第二十四話 世界の基準
北の森の朝は、静謐な冷気に包まれていた。
木造の平屋の隙間から細い陽光が差し込み、机の上に並べられた乾燥薬草の束をかすかに照らしている。
レインは壁際の寝台から上体を起こした。
右腕を静かに持ち上げ、五本の指を順に握り、開く。神経を通る信号のわずかな引っかかりは消え、筋肉の連動は前日よりも滑らかだった。
《おはようございます、レイン。右腕の生体信号伝達効率は九四パーセントまで回復。局所的な神経痛も観測されません》
右眼の視界の隅で、身体の接続状態を示す記号が静かに更新された。
レインは胸の内で短く応じる。
『おはよう、エルバ。異常はないか』
《内部システムの稼働状況は極めて良好です。ですが、活動を本格化させる前に、優先度の高い作業があります。この星の基本パラメータの確定と、環境データベースの同期作業です》
『外部環境の定義か。確かに、判断の前提となる基準が曖昧なままでは、最適な行動は選べない。今までは生きることとこの星に順応することで精いっぱいだったが、エルバが一緒ならそれが最優先事項だ』
レインが毛布を退けて立ち上がると、炉端で湯を沸かしていたエルシアが振り返った。銀色の長い髪を束ねたエルフの魔女は、温かな湯気を上げる木製の器を机に置いた。
「起きたか、レイン。無理に動くでないぞ。昨日は大騒ぎだったのじゃからな」
「体調に異常はない。エルバの自己診断でも回復が確認されている」
レインが素直に礼を言って湯を受け取ると、エルシアの視線がその右眼へ向けられた。
「……エルバも、静かにしておるようじゃな」
《私は常時稼働しています、エルシア》
エルシアの頭の中へ、澄んだ声が直接響いた。
わずかに肩を跳ねさせたものの、昨日のような過剰な警戒は解かれている。エルシアは苦笑混じりに息を吐いた。
「慣れんものじゃな。耳を通さぬ声というのは。……それで、朝からわらわに何用じゃ。ただの挨拶という顔ではあるまい」
《今後、三人で実験を進めるために、この世界の基礎知識を照合したいと考えています。行動計画の前提となる情報が必要です》
「基礎知識……まあ、この世界の仕組みを知りたいということじゃな。よいぞ。レインの知識が偏っておるのも気になっておったところじゃ。答えられることなら何でも話そう」
エルシアは椅子を引き、レインと向かい合って座った。
「ただし、最初に断っておくことがある。わらわがこの北の森の奥に籠もってから、すでに百年の月日が流れておる。今の王都で誰が王位に就いておるか、どのような流行り廃りがあるかといった『最近の世情』は一切知らん。わらわが教えられるのは、百年前に通用していた常識か、あるいは星の理のような普遍的なことだけじゃ」
《問題ありません。歴史の流動的な変数よりも、自然法則や、判断の基準となる単位系の確認を最優先します。最初に、この世界の名称を確認させてください》
「世界の名前か。……『エレメンティア』じゃ。古くからそう呼ばれておる。七つの魔法の理と精霊の息吹によって形作られた星じゃな」
《ありがとうございます。次に、距離、重量、および時間の単位系について質問します》
「ふむ、単位か。まずは距離じゃな。最も身近な単位は『メル』じゃ。この作業机の横幅なら、ちょうど一メルに誂えてあるぞ」
レインの右眼を通じて、エルバが机の上を走査し、レインの脳内へ解析結果を送る。
《机の長辺を走査。一メルはおよそ一メートルに相当します》
「それより短い長さには、一メルを百に分けた『セル』を使う。薬草を刻む幅や小さな魔石などを測るときに使われるな。逆に、町と町の距離や街道の長さを言うときは『リル』を使う。一リルは千メルじゃ。さらに、人族が街道を一日で無理なく歩く標準的な距離を『日脚』と呼び、一日脚はおよそ五十リルじゃ。もっとも、体力のあり余る獣人などは、その倍の百リル近くを歩くそうじゃがな」
《レイン、一メルを約一メートルとする暫定換算を登録します。一セルは約一センチメートル、一リルは約一キロメートル、一日脚は約五十キロメートルです》
『十進法でメートル法と同じ比率か。計算しやすくて助かる』
レインが頷き、続けて口を開いた。
「エルシア、重さや時間はどう分かれている?」
「重さは、薬草や微量な魔石を量る『グラ』。武器や食材を量る『ケル』。そして荷馬車の積載量や巨獣の重さを表す『トル』じゃな。千グラで一ケル、千ケルで一トルになる。棚の下にある未開封の岩塩の袋が、ちょうど一ケルじゃ。旅の荷物で言えば、人が背負って無理なく行軍できる標準の荷物を『一荷』と呼び、これは二十五ケルになるな」
《袋の外形からの概算では、一ケルは一キログラム前後と推定されます。正確な換算には、分銅などの基準器との照合が必要です。なお、グラ、ケル、トルの比率はグラム、キログラム、トンと一致します》
レインは温かい湯を口に含みながら、エルバの高速な処理を右眼の奥で感じ取っていた。
「時間はな、庶民なら夜明けや正午、日暮れといった自然の感覚で事足りる。だが、商人や役所、軍などは数字による『刻』や『分』を使う。一日が二十四刻、一刻が六十分じゃ。そして、もっとも短い基礎単位を『瞬』と呼び、一分は六十瞬になる」
《一分は六十瞬、一刻は六十分、一日は二十四刻。単位の分割体系は前の世界と一致します。各単位の実際の長さは、内部時計と照合します》
「ただしじゃ」
エルシアが人差し指を立てた。
「わらわのような魔導士や古い教会は、これとは別に十二支の『時辰』を用いる。一時辰は二刻で、一日は十二の時辰に分かれておる。例えば深夜は陰の水と闇が極まる『子の時辰』、正午は陽の火と光が満ちる『午の時辰』、そして夜明けの今は陽の木と光が昇る『卯の時辰』じゃ。時辰によって大気中に活性化する魔素の属性が変わる。術式を組む者にとって、時間の把握は魔力そのものを読むことと同じじゃ」
《重要な注記です。環境魔素の周期変化として時間パラメータを組み込みます。現在の環境データを[陽の時辰・卯の刻/木・光]として設定しました》
《エルシア、最後に暦と四季の概念について教えてください》
「一年は三百六十日、十二の月で巡る。季節は『木季・火季・金季・水季』の四季じゃな。寒暖の差はあるが、この北の森は木季が長く、火季が極めて短い。もう半月もすれば、金季の金気が極まり、厳しい水季が訪れるじゃろう」
《三百六十日制の暦と四季の循環を登録完了しました》
「半月で冬が来るということか」
レインは器を置き、窓の外の澄んだ朝の光を見つめた。
基礎単位の照合は終わった。次はいよいよ、この世界の魔法と技術体系の本格的な解析が始まる。




