで挑む企業主催の賞金大会で、それでも関東近郊の中学生相手に優勝賞金はたしか1000万円。Ohgui市場の大きさが分かるというものだ。たしか優勝者を、新しく商品開発したコーンフレークのCMモデルにする、という趣旨の大会だったと記憶している。俺は真理子のマネージャーとしてエントリーし、清拭役も担当した。今でも目に焼き付いているが、成長期特有の贅肉のない身体に、アンバランスなほど腹部だけを膨らませた少女たちが、清拭のため一糸まとわぬ姿で整列するさまは、何か別の生物集会ではないかと思わせるほどの神秘性があった。俺が籤で担当になった少女は中学二年生だったが、2年前に大食いを始めたばかりらしく、真理子の腹を見慣れた俺にはやや物足りなかったが、それでも5kgほどを収めた腹部は堂々と張り出しはじめていた。全身の汗を拭くついでに少しだけ押してみると、脂肪ではない、たしかな弾力ではっきりと押し返してくるのが分かって興奮してしまう。横目で他のブースを見ると、人によって、腹部の膨らませかたはかなり異なっているようだ。みぞおちだけぽっこりと膨れている者、下腹部が妊婦のように張り出している者、くびれがなくなり寸胴で平坦な者、台形な者・・・真理子に言わせると、みな最初は膨らみ方が違うが、最終的には同じ膨らみ方に落ち着くらしい。みぞおち部分の鈍角に近い三角錐と、その下にある洋なし型の膨らみ――まん丸な腹よりも、洋なし型の腹の方が優れている、というのは意外だったが、事実その大会で一位を収めた真理子の1年上の先輩は、11.2 kgをその身に収めきった際、確かに球を一つずつ、上腹部と下腹部に押し込んで雪だるまの形につなぎ合わせたような、立派な洋なし型の腹をしていた。真理子曰く、人間の胃の形はもともとそういう風になっており、限界まで胃の能力を引き出した者は、自ずとそのような腹の形になるということだ。優勝した選手の名は、西村絵里選手と言ったか――その腹を触れることは叶わなかったが、当時の真理子の限界よりも数キロ膨らんでいる生腹に俺の目線は釘付けとなってしまい「絵里先輩に興奮してたでしょ」と試合後真理子にひどく怒られた。以降大食い部マネージャー代理をさせてもらえなくなったのは残念でならないが、まあ仕方のないことかもしれない。


さて、そんなわけで、話が長くなったが、大食い練習室6というのは、この大会のうち、トラックと階段部分を共用にし、食事場所だけを個室にした、区民用のスペースだ。時間制で予約をし、鍵を受け取って入る。受付に向かうと『鈴木達也』の名前で、12時から21時まで予約が入っていた。


「9時間も練習ですかー。随分と追い込まれますねー。調整期初日ですか? 頑張ってくださいね!」


受付のガチムチ系マッチョに声をかけられる。違う、俺じゃない。確かにそれは俺の名だが、俺は予約をした覚えなどないし、Ohgui選手でもない。上背はあるが、食欲旺盛な中学時代ですら2kg食べるのがやっとだった一般人だ。ただ、事情を説明するのが面倒だったので、成り行きで鍵を受け取ってしまっただけだ。というか、事情は今の俺にも、本当のところよく分かっていない。もしかして、真理子が予約した、ということなのだろうか? それとも会社で俺に気のある同僚がいて、俺を誘うために? しかし、なぜこんな面倒くさいことをするのだろう? 困惑しながらも、それぞれの場合についていろいろとシミュレーションを脳内で膨らませながら、俺は練習室の鍵を開ける。もちろん部屋の中には、誰もいない。


競技用の椅子と体重計、料理注文用のタブレット端末と料理が運ばれてくるベルトコンベア。スポーツセンターの大食い練習室は、公式競技米以外も注文することができ、食堂の代わりとしても使われている。料金が安く、味もよいことから、大食い選手以外の利用も多い。


どこかで見られていたのだろうか。達也が中に入ってすぐ、ノックの音がして、扉が開いた。振り向いた達也の目に、秋物のトレンチコートを着た、若い女性の姿が映る。大人っぽい秋物のコートの下からのぞく脚にはかなりの筋肉がついていて、両腕は細い。胴長短足で横に張り出した骨盤。優れた大食い選手なのだと、コート越しにも一目で分かる体躯をした彼女は、俺が最後に触れた時より遙かに可愛かった。可愛い、というよりも、美人、という方がいいかもしれない。軽い化粧に、少してかりの強いリップを入れて、黒のショートが似合っている。


「久し、ぶり・・・」


いろいろ準備していた台詞は一瞬で消え去って、俺は情けないほどありきたりな呟きしか言えなかった。


彼女はそんな俺に「よかった、相変わらず、変わらないね」と吹き出して「メール読んでくれた? あの返事で、どう?」と畳み掛けるように声をかける。返事? メールで呼び出されたから、ここに来たんじゃないか。と思ったけど、それは向こうも重々承知で、きっとこんな質問をしているのだろう。長いこと会っていない間に、向こうだけ大人の女性になっていて、俺はその手のひらで遊ばれているような気がした。そうだ、あのときのことを謝らねば・・・


「ご・・・ごめん」


そう言った俺に、彼女はいたずらっぽく笑い、人差し指で「静かに」と合図した。ほんの少しとがらせた唇がとても艶めかしくて、女性にそれほど慣れていない俺はその仕草にもドキッとしてしまう。大会直前なのだろうか、腹部はまっすぐへこんでいて、太めの紐で結ばれたコートの上からでも、ウエストのくびれがはっきり分かる。いつの間に、こんな大人になったんだろう?


「何も言わなくていいから。そこでちょっと見てて」


そう言って彼女はタブレットを操作した。ピッという音とともにベルトコンベアが動き出す。彼女が薄手のコートを脱ぐと、下には見慣れた服・・・というより見慣れすぎた、中学時代の彼女のユニフォームがあった。俺と別れたときのものだろうか。ほんの少しだけ丈が短いが、腹部の生地が余っているので、まだ皮膚は見えない。胸は膨らんだのか、二つの膨らみは静かにその存在を主張しているが、それほど体型は変わっていないようだ。彼女はそのままコートを手早く畳むと、体重計に乗った。この間、一言も言葉を発していない。俺も言葉を使うのを忘れたかのように、呆然とその非日常を眺めていた。


ピッという音を立てた体重計を、真理子が優雅に降りる。少しだけ近づいて確認すると、表示は50.12 kg。大食いのユニフォームは500gだから、ベースが49.12くらいなのだろう、とこんな時にもなぜか冷静に計算をしている自分がいる。真理子はそれきり「近づくな」とも「近くに来い」とも言わず、ベルトコンベアのそばに椅子を置き、身体に合わせて高さ調整を始めた。もし中2のときから真理子が変わっていないなら、これは「そのままそこに居ろ」ということだ。真理子は大食い中に邪魔されることをひどく嫌がり、気を悪くすると部屋を追い出されてしまうのだった。俺は追い出されぬよう祈りつつ、余計なことを言わずに、静かに待った。


そのうち良い香りがして、湯気を上げたごはんがベルトコンベアの中から運ばれてくる。ご飯茶碗の大盛り。おそらくは公式競技米のハーフサイズ(160 g)だ。お盆の上には箸が一膳。真理子は俺に背を向けて座り、手を合わせると、ごはんを淡々と口に運び始めた。流れるような動き。それほど速さを感じさせる訳ではないが、ちょうど1分半ほどで、ごはんは全て口の中に消えていった。それと同時に出現する次の茶碗。そこにも相変わらず、競技米のハーフサイズが盛られていた。そんな状況がしばらく繰り返される。テーブルに10も積み上げられた茶碗だけが時間の経過を感じさせてくれたが、それがなければ何が起きたのか分からないほど、静かで、重厚な時間が流れた。真理子は相変わらず淡々と、同じペースで飯を口に運んでいく。


一度数えてみたところ、茶碗はちょうど90秒ごとに、ベルトコンベアで運ばれてくるようだった。気付くと30分ほど時間が過ぎていて、立っているのに疲れた俺は、そこへ座った。茶碗を取って、中のご飯を口へ運んで、隣の山に、10ずつ重ねていく・・・そんな時間が40分ほどになると、真理子の後ろ姿から、くびれがなくなっているのが分かった。俺は真理子がなぜこんなことをしているのかはよく分からないが、何をしようとしているかは分かった(大食いをしようとしている)ので、邪魔して追い出されないように、静かに視界の外でそのまま座っていた。はじめはいつ振り返られてもいいように正座をしていたけど、真理子はどうやら振り返る気配はなくいようで、俺の脚の方が痺れてきたため、俺は胡座に切り替えた。


茶碗の山は3本、4本、5本と順調に増え、いつの間にか真理子の後ろ姿も、俺が見たことのないようなものになっていた。前方の膨らみは明らかに生地の想定外と見えて、少しでも布を前方に送りだそうと、無数の皺が斜めに寄っていた。これはまるで、放課後の教室で俺が初めて見た、真理子の後ろ姿のようだ。違いと言えば、あのときパツパツに引き延ばされていたのは大食いを想定していない普通の体操着で、いまパツパツに引き延ばされているのは強化選手の大食いを想定した中学の大食い用ユニフォームであるということだ。背中の向こう側に、横にもスペースを求め、張り出し始めている膨らみがあることに気づき、俺は内心興奮を禁じ得なかった。そんな俺の様子に気付いているのかいないのか、真理子は相変わらず同じペースで箸を進めたが、6本目の山が積み上がろうかという頃になって、Tシャツを上にたくし上げた。いよいよ大食いのユニフォームが、限界になったということだ。汗のせいか、微かにてかっているきめの細かな背は白く、こころなし丸まっていて、その前方には立派に成長した膨らみが見えた。その深海魚のような膨らみは、確かに食べ物が真理子の中へと収まっているという事実を証明しており、俺は自制心を押さえるのに苦労した。ここから先は、未知の世界だ。しかも一生のうちで、もう二度と拝めるかどうかわからない、未知の世界だ。俺はもう少しここに居させてもらいたかったから、静かに後ろで待っていたが、内心前に出て、別の角度から彼女の腹を眺めたかったし、できれば触れたり、声をかけたりしたかった。


そんなこんなで、俺が内なる欲望と葛藤している間、彼女は相変わらず落ち着いたペースで箸を進め、茶碗の山は11本目に突入した。大盛りご飯がすでに100杯も、真理子の胃に収まったということだ。寿司百貫、というのはアマチュアでも時折聞くが、ごはん百杯、というのは想像もつかない。しかし想像もつかないようなお腹が、今目の前で生まれようとしているのだ。つくづく大食いプロというのはすごいものだと思った。俺は前に出て、別の角度から真理子の腹を眺めたかったが、そうすると真理子の視界に入ってしまう。


しかしとうとう、茶碗の山が13本目に突入したところで、俺はどうにも我慢ができなくなった。俺の計算が確かなら、ここまで真理子は3時間も食べ続け、19キロも胃を拡張させているはずだ。もう、追い出されても仕方ない。この腹を前から眺めずに後ろで悶々と待つより、眺めて触れて、追い出された方がまだましというものだ。俺は静かに立ち上がり、真理子の横から眺めることにした。彼女は動じずに食事を続けている。決して小さくはない胸の膨らみがつつましやかに見えるほど、彼女の腹は、この3時間で立派に成長していた。3つ子の臨月の妊婦ですら、こんなに大きなお腹を抱えることはないだろう。彼女の背はバランスを取るためか、後方にやや反り返っており、さきほどたくし上げられたTシャツは、生腹の上で情けなく引っかかっていた。開いた肋骨の間から、三角錐の形に飛び出した上部の膨らみ、そこから大きく弧を描く、上腹部のふくらみ。細い腹筋がくっきりと押しつけられて、伸びきっているのも見える。弧は完全な半球ではなく、あの頃理想型として説明を受けた、堂々たる洋なし型だ。肋骨の横にも胃は飛び出しているらしく、はっきりしたその存在は照明の陰影に彩られている。へその少し横にある、黒い黒子の位置は中学時代と変わっていない。これが世界一の胃! オリンピック金メダリストである小山真理子の、鍛えに鍛え上げられた胃袋なのだ。それはあまりにも堂々として、立派に成長し、存在を主張しつづけていた。雪だるま? 瓢箪? 深海魚? いや、上手いたとえが見つからない。この形は、六升半の白米をパンパンに詰め込まれ、張り詰めきった大食い選手の胃袋、と言うほかなさそうだ。


13本目の半ば、ちょうど20 kgに到達したあたりで、彼女のペースが目に見えて遅くなった。相変わらず同じペースで流れてくる白米を入れた茶碗が、彼女の前へ次第に増えていく。茶碗が4つ並んだだけでも、常人が食べれるかどうか分からないほどの、結構な量だ。それを既に、20kg食べた彼女が、浅い息をしながら、残りのスペースに押し込もうとしている。お腹を押したりつねったり、両手でもんで、固めたりするような仕草をしては、少しずつ食べ始める。携帯で時間でも計っているのだろうか、時折息をつき、腹を愛おしむように撫で、携帯の画面を確認すると、ペースが上がる。そういえば、オリンピックのときもそうだった。そうやって13本目も終了し、茶碗の山は14本目に突入した。これはすごい。彼女はおそらく、今日を大会と同じように、調整をしながら迎えたに違いない。そうでなくては、ここまでの量は、彼女といえど、入らないだろう。世界一の胃をもつ彼女といえど、限界が近いのが、その息づかいや仕草からよく分かった。


133杯目を重ねたところで、彼女は箸を初めて置いた・・・限界か。まあ無理もない。携帯の画面を睨みつけ、腹をさすり、何度も何度も深呼吸をし、背中をねじりながら、もう一口口に含んで、それがなかなか飲み込めないようだった。彼女の胴は、胴体の前に、胴体を3つつなげたほどに膨らんでいた。彼女が初めてこちらを見た。その目には、涙が溢れ、頬のあたりまで流れていた。その姿にも、おれはドキッとした。真理子が華奢な手を伸ばし、先程まで眺めていた携帯の画面を、俺に向かって見せる。それはスクリーンショット:


--

今は辛いだろうけど、頑張ってください。応援しています

--


と書かれた、メールの画面が取られていた。さきほどの彼女の台詞と、態度と、オリンピックで同じように携帯画面を見つめていた様子と・・・全てが繋がった気がした。俺も気付けば涙が溢れてきていて、止まらなかった。彼女は携帯を置き、ゆっくりと立ち上がると、体重計に片足ずつ乗った。体重計は、71.40 kgを指した。実に21.28 kgの増加だ。俺は彼女のこれまでの日々に思いを馳せ、俺は感動を禁じ得なかった。


「手をかして」


彼女が久しぶりに口を開いた。もう4時間くらい、ずっと言葉のない世界に生きていたせいか、その言葉がとても新鮮で、貴重なものに思えた。俺は彼女に手を貸し、彼女は体重計を降りた。そっとその腹部にそっと手をやると、カチカチに固くなった膨らみは堂々かつ緊張しきっていて、別の生き物を触っているみたいだった。俺は激しく興奮した。彼女も何かを感じているようで、俺の両手首をつかんで、さわさわと俺に腹を触らせた。5分ほどもそうしていただろうか


「やっぱり、本物は、いいよね」


独り言のように、彼女はつぶやき、もう一度椅子に座った。疲れたのかと思って、俺も手を貸してやったが、彼女は驚くべきことに箸を取り、再び茶碗を持ち上げたのだった。こんな苦しそうな身体のどこを、これ以上いじめぬこうというのだろうか?


「もういいよ・・・真理子は、十分、頑張った・・・文句なしに、一番だ・・・」


腹の斜面に手を置きながら、俺は言った。


「・・・うん/// でも、達也に触られたら、もう少しいけそうな気がしたの。お願い、挑戦させて。もうしばらく、さすっていて」


俺は彼女の後ろに回って、椅子の後ろに膝立ちし、真理子の腹を後ろから抱き込んだ。昔もよくそうしたものだが、真理子の腹の皮膚は、想像以上に先にあった。


「いくつになったの?」


「今は分からない。この前の拡張期に計ったら、124 cmだった」


淡々と彼女は答える。その言葉に険はない。俺は聞きたかったことを、どんどん問いかけた。その方が彼女も気が紛れて、多くの食量を収められそうだったからだ。


「重さは?」


「食量はこの前のオリンピックが自己ベスト」


「身体の方は?」


「・・・Maxが・・・84.33」


「えっ? ・・・あっ、中3で激太りした、ってときのこと?」


「違うよ、これは去年の大晦日」


「なに? 拡張期なら30kgくらい食べれるってこと?」


「まさか、馬鹿言わないでよ。増量は23キロくらいかな。ひっきりなしに入れてるし、ちゃんと計量してないから、わかんないけど・・・」


すると、拡張期は今より10キロほど肉を蓄えていたということか。彼女は恥ずかしいのか、声が尻つぼみに小さくなる。


「俺の知らないところで、こんなに育っちまって・・・」


俺は彼女の、張り詰めた皮膚に優しく触れた。


「育っちゃったんじゃないもん! 頑張って育てたの! これでもここまで膨らませるの、結構大変だったんだから!」


そう言って彼女は、頬を膨らませ、膨らんだ腰に手をやってお腹を強調するしぐさをした。分不相応に飛び出した胃が、遠近感覚をいっそう眩ませる。


「知ってる」


俺はそう言って、強調された腹をもう一度なでる。大食いは、競技として続けるのが非常に難しい。食べている間はまだいいとしても、幽門を開くと胃が収縮しようとして、身体中を激痛が襲うからだ。かなり有望な選手でも、ある程度のところで大食いに見切りをつけ、この世界を離れていったりもする。


「『頑張ったな』の一言くらい言ってよ! ・・・た、達也のために頑張ったんだから・・・」


「は? だって、俺に内緒で育ててただろ」


「・・・でも、最初にもっと大きくなれ、って言ってくれたのは達也だし・・・」


彼女は言いよどんで、そして、次の茶碗を持ち上げる。お腹をサワサワとさすってやると、箸が動き、喉が鳴る。そしてまた一回り、はりつめる胃袋。そうして134杯目の茶碗も、彼女のそばに積み上げられた。彼女がフーッと、短い息を吐く。


「・・・ここまで育てたのは、間違いなく、達也だよ」


135杯目の茶碗をにらみながら、彼女が恥ずかしげに声を出す。


「・・・いつもね、限界がくると、あのメールを見てたの」


会話を進めながら、おそいながらも、彼女は着々と箸を進め、134杯と1口が彼女の中に収まる。もはや気力だけで、食べ進めていると言ってもよさそうだ。


「『今は辛いだろうけど、頑張ってください。応援しています』・・・私、この言葉に、どれだけ助けられたか。頑張れ、真理子! 負けるな、私のお腹! ・・・苦しいときは、そう言い聞かせて、頑張ってきたの。高校時代、立ち直れたのも、暗い性格を認められるようになったのも、達也のおかげ。明るい私や、大食い選手として一流なときの私を好きな人はたくさんいたけど、全部ひっくるめて愛してくれたのは、達也しかいなかった・・・」


たぶん、相当なスタッファーズハイだ。オリンピックの時以上かもしれない。止めさせた方がいいかな?


「ありがとう。そう言ってくれるのはとても嬉しいけど・・・でももうそろそろ、やめたら? いくら真理子でも、ちょっと食べ過ぎかも。それに、もうごはん冷めちゃってるし」


「ううん、ごはんは残したら、失礼だよ。大食い選手は、自分がほんとに食べれると思う量しか、注文しないの」


「今日はいくつ注文したの?」


「140」


「・・・140って・・・単純計算で22.4 kgだよ。オリンピックのときより、食べるつもりだったの?」


「うん・・・だって、達也の隣が、一番食べれる場所だから・・・」


俺は、思わずぎゅっと、真理子を抱きしめた。


「うがっっ、ぐるじいぐるじい!」


と彼女は叫び、慌てて俺は手を放した。


「ごめん・・・つい・・・」


「・・・いいよ、許す」


本当に苦しかったのだろう。彼女はさらに涙目になっている。手の甲で拭かれた涙が、彼女のうなじに下がってきた。


「・・・あのときはあんな風に言っちゃったけど、ごめん」


「・・・こちらこそ、わがまま言って、ごめん」


「わがままなんかじゃないよ。こんだけの胃袋を育てられる人が、大食い選手にならなかったら、日本の損失だったよ」


「うん、でも、メール見たでしょ。私、ようやく分かったの」


「え?」


「だから、あのときの返事。もしかして、理解しないでここに来たの? さっき『ごめん』って言いそうだったから、てっきり断られるのかと思っちゃった」


「・・・どういうこと?」


「送ったメール」


「・・・これ?」


俺はスマホを操作して、届いた謎のメールを見せる。


「そう。『たつや』って書いてあるでしょ? これ、あのときの返事」


「そういうことか・・・///」


分かりにくすぎだろう。俺はようやくあのメールの意味に気付き、自分の頬が赤くなるのを感じた。10年が過ぎて、彼女の胃は世界一の大きさまで育ったけれど、めんどくさい性格の俺が惚れた、彼女の性格のめんどくささは、全然変わっていないようだった。「俺か、大食いか、どちらかを選んで。その返事以外は、言わなくていい。大食いが好きなら、俺は一人で帰る。俺が好きなら、一緒に帰ろう」・・・そう言った俺に、世界の限界まで大食いを試してから「たつや」「迎えに来て」と返事をしたのが、あのメールだったということだ。しかしいくらなんでも、返事が遅すぎる。


「私、大食いも、たつやも、どっちも好き。でも、オリンピックで金メダルもらって『世界で一番の胃』って騒がれて、ようやく分かったの。私は大食いが好きよ。でも、大食いのために生きてるわけではないみたいなの。やっぱり私は、どうしてもどちらか一つ選ぶなら、達也の方がいいみたい」


「・・・どちらか一つなんて、選ばせないさ。今は俺も大人になったし、もっと欲張りだから。真理子は両方、求めればいい。俺がもっと、真理子が見たことのないところまで、きっとその腹を育ててやるから」


かっこいいのかどうか、今思い返すと謎だが、俺はそんなことを言ったと思う。真理子が箸を、俺に向けて差し出してきた。俺がためらいがちに箸を取ると、彼女は135杯目の茶碗を押し付けてくる。残りは俺に食べろということか。まあ5杯くらいなら、俺でもなんとかなるだろうか。意を決して食べようとすると、彼女は違う違うと俺の腕を叩き、俺に向かって口を開ける。なまめかしく濡れた口には、ドキドキするような口紅の赤。その中に綺麗に並ぶ、白い歯。


「・・・入れて」


俺は一瞬戸惑って、そしてその口に米粒を入れる。彼女はしばらくモゴモゴやりながら、両手で自らの皮膚をまさぐり、どこかにスペースを見つけたらしい。ゴクリ、と音を立てて、それを飲み込み、再び口を開ける。俺はためらいながら、次の一口を、彼女の口に放り込む・・・そんなこんなで、長い時間をかけて135杯目も、彼女の中に消えていった。彼女の目は恍惚として、眠いのか幸せなのか、よく分からないような感じだ。彼女はそのまま、床に横になりゴロゴロしたあと、そこで四つん這いになる。重力で胃袋が垂れ下がり、一層強調されて見えるが、内臓の圧迫がない分、これが一番楽な姿勢だということは俺も知っていた。拡張期の大食い選手は、よく限界に到達すると、この姿勢で最後の詰め込みを行う。うつぶせ寝で、胃の形に腹部の板を切り取った、大食い選手拡張期専用のベッドまで市販されているくらいだ。俺はそのまま136杯目、137杯目、と進み、彼女は少しずつ姿勢を変えながら食べ進めて・・・信じられないことだが、本当に140杯が中へ収まってしまった。最後乾燥して、パリパリに近くなったごはんは、水分が飛んだのか、食後計測した体重は72.13 kg。実に22.01 kgの増加だ。


「うわっ! さすがに初めてだよ! 22キロ台! これがオリンピックでできたらよかったんだけどなー」


そう言って彼女ははしゃぎ、少し激しく腹をさする。厳密には清拭をしていないので汗の分が上乗せされており、たぶんこれでようやくオリンピックと同じくらいなのだと思うが、俺もさすがに今日は、そんな野暮な突っ込みなどしない。何といったって、10年ぶりの再会なのだ。緊張するなという方が無理だろう。少なくとも俺の心臓は、もうずっと前から早鐘のように打っている。


「このユニフォーム、気付いた?」


「・・・最後に会ったときに着てた、やつ?」


「当たり! 時々取り出して、着てみてるの。あの頃はまだこの中に私が収まってて、それで限界だったなんて、信じらんない。今はもう、ほら、多少は洗濯で生地も伸びたはずだけど、ぜんぜん下がんないや」


そう言って彼女は、膨らんだお腹の下へ、Tシャツの生地をのばそうとする。当然のごと、シャツは斜面に屈服し、すごい勢いで腹と胸の間のくぼみに戻る。縦長に引き延ばされたへそ。横の黒子。中学時代のユニフォーム。どれもあの日と変わらないはずなのに、胃の重量感だけは全然違っていた。コラージュのようだ。


「なんか、コラージュみたい」


「ひどーい、そんなことないよ。よし!証拠見せるから、ちょっと目、閉じてて」


そう言って彼女は再びわざとらしく頬を膨らまし、何を思ったのか、Tシャツに手をかける。まさか! ・・・そのまさかだった。布がこすれる音がし、彼女の荒い息づかいが聞こえる。抗い切れず、薄く目を開けると、一糸まとわぬ姿の彼女が、身体を拭いて体重計に乗っていた。継ぎ目のない彼女の皮膚は、しかし完璧な洋なし型に大きく飛び出していて、俺はそっとその、浮き出した胃袋の線をなぞることができる。ピッという音を立て、体重計の計量が終わる。


「71.32だってさ。拡張期よりはずっと軽いし、全然楽。でも胃袋の張ってる感覚は、たぶんこれが人生で一番だよ。正真正銘、今の私の、小山真理子の、限界・・・どうせ薄目開けてるんでしょ? 男ならもっと、思い切り来て見て触んなよ」


「・・・いいのか?」


「・・・反対は、しない」


しばらく見ない間に、胃も胆もずいぶん大きくなったものだ。前はどんなに食べても、ここまでの大胆さはなかった。


「達也の好きだった、パンパンでカッチカチのお腹だよ」


そう言った彼女はこちらに向き直り、近づいてくる。拡張期の増量の産物だろうか。はっきりと膨らんだ胸は、胃に押されて両側へ開き、腹の上に乗ってしまっている。洋なし型の膨らみは相変わらずきめ細かな白いもち肌で、練習所の照明を見事に跳ね返して、芸術作品のようだった。彼女が俺の前に来ると、俺は彼女の腹を真上から見下ろす形になる。膨らみすぎて、全く彼女のつま先が見えない。というか、俺のつま先も見えない。俺の股間に、彼女の下腹部の斜面がはっきりと当たった。彼女は俺の両手首を持って、俺にその、中身がぎっしりと詰まり、重くて固い自らの胃を抱えさせる。それはカチカチに張りつめていて、汗でじっとりと濡れて、すべすべで・・・真理子の浅い息に合わせて仄かに上下していた。


「やっとここまで、きたよ、達也」


彼女は嬉しいのか痛いのか、涙声で俺を抱きしめる。大きな腹が邪魔して、彼女は俺の背中まで腕を巻き付けることができない。


「頑張ったな・・・真理子」


テンションの上がっている俺は、そっとその膨らみを撫でながら、息を荒げる。今は文字通り、俺は彼女の浮き出た胃袋、パンパンに詰まりきった米が今にも透けて見えそうな胃袋を掴んでいる。


「まだまだ、達也といっしょなら、きっともっと入るんだから」


そう言って、彼女はそっと気を失った。呼吸が止まらないように気をつけながら、俺は両腕で、気を失った彼女を支え、抱いてみる。ずっしりと重い、彼女の重み。ゴールドメダリストの、筋肉質な太ももと、華奢な背中からかかる、分不相応な加重。俺はそっと彼女の臍をなめた。気を失って幽門が開いたのだろうか、ゴロゴロと大きな音がして、彼女の腸管に高圧の食物が流されていく。聞こえないとは思ったけど、俺は彼女の耳元でつぶやいた。


「・・・大好きだよ、真理子」


・・・彼らが来年以降、どんなドラマを生み出すのか、それはまだ誰も、知らない。

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