↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/25

25 立派な公文書

 森の奥から聞こえたあの音は、植物のざわめきとも、獣の唸りとも違っていた。


 まるで、深い土の底で、巨大な根がゆっくりと身じろぎしたような音だった。

 

 村へ戻ったあと、オルガはすぐに村長の家へ向かった。


 私は薬師店で待つように言われたが、じっと座っていられる性分ではない。


 調査道具を片づけ、採取した沢の水を濾過し、瓶の中に残った微細な沈殿物を確認する。さらに、道中で見つけた薄暮苔の変化を帳面に書き加えた。


 青い苔については、鑑定結果が出なかった。


 それが妙に気にかかる。


 植物鑑定は、私にとって植物の名前を知るための便利な力だった。けれど、あの苔を前にしたときだけは、まるで目の前に薄い膜が張られたように、情報が何も届かなかった。


 鑑定できない植物。



 光の明滅。


 水面の揺れ。


 そして、水の下を這っていた影。


「……植物、なのかな」


 呟いた声が、誰もいない店内に落ちた。


 植物に見えた。


 けれど、植物ではない何かが混じっていたようにも思える。


 私はしばらく考えたあと、帳面の端に小さく書き込んだ。


『植物に似た反応を示す未知の存在』


 それから、さらに付け足す。


『魅力的だが、近づいてはいけない』


 これは重要だ。


 非常に重要な注意書きである。


 その直後、店の扉が勢いよく開いた。


「リゼット!」


 戻ってきたオルガだった。


「どうでしたか?」


「あの沢の水は、やっぱり普通じゃないね」

 

「苔は?」


「私が見た限りでは、青い苔に異常な反応があった。村長たちには近づかないよう伝えてある」


「それは正解です」


「……あんたに言われると、どうにも説得力がないね」


 オルガは疲れたように椅子へ腰を下ろした。



「植物由来の成分はどうでしたか?」


「そこまではまだわからない。だが、白牙草が見つかった時点ですぐに水まで調べたのは正解だった。おかげで、沢の水を使わないよう早めに村長へ伝えられたからね」

 

「はい」

 

「家畜の方も、当面沢の近くの牧草地は閉鎖することになったよ」


 ひとまず、村への被害が広がることは防げそうだった。


 私はほっと息を吐く。


「よかった……」


 オルガが、私の帳面を見た。


「上流の異変が、どこから来ているのか。それがわからない」


「樹海から流れてきている可能性が高いです」



「まだ断定はできない。沢の途中に魔力を含む鉱石があるのかもしれないし、別の植物が水を汚染している可能性もある」


「…はい」


「だからこそ、あんたの記録が必要になる」


 私は顔を上げた。


「村長に見せたよ」


 胸の奥が、じわりと温かくなる。


 これまで私の帳面は、珍しい植物の名前や毒性、薬効を書き留めるためのものだった。


 自分が忘れないため。


 あとで調べ直すため。


 そして、見つけた植物をもう一度思い出すため。


 それが初めて、自分以外の誰かの役に立ったのだ。


「村長は、今後の調査でその記録を使いたいと言っている」


「……役に立ちますか?」


「役に立つから言っているんだろう」


「でも、私はまだ子どもです」


「年齢と記録の正確さは別だよ」


オルガはぶっきらぼうに言った。


「これで、あんたの帳面も立派な公文書だね」


「公文書……!」


「そこに喜ぶのかい」


「だって、私の植物記録が正式な資料に!」


「ただし、字が汚いところは直しな」


「そこは今後の課題です」


「今後じゃなく、今日からだ」


 私は帳面を開き直した。

 

 


 紙の上に並んだ文字は、いつもと変わらない。


 白牙草。


 薄暮苔。

 

 青く光る苔。


 魔力濃度。


 水質異常。

 

 沢にいる何か。


 けれど、それらがただの知識ではなく、村を守るための手がかりになるのだと思うと、少しだけ見え方が変わった。


「……では、もっと詳しく書きます」


「そうしておくれ」


「植物の分布だけでなく、土の状態や風向き、日当たり、水の温度も記録します」


「調子に乗って徹夜するんじゃないよ」


「しません」


「前にも聞いたね、その返事」


 私は笑ってごまかした。

 

 

 *

 

 その日の夕方、村長から正式に、改めて村全体へ注意が促された。

 

 沢の水は引き続き使用禁止。

 

 沢に近い牧草地の一部も立ち入り禁止。

 

 異常な植物を見つけても、決して触らず、薬師へ知らせること。

 

 村人たちは不安そうにしていたが、原因がわからないまま放置されるよりはよかったらしい

 


 翌日から、薬師店には村人たちが次々と訪れた。


「畑の端に、見たことのない草が生えていた」


「井戸のそばの苔が、いつもより濃い色をしている」


「鶏小屋の裏に、紫色の小さな花が咲いた」


 私は一つずつ話を聞き、場所と特徴を帳面に書き込んでいった。


 去年から生えていたものを、異変のせいだと思い込んでいた人もいた。


 けれど、いくつかは確かにおかしかった。


 葉の裏に薄い銀色の斑点がある草。


 水路から離れているのに、湿地性植物のような根を張る花。


 地面に触れず、空中へ伸びる蔦。


 村のあちこちで、植物たちは静かに変化していた。


 それは急激な異変ではない。


 だからこそ、今まで誰も気づかなかったのだろう。


 植物は大声で危険を知らせたりしない。


 ただ、葉の色を変え、芽吹く場所を変え、根を伸ばす方向を変える。


 気づく人間がいなければ、その変化は見過ごされてしまう。


 私は一枚ずつ記録を増やしていった。

 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。