第三話 森の目覚め
意識が、冷たい泥の底からゆっくりと浮上した。
最初に感じたのは、湿った土の冷気と、頬に触れる硬い樹皮の感触だった。
レイン・アマミヤはすぐには身を起こさず、呼吸を整えながら、自分の状態を確認した。
――異常を検知。
浅く息を吸い込むと、鼻の右側だけが妙に空虚だった。
ゆっくりとまぶたを持ち上げる。
左目の視界は正常。薄暗い森の木々と苔むした地面が映る。
だが、右目には光の一片すら届かない。まぶたを持ち上げる筋肉の反応すら消失していた。
「……右目が、開かない」
左手で顔の右側に触れる。痛みや外傷の腫れはない。ただ、神経そのものが断絶したように沈黙していた。
違和感はそれだけにとどまらなかった。
音の聞こえ方が極端に偏っている。左耳は風の葉擦れを拾うが、右耳は分厚い水中に沈んだようにくぐもっていた。
起き上がろうと、右手に力を込める。
肘や肩は動く。だが、手首から先の反応が決定的に鈍かった。泥に触れている冷たさは微かに感じるものの、分厚いゴム手袋越しのように感覚が遠い。
握ろうと意識を集中させても、命令が伝わるまでに著しい遅延が生じる。数秒のズレを伴って、ようやく指先がぎこちなく閉じる程度だった。開くのにも同じだけの時間がかかる。
さらに唇を噛むと、口の右側だけ味覚も痛覚も極端に鈍かった。
右側の視覚と聴覚、右手の運動と触覚、その他いくつかの感覚が、広範囲に失われ、あるいは著しく減衰していた。
「……これだけの神経脱落症状。脳幹の損傷か?」
レインは呻きながら、左手を使って上体を起こした。
その瞬間、猛烈な違和感が背筋を駆け抜ける。
視点が、異常に低い。
見上げる周囲の大樹が、記憶にある比率を遥かに超えて巨大に見える。
レインは自分の腕を見下ろした。
骨が細い。手首も、前腕も、大人の厚みを完全に失っている。着ている衣服の袖はだらしなく余り、足首も折れそうなほど華奢だった。
「……は?」
漏れた声は、二十八歳の開発責任者のものではなかった。
声変わりすら迎えていない、まだ幼い子どもの甲高い響き。
「身体が……縮んでいる? いや、子どもの身体になっているのか……?」
レインは膝をつき、思考を急速に回転させた。
最後にあった出来事は――巨大地震。アレテイア社地下研究区画の崩壊。
天井が崩れ落ち、瓦礫に呑まれ、死を覚悟した瞬間――そこで記憶は完全に途切れている。
自分は死んだはずだ。
それなのに、なぜ見知らぬ森で、身体の右半面の機能を失い、幼い子どもの姿になって生きているのか。
エルバはどうなった。会社は。同僚たちは。
答えのない疑問が次々と湧き上がる。
だが、レインは短く息を吐き、頭を振った。
システムエンジニアとしての冷徹な合理性が、パニックを押し殺す。
「過去の検証は後回しだ。最優先事項は――現在の生存確率の確保」
右手が極めて不自由な子どもが、未知の森林で単独生存する難度は極めて高い。
行動指針を三つ設定する。
一、周囲の環境調査。
二、飲料水と食料の確保。
三、安全な拠点の捜索。
レインは両足を踏みしめて立ち上がった。
右手の動作には深刻な遅延があるが、足の運動機能は生きている。歩行に支障はない。
左耳を澄ますと、木々の奥からかすかな水音が聞こえた。
足元の湿った腐葉土を踏みしめ、音の方向へ慎重に進む。
歩きながら周囲の植生を観察するが、見慣れた植物はひとつも存在しなかった。シダに似た巨大な下草、微かに燐光を帯びて青く光る苔。地球の熱帯雨林や未踏地帯の植生データとも、明らかに合致しない。
数十メートルほど進むと、小さな岩場の下に、澄んだ水が溜まった窪地を見つけた。
レインはしゃがみ込み、水面を観察した。
不純物の浮遊はない。左目で水面を覗き込むと、そこに映し出されたのは、黒髪に黒い瞳を持つ、見知らぬ少年の顔だった。
右目は閉ざされたまま動かない。
「……本当に、子どもだな」
自身の姿を客観的な事実として受け入れる。
水に触れようとしたが、水底に微弱な光の粒子が漂っているのが見えた。未知の成分が含まれているリスクを考慮し、飲用は保留する。
近くの灌木には赤く熟した親指大の実がなっていたが、皮を破るとかすかに刺激臭があった。これも口には入れない。
「水も食料も、安全性が証明できるまでは摂取不可。まずは獣や風雨をしのげる遮蔽物を――」
レインが立ち上がろうとした、その時だった。
森の空気が、唐突に凍りついた。
物理的な気温の低下ではない。空間そのものの気圧が跳ね上がったような、肌を刺す強烈な気配。
レインは反射的に背後の巨木の幹へ身を隠し、息を殺した。
木々の隙間から、その姿が現れた。
音もなく落ち葉の上を踏みしめ、歩いてくる人影。
銀色の長髪が、木々の隙間から差す光を弾いていた。
こちらを見た瞳は、深い紺色をしている。
白い肌と、側頭部から後方へすっきりと伸びる、長く尖った耳。
外見年齢は二十代半ばほどに見えるが、その容貌は現実離れした均整を保っていた。
だが、その特異な容姿以上にレインの警戒を跳ね上げたのは、彼女の周囲の様子だった。
虫の音も、鳥の羽音も、風の葉擦れすら途絶えている。まるで周囲の自然環境すべてが、その女を恐れて沈黙しているかのようだった。
――未知の人類か? いや、あの耳の形状は……。
レインが息を呑んだ瞬間、女が静かに視線を向けた。
巨木の陰に隠れていたはずのレインの左目と、彼女の紺色の瞳が、正確に交錯する。
女の薄い唇が、静かに開いた。
「――――、――――――?」
声は、冷涼な鈴の音のように澄んでいた。
しかし、紡がれた音韻体系は、少なくともレインが知るどの言語とも一致しない。
通じない言語。
未知の生態系と、異形の特徴を持つ人間。
そして、己の縮んだ肉体。
――合理的説明のつかない環境。だが、まずは目の前の相手が敵か味方かを見極めなければならない。
レインは反応の鈍い右手を庇うように引き寄せ、銀髪の女をじっと見据えた。




