25 立派な公文書
森の奥から聞こえたあの音は、植物のざわめきとも、獣の唸りとも違っていた。
まるで、深い土の底で、巨大な根がゆっくりと身じろぎしたような音だった。
村へ戻ったあと、オルガはすぐに村長の家へ向かった。
私は薬師店で待つように言われたが、じっと座っていられる性分ではない。
調査道具を片づけ、採取した沢の水を濾過し、瓶の中に残った微細な沈殿物を確認する。さらに、道中で見つけた薄暮苔の変化を帳面に書き加えた。
青い苔については、鑑定結果が出なかった。
それが妙に気にかかる。
植物鑑定は、私にとって植物の名前を知るための便利な力だった。けれど、あの苔を前にしたときだけは、まるで目の前に薄い膜が張られたように、情報が何も届かなかった。
鑑定できない植物。
光の明滅。
水面の揺れ。
そして、水の下を這っていた影。
「……植物、なのかな」
呟いた声が、誰もいない店内に落ちた。
植物に見えた。
けれど、植物ではない何かが混じっていたようにも思える。
私はしばらく考えたあと、帳面の端に小さく書き込んだ。
『植物に似た反応を示す未知の存在』
それから、さらに付け足す。
『魅力的だが、近づいてはいけない』
これは重要だ。
非常に重要な注意書きである。
その直後、店の扉が勢いよく開いた。
「リゼット!」
戻ってきたオルガだった。
「どうでしたか?」
「あの沢の水は、やっぱり普通じゃないね」
「苔は?」
「私が見た限りでは、青い苔に異常な反応があった。村長たちには近づかないよう伝えてある」
「それは正解です」
「……あんたに言われると、どうにも説得力がないね」
オルガは疲れたように椅子へ腰を下ろした。
「植物由来の成分はどうでしたか?」
「そこまではまだわからない。だが、白牙草が見つかった時点ですぐに水まで調べたのは正解だった。おかげで、沢の水を使わないよう早めに村長へ伝えられたからね」
「はい」
「家畜の方も、当面沢の近くの牧草地は閉鎖することになったよ」
ひとまず、村への被害が広がることは防げそうだった。
私はほっと息を吐く。
「よかった……」
オルガが、私の帳面を見た。
「上流の異変が、どこから来ているのか。それがわからない」
「樹海から流れてきている可能性が高いです」
「まだ断定はできない。沢の途中に魔力を含む鉱石があるのかもしれないし、別の植物が水を汚染している可能性もある」
「…はい」
「だからこそ、あんたの記録が必要になる」
私は顔を上げた。
「村長に見せたよ」
胸の奥が、じわりと温かくなる。
これまで私の帳面は、珍しい植物の名前や毒性、薬効を書き留めるためのものだった。
自分が忘れないため。
あとで調べ直すため。
そして、見つけた植物をもう一度思い出すため。
それが初めて、自分以外の誰かの役に立ったのだ。
「村長は、今後の調査でその記録を使いたいと言っている」
「……役に立ちますか?」
「役に立つから言っているんだろう」
「でも、私はまだ子どもです」
「年齢と記録の正確さは別だよ」
オルガはぶっきらぼうに言った。
「これで、あんたの帳面も立派な公文書だね」
「公文書……!」
「そこに喜ぶのかい」
「だって、私の植物記録が正式な資料に!」
「ただし、字が汚いところは直しな」
「そこは今後の課題です」
「今後じゃなく、今日からだ」
私は帳面を開き直した。
紙の上に並んだ文字は、いつもと変わらない。
白牙草。
薄暮苔。
青く光る苔。
魔力濃度。
水質異常。
沢にいる何か。
けれど、それらがただの知識ではなく、村を守るための手がかりになるのだと思うと、少しだけ見え方が変わった。
「……では、もっと詳しく書きます」
「そうしておくれ」
「植物の分布だけでなく、土の状態や風向き、日当たり、水の温度も記録します」
「調子に乗って徹夜するんじゃないよ」
「しません」
「前にも聞いたね、その返事」
私は笑ってごまかした。
*
その日の夕方、村長から正式に、改めて村全体へ注意が促された。
沢の水は引き続き使用禁止。
沢に近い牧草地の一部も立ち入り禁止。
異常な植物を見つけても、決して触らず、薬師へ知らせること。
村人たちは不安そうにしていたが、原因がわからないまま放置されるよりはよかったらしい
翌日から、薬師店には村人たちが次々と訪れた。
「畑の端に、見たことのない草が生えていた」
「井戸のそばの苔が、いつもより濃い色をしている」
「鶏小屋の裏に、紫色の小さな花が咲いた」
私は一つずつ話を聞き、場所と特徴を帳面に書き込んでいった。
去年から生えていたものを、異変のせいだと思い込んでいた人もいた。
けれど、いくつかは確かにおかしかった。
葉の裏に薄い銀色の斑点がある草。
水路から離れているのに、湿地性植物のような根を張る花。
地面に触れず、空中へ伸びる蔦。
村のあちこちで、植物たちは静かに変化していた。
それは急激な異変ではない。
だからこそ、今まで誰も気づかなかったのだろう。
植物は大声で危険を知らせたりしない。
ただ、葉の色を変え、芽吹く場所を変え、根を伸ばす方向を変える。
気づく人間がいなければ、その変化は見過ごされてしまう。
私は一枚ずつ記録を増やしていった。




