幸福の日
やっと第一子の誕生が書き終わりました。
番外編集なので各話の時系列はごちゃまぜです。
すいません。
「不安で人は死ぬか……」
「死にませんよ」
そうか…と虚ろな表情で俯いた皇帝の横で呆れを微塵も隠さずにいる側近の男は目の前にある皇后の私室の扉を見つめた。産気づいたとの報告が入ってきたのは2時間ほど前だろう。足をもつれさせながら走る皇帝の後ろ姿を見て悪いと思いながらも吹いて笑った。
走って私室の前までくると迷いなく、その扉を開けようとする皇帝に皇后付きの侍女が一喝した。
「助産婦の許可が出るまでこの扉は閉じておくのが決まりです」
「エルヴィーナが心配なんだ」
「陛下。もし部屋に陛下がいれば皆、最善を尽くすことができません。皇后様と御子様の安全を第一に考えたいのです」
「…分かった」
唸るように苦渋の決断を下した皇帝は扉の前に椅子を用意させ、そこに陣取りその時を待った。
時折、漏れ聞こえてくる皇后の苦しそうな声に、まるで本人かのような苦しみを滲ませた皇帝は無意識のうちに手を組み祈るように瞳を閉じた。今まで神など信じていなかった皇帝が、何かにすがらずにはいられないほど追い詰められている。
「陛下、ここは戦場ではありません。新しい命が産まれるこの瞬間に…そのような顔は似合いませんよ」
「しかし…エルヴィーナの苦しんでいる声…なぜあんなに苦しまなければならん。私がそうさせているのだろう」
「新たな命が産まれる事は簡単ではないという事でしょう」
「私は…エルヴィーナが心配だ。あれに何かあれば生きてはいけん」
「だから多くの人間が皇后様の側で仕事をしているのです。陛下はそれを見守るのが仕事です」
「そうか。いや、そうかもしれんが…」
また何かしら否定の言葉を紡ごうとした皇帝を遮るように皇城に数十年ぶりとなる赤子の産声が響く
「おぎゃーーおぎゃーー」
命の叫びとでも言うのだろうか。先程まで青白く不安に顔を歪ませていた皇帝はその片鱗さえも見せず立ち上がった状態でただただその声に聞き入っていた。
室の中からは微かに歓声があがり次々と祝いの言葉が聞こえてくる。皇帝は今にも扉を押し破ろうとしたが、その寸前で中から扉が開いた。
皇后の生家から付き従ってきた侍女は涙を浮かばせながら恭しく皇帝に奏上する
「王太子殿下のご誕生で御座います」
「っ」
外で待っていた者たちが待望のお世継ぎの誕生に湧く中、皇帝は子の性別よりも皇后の無事を確かめるように室の中に乱暴に入った。
まだ助産婦の許可は出ていないです!と叫ぶ侍女を諸共せず真っ直ぐに皇后が横たわる寝台に向かう。
「エルヴィーナ!」
「…リカルド様……」
その手に生まれたばかりの子を抱き、心配そうな表情の皇帝を見た途端に皇后は、はらはらと涙を流した。そこには無事に生まれた安堵と子への母性、そして夫である皇帝への愛。それが入り混じってか皇后は涙を止める事が出来なかった。
「お前が無事で良かった」
「……っ…」
「お前が無事で子が健康であれば…それ以上に望む事などない」
「はい…っ…」
皇后が腕に抱いた赤子を潰さぬよう抱きしめながら皇帝はゆっくりと我が子に視線を落とす。赤子と呼ばれる通り真っ赤な身体に閉じた瞳があり言葉に出来ない感情が皇帝を埋め尽くす。
小さな小さな我が子は信じられないぐらい生命力に満ち溢れている。開いても己の半分もない手、ふっくらとした頬に、どうしようもなく愛しさが溢れる。
これまで皇后は多くのものを皇帝に与えてきた。それこそ数え切れないほどのものを。それでも、まだ皇后は与えてくれる。何にも代え難い者を。
「…リカル、ド…さ、ま……?」
「…」
「家族が増えましたね、きっとこれから大変な事もあります。それでも家族で一緒に考えて乗り越えていきましょう」
「…ああ、そうだな。何があっても守る、絶対にお前たちだけは」
「では私はリカルド様をお守りいたしますね」
「暖かい家族を作ろう。傷つけ合っても、離れていても…揺るがない絆を持った家族を」
「大丈夫です。必ず、そうなります……だから泣かないで」
「っ…」
皇帝は自分が泣いている事に気づかなかった。
皇帝の両親は仲が悪いという訳ではなかったが、逆にいいとも言えるものではなかった。父帝として尊敬に値する人であったし母后は慈善活動を通じ国に貢献した人だ。
皇帝は自分が不幸であると思った事は一度もない。
ただ両親は己の義務を重んじる人だったからか情に溢れる人ではなかった。
父は皇帝である義務を全うし、母と子を成したし、母は側室として世継ぎを産んだ。側室から皇后へとなったわけだが浪費家だったわけでもなく粛々と皇后の義務を果たした。
だからだろうか、皇后の懐妊が分かったとき、皇帝の脳裏には暖かく寄り添う家族の姿が思い浮かんだが、本当にそうなれるのだろうか、と不安に思った。しかし目の前に愛する妻と子がいる今は、不思議と不安はない。
「大丈夫です、リカルド様は素晴らしい父となります」
何の根拠もない皇后の言葉だが、誰よりも近くで皇帝を見てきたという時間がある。不信感もなく言い切る皇后の言葉は事実になるように思え、皇帝はただただ安堵した。
そしてそうなるように努力を、言葉を、愛を、行動を…皇帝は取ろうと心に誓う。
落ち着いた皇帝の様子を確認した侍女長は、まだ産後の処置が終わっていないと皇帝を室の外へ促した。しかし思い出したように再び皇后の元へ歩み、その唇を重ね告げる。
「ありがとう。愛している」
その言葉に皇后は唖然とし泣き笑いの表情になる。
「私も。ありがとうございます。愛しています」
感極まったように再び唇を重ね、そっと舌を絡ませると疲れてきっている皇后の身体がピクリとはねた。小さな水音が聞こえてきたところで侍女長の雷が落ち皇帝は後ろ髪引かれるような思いで退室した。
出産から3日後、国中に世継ぎの誕生が伝えられ皇城には祝いの言葉を捧げる臣民で溢れた。リヴィオと名付けられた第一皇子は両親に深く慈しまれ幼少を過ごす事となった。
周囲を驚かせたのは皇帝の子育てへの参加だ。過去の皇帝は皇后や乳母にそれらを任せきりで以前と変わらず政務に励んでいたが、現帝は政務の効率化を見直しさせ処理する案件を分類し決済する曜日を決めた。
皇帝の手元に届く前に各管理部署が審査をし皇帝へ奏上するかどうか見極めるようにした事もありデータ不足や計算間違いなどの初歩的なミスがある書類は担当者へ突き返され、皇帝は曜日ごとにまとまって処理をする事ができたのだ。
そして空いた時間を皇后と子に使い、初めての子育てに奮闘している。皇帝と皇后は2人で額を合わせ悩み、意見の食い違いもあったが粘り強く話し合いを続け妥協点を探しながら子育てをした。
そんな2人が1つだけ作った取り決め事がある。
それは「子どもの前では喧嘩しないこと」だ。元より声を荒げ喧嘩するような2人ではないが、今は不慣れな子育てをする夫婦であるし、以前と何かが変わるかもしれないと思ったからだ。
――――
「陛下、麦の収穫量ですが…」
説明しながら執務室の扉をノックし中に入ると、そこには主たる皇帝の姿がなかった。側近のこめかみがピクリと動きその瞳からは静かなる怒気が溢れている。
子が産まれて半年。
分かる。
初めての子であるし浮かれる気持ちは分かる。
分かるからこそ数時間おきに様子伺いでいるよう政務を調整している。今だって30分程前に帰ってきたばかりだというのに側近が資料を探しに出た途端これだ。
「陛下を連れ戻しに行く」
執務室の表で警護をしていた男たちは気まずげに頷くと皇后の私室へ向かう側近の後を追った。子どもに一目、会いにいく。すぐに帰ってくるからここに残れ。と言われ従ったわけだがよくよく考えればすぐに戻ってくるはずがない。
1つの扉の前にくると側近は少し乱暴にノックをする。穏やかな皇后の声が入室の許可を告げると小さいが赤子の声も聞こえた。
「失礼いたします」
「なんだ、お前か」
熱く柔らかな絨毯を轢いた床の上で寝そべり、同じく寝転んでいる赤子に触れながら皇帝は間延びした声で答えてくる。皇后は赤子の横で座りながら苦笑いを浮かべていた。
「なんだ、では御座いません。政務が滞っておりますよ、陛下」
「もう麦の関税についてだけだろう」
「そうですが」
「見ろ、リヴィオが寝返りをしそうなんだ。これが見逃せるか、絶対に見逃せないだろう」
至極、真面目に訴えかけてくる皇帝に側近は言葉も出ない。それを見かねた皇后が赤子を抱き上げ立ち上がり皇帝を見下げて微笑んだ。
「陛下、リヴィオは私が抱いております。寝返りはまだしません、早く政務をお片付けくださいませ」
「……もうすぐだっただろう」
「そうです、私も陛下に見て頂きたいと思っておりますので戻られるまでの間リヴィオを抱いております。陛下が戻られたら床に寝かせ共に様子を見守りましょう」
「…分かった。政務に戻る」
「いってらっしゃいませ」
「エルヴィーナ、腕が疲れるだろう。……寝かせといたほうがいい」
いい、というのが口だけだと誰が見ても明らかな表情を見て皇后は声をたてて笑った。こんな風になることを誰が想像出来ただろう。皇帝が子煩悩になったことは一層に皇后を喜ばせ幸せにさせる。
子が健康であれば、それ以上に望む事はない。そう決めたときから性別などの心配は遥か彼方へ投げ捨て、ただただ腹の子を想ってきた皇后は自分と同じように子を慈しむ皇帝の姿が愛おしくてしょうがないのだ。
いつも、その大きな腕で守ってくれていた。常にそばにいて暖かい場所で過ごさせてくれた。でも、そこから自ら出る決意をした皇后を眩しそうに目を細めて見た皇帝が…やはり、どうしようもなく愛おしいのだ。
そして子が生まれた、あの日。初めて見た皇帝の涙に皇后は胸が押しつぶされる想いだった。あまりにも美しく澄んだ皇帝の涙は皇后の胸を埋め尽くし出会ってからの少なくはない皇帝との思い出が過ぎった。
「お父様もお母様も心からリヴィオを愛していますよ」
「あーあー」
「ふふふ、だから寝返りはまだ待ってね。お父様が寂しがるから。お仕事が終わるのを待ってあげてね」
「ううぅ」
「ありがとう」
小さな小さな赤子に理解させる為に話したのではない。ただ、どれほど愛しているかを知っていて欲しいと思ったのだ。いつか、貴方が小さいとき、こう貴方に言い聞かせたのよ、と思い出を語れる日が必ずくると分かっているから。
「リヴィオ、貴方に辛い事があって傷ついた時、両親に愛されたという記憶が…貴方を慰める日がくるよう…たくさんの愛情を注いでいくわ。だから下を向かないでね、必ず私たちがそばにいるから」
皇后は窓の外から城下を見渡した後、そっと腕の中の子に口付けた。誰よりも愛おしい皇帝の血を引く、ただひとりの、たったひとりの我が子へ。
*****
「マーサ、母上は?」
「まあ、殿下。皇后様は皇帝陛下と共に庭園で昼食をとられています」
「相変わらず仲が良い」
「はい、殿下が皇城を出られた後、寂しがる皇后様を見て以前にも増してお2人で過ごすことが増えております」
「…そうか」
皇后である母付きの侍女長であるマーサは来月には別の人間に位を譲り職を辞す事になっている。そして皇太子である第一皇子も数ヶ月前に18歳の誕生日を迎え、教育の一貫として皇城より馬で1日かかる母方の屋敷に住むようになっていた。
皇太子が皇城を出て過ごす事は過去の皇室でもあった事である。市井の生活を間近に見る事がよりよい統治を行う上で何よりだろう、と言われているのだ。言いたいことは分かるし、皇太子にとっても皇城を出る事はある程度の自由が与えられる為、両親…特に母である皇后は涙ながらにそれを許可した。
言葉の端々に、手紙の最後に、そろそろ帰ってきたら、というニュアンスを感じさせる母に皇太子は何だか気恥ずかしいような気分になる。18となりもう大人の仲間入りをしたと思っているが両親、やはり母親である皇后には弱いのが自分でも分かっているからだ。
時折、思い立ったように帰城するのを母親の為、と自身に言い聞かせるが根底は自身が母親、もちろん父親を含め兄妹たちに会いたいと願うからだと分かっている。それを口には出来ないが、そんな自分を分かっているだろう父親は悪戯に髪をぐしゃぐしゃにしながら頭を撫でながらも何も口にしないので助かっている。
そして何より帰城した時の
「リヴィオ!」
「母上」
「おかえりなさい、リヴィオ」
「…ただいま」
母親の輝かしい笑顔が見たいがため少なくはない里帰りを繰り返してしまうのだ。
「ちょうどリヴィオが産まれたときの事を話していたのよ」
「どんな話ですか?」
「リヴィオがね、寝返りをしそうなときに……」
こうして語られる思い出を聞くと、自分がどれほど両親に愛されているか自覚する。愛されている事を知っているからこそ皇城を出る決心ができたのだ。離れていても家族との絆はすぐに感じる事が出来る。
そんな家族への愛を胸に。
自分もいつかたったひとりの誰かを愛する事を願って。