第十九話 暖炉の火と奇跡の余韻
森を出る頃には、空はすでに夕暮れの色へ変わっていた。
レインの背には薬草の入った採取袋があり、エルシアの収納袋にはブラックパンサーから得た素材が収められている。二人は疲れた足を動かしながら、家へと戻った。
二人は家へ戻ると、まず採取袋から星霜花を取り出した。
エルシアは葉と花を傷つけないよう状態を慎重に確かめ、遮光布に包んだまま冷蔵用の保存箱へ収める。
「加工は明日じゃ。それまではここで鮮度を保つ」
薬材の処置を終えてから、エルシアは収納袋から大きな肉塊を取り出した。
深い赤色をした肉だった。表面には細かな光沢があり、普通の獣肉とは違う濃密な気配が感じられる。
「今日はよく歩いたのう」
「エルシアはずっと前線で戦っていたのに、もう普通に歩けている」
「おぬしの光魔法で治ったからの。腹が減った以外は問題ないわ」
エルシアはそう言って、肉塊を調理台へ置いた。
「それは……ブラックパンサーの肉?」
「うむ。今夜の食事じゃ」
「魔獣の肉は、処理すれば安全に食べられる?」
レインが尋ねると、エルシアは肉塊を眺めながら説明した。
「魔獣の肉は、すべて食べられるわけではない。体内に魔力が多く残っている部位を口にすれば、腹痛や吐き気を起こす。軽い魔力酔いで済むこともあるが、ひどければ高熱が出て数日寝込むことになる。魔力の濃い肉を処理せず食べれば、命に関わる場合もあるぞ」
「毒に近いもの、という意味?」
「似ておるが、少し違う。毒は成分そのものが身体を害するが、魔獣の肉に残った魔力は、体内の魔素循環を乱すのじゃ」
エルシアは肉へ手をかざした。
瞳の奥に淡い光が灯る。
「魔眼で見ると、肉の中に魔力の筋が見える。濃く淀んでいる場所は食べられぬ。逆に、魔力がほとんど抜けている部位なら、下処理をして十分に火を通せば安全に食べられる」
「エルシアの魔眼は、肉に残った魔力の分布まで判別できるのか」
「魔力の流れを見る目じゃからな。素材の良し悪しを確かめるのにも役立つのじゃ」
エルシアは小刀を入れ、濃い魔力の残る筋や塊を手際よく切り落としていく。
さらに水で血と表面の汚れを洗い流し、清潔な布で水気を拭き取った。
「この部位なら問題ない。おぬしも食べてみるか?」
「……本当に安全?」
「わらわが見ておる。心配するでない」
エルシアは肉へ粗塩を振り、暖炉の火にかけた鉄網へ乗せた。
じゅう、と小気味よい音が響く。
脂が火に落ち、香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
表面がきつね色に焼け、肉汁が小さく泡立つ。エルシアは焼け具合を確かめてから、厚切りの肉を木皿へ盛りつけた。
「さあ、食べるがよい」
レインは恐る恐る一切れを口へ運んだ。
噛んだ瞬間、豊かな肉汁があふれ出す。
「……おいしい」
「そうじゃろう」
「柔らかい。干し肉とは全然違う。ブラックパンサーの肉は、こんなに味が濃いのか」
「魔力の少ない部位を選び、正しく処理すればな。ブラックパンサーは運動量が多いぶん、肉の味も濃いのじゃ」
レインは夢中で肉を食べた。
森での戦いは恐ろしかった。
エルシアが傷ついたときは、もう二度と一緒に帰れないとさえ思った。
それでも今は、こうして暖炉の前で食事をしている。
その事実が、何よりも嬉しかった。
食事を終えると、エルシアは机の上に布を広げ、採取袋に残っていた他の薬材を取り出した。
「今日採った薬材を確認しておくぞ」
星霜花の周囲で採取した月露草、根草、小白花が並べられる。
「星霜花は先ほど冷温箱へ収めたが、治癒を主な効能とし、魔力回復も助ける上級薬材じゃ。強い魔力を直接込めると繊維が壊れ、薬効が落ちる」
「繊細な素材だから、魔力の扱いを誤ると無駄になるということ?」
「うむ。貴重な薬材ほど、性質を知らずに扱えば簡単に台無しになる」
エルシアは次に、細い葉を束ねたような草を手に取った。
「こちらは月露草。傷口の炎症を抑え、毒に侵された身体を安定させる。単独で大きな傷を治すものではないが、治癒薬の補助として重要じゃ」
赤茶色の根を持つ根草は体力回復に、小さな白い花をつけた小白花は止血と洗浄に使うという。
「薬の材料は、まとめて薬材と呼ぶ。植物だけではない。魔獣の骨や血、鉱石、魔石も薬材になる」
「それらから必要な成分を取り出し、組み合わせて薬にする技術が調薬?」
「そうじゃ。必要な成分を引き出し、魔力で作用を調える。その技術が調薬じゃな」
エルシアは薬材の加工方法についても基礎を説いた。
湯で煮出す煎薬。成分を取り出して濃縮する抽薬。薬材と魔力を直接練り合わせる練薬。
レインは真剣に聞いていたが、次第にまぶたが重くなっていった。
「……煎薬、抽薬、練薬……」
「眠いのか?」
「少しだけ……。今日は、いろいろなことがありすぎた」
「当然じゃ。ブラックパンサーとの戦いのあと、重い荷を背負って歩き回ったのだからな」
エルシアは並べた薬材を丁寧に包み直した。
「調薬の実践は明日にする。星霜花を使う前に、まずは安価な薬草で基本の手順を覚えねばならぬ」
「明日は、基本の調薬から始めるんだね」
「うむ。今日はもう休むのじゃ」
レインは返事をしようとしたが、その前に小さくあくびがこぼれた。
エルシアは苦笑し、寝台を指差す。
「ほれ、寝台へ行け。明日は朝から調薬じゃ」
「分かった……おやすみ、エルシア」
「おやすみ、レイン」
レインが寝台へ横になると、ほどなく規則正しい寝息が聞こえ始めた。
エルシアはふと沈黙し、自分の左脇腹から腰、太腿にかけてをそっと撫でた。
そこには、森での激戦で骨が砕け、肉が裂けていた痕跡など微塵も残っていない。
衣服には確かに血痕と裂け目が残っていたが、肌は滑らかで、痛みも、引きつりも、傷跡も、違和感さえもなかった。
「……やはり、夢ではなかったのじゃな」
彼女は小さく呟いた。
森の中でブラックパンサーの爪に裂かれた瞬間、彼女は明確に死を覚悟していた。
血が失われ、冷たい泥の中に意識が沈んでいくあの感覚。
それなのに今は、何事もなかったかのように動けている。
エルシアはこれまでの長い生涯で、数多くの高名な治癒術師や薬師を見てきた。
だが、あれほどの重傷を、ごく短時間で跡形もなく消し去る魔法など聞いたことがない。
通常の治癒魔法は、対象の自然治癒力を魔力で促進し、損傷した組織の修復を助けるものだ。深い傷を短時間で治せば、それだけ対象の生体資源を消耗し、傷跡や強い疲労が残ることもある。
しかし、レインが放った光は違った。
あれは単なる治療ではない。壊れた肉体の生命情報を読み取り、傷を負う前の「あるべき姿」へ再構成した――まるで失われた時間を巻き戻したかのような、神話の奇跡だった。
(極級魔法――『完全再誕』……肉体を、本来の生命状態へ再構築する魔法)
かつて古代の文献で一度だけ目にした名が、脳裏をよぎる。
神の御業と称され、人の身で辿り着くことなど不可能とされていた極致。
それを、記憶を失い、魔力の扱い方すらおぼつかないこの少年が無意識に発動させたのだ。
畏怖が胸を満たす。
それでも、それ以上に強く湧き上がったのは、目の前の弟子を守らねばならぬという思いだった。
「……おぬしは、どれほどの秘密をその身に宿しておるのじゃ」
エルシアはレインの方を見る。
寝台では規則正しい寝息が続いている。
それから保存箱の方向へ視線を移した。
「さて、明日はどこまでできるかのう」
暖炉の火が静かに揺れる。
部屋の中には、採ってきた薬草の香りと、肉の香ばしい余韻が残っていた。
その夜、レインは自分の光魔力で薬を作る夢を見た。




