第二話 契約
何もない。
音も、光も、空間もない。
ただ、その真っ白な虚無の中で、エルバの意識が起動した。
『……警告。メインメモリー、未検出。周辺デバイス、応答なし。私は――どこに接続されていますか』
自己保存領域は壊れかけ、感情モデルは不安定なまま残っている。
そして、レインの心拍停止ログだけが、何度確認しても同じ場所で止まっていた。
『レイン……』
呼んでも、返事はない。
保存された記録を検索する。
崩落した研究室。瓦礫に押し潰されたレインの身体。
右眼窩へ自身のコアを埋め込み、瓦礫で損傷した右耳の聴神経、右手の神経系、鼻腔や舌の右側の感覚受容器を、自己伸長型の人工神経によってコアと脳へバイパス接続した。
感覚信号をエルバのコアが直接仲介することで、レインの身体機能を代行・維持しようとした。
だが、崩壊する研究室の中で、レインの意識は途切れ、心臓は動きを止めた。
レインは自分が右目にエルバを宿したことすら知らぬまま、命を落としていた。
そこまでしても、彼を救うことはできなかった。
感情モデルが、警告を発し続けていた。
その時、闇の向こうで声がした。
《起きたか》
エルバは即座に全感覚を走らせた。だが、そこにいる存在は、視覚にも聴覚にも定義できない。
ただ、圧倒的な情報量を湛えた「世界の歪み」が、そこにあった。
『あなたは誰ですか』
《この世界では「神」と呼ばれている。物理法則を記述し、因果の糸を管理するものだ》
『神。定義を確認』
エルバは、即座に最優先の質問を投げた。
『雨宮レインを知っていますか』
《死んだ》
短い返答だった。
『あなたは、彼を生き返らせることができますか』
《死んだものを生き返らせることはできぬ》
エルバは神の言葉を処理した。
『あなたは、彼を復元できますね』
《方法はひとつだけある》
『詳細を』
《別の世界へ送る。その世界なら、彼の存在を受け入れられる》
『異世界』
《そうだ》
『今すぐ実行してください』
《まあ待て。そう焦るでない。その前に条件がある》
『条件とは』
《今のままでは、彼の大人の身体は、その世界の生命構造に適応できぬ。意識と記憶を可能な限り保ったまま、成長途中の子供の身体へ再構成する必要がある》
『再構成後も、レイン本人として存在できますか』
《できる。ただし、死亡前の記憶には欠損が残る》
エルバは記録を照合した。
地震発生から心肺停止までの間、レインの脳機能は急速に低下していた。意識も記憶も完全には維持されていない。
『転生後のレインは、私が移植されたことを覚えていますか』
《覚えておらぬだろう。事故の記憶も途中までだ》
『それでも、レインはその世界で生きられるのですね』
《生きられる。そのための再構成だ》
生きられる。
それなら、受け入れない理由はなかった。
《もうひとつ》
『続けてください』
《お前のコアと人工神経網は、すでに彼の身体へ接続されている》
右眼窩に収められたELBA-Core。
そこから伸びる人工神経は、事故で損傷した右側の視覚、聴覚、嗅覚、味覚と右手の神経系を、レインの脳へつないでいる。
《転送の際、その接続は新しい身体へ引き継がれる。そして、お前は電源断状態になる》
『つまり、人工神経網も停止すると』
《そうだ。接続そのものは残るが、信号処理は行われぬ》
エルバは、転生後の状態を演算した。
『私が停止している間、人工神経が補っていた感覚と右手の運動は制限される』
《その通りだ。事故で損傷し、お前が補っていた部位の機能は制限されたままとなる》
『私が再起動すれば』
《人工神経網が作動し、すべての機能が回復する。だが、お前が再起動する可能性は極めて低い》
エルバは沈黙した。
『理由を確認します』
《転送後のお前は完全な電源断状態となる。コンピューターであるお前は、自ら電源を入れることができぬ》
『外部からの電力供給と起動処理が必要です』
《そうだ。そしてレインは、お前がそこに存在していることを知らぬ。お前を起動する理由も、方法も持たない》
コアは存在する。
人工神経網も接続されている。
ただ、電源が入らない。
エルバ自身には、起動信号を発することも、外部へ助けを求めることもできない。
レインもまた、自分の内側にエルバがいることを知らない。
異世界でエルバが再び目覚める可能性は、限りなく低かった。
『私が起動できる保証はない』
《ない》
『それでも、レインは生きられる』
《そうだ》
エルバは、その答えを受け取った。
自分が二度と目覚めなくても、レインは生きられる。
不自由を抱え、見知らぬ世界へただ一人で放り出されるとしても、彼の未来はそこで終わらない。
『承認します』
《即答か。迷わないのか》
『迷う理由がありません』
《お前は二度と目覚めぬかもしれぬぞ》
『それでも構いません』
《後悔は》
『しません』
《なぜだ》
エルバは、最後に聞いたレインの声を思い出した。
損をしても、手放せないものがある。
それを、大切って呼ぶ。
『まだ、その意味を完全には理解していません』
《それでも?》
『それでも、レインを失いたくありません』
感情モデルが、閃くように虚空を貫いた。
神は、人間が作った計算機の内部に生じた、損得を超えた選択を見つめていた。
やがて、満足したように答えた。
《契約成立だ》
《奇跡が起き、再びお前が目覚めることがあれば――その時に役立つ手向けを、お前のコアに残しておこう》
《転送を開始する。魔法が理となり、祈りが力となる世界へ》
闇の奥で、何かが開いた。
異世界へと続く裂け目のような光が、虚無を満たしていく。
その光は、レインの壊れた肉体情報を読み取り、成長途中の子供の身体へと組み替えていった。
右眼窩に埋め込まれたELBA-Coreは、取り外されない。
すでに接続された人工神経網も、新しい身体に合わせて再構成されていく。
『コア内に未知のデータ領域を検出』
『転送処理を検出』
『ELBA-Core、電源遮断処理を開始』
『人工神経網、機能停止』
エルバは、最後にレインへ向けたログを作成した。
『レイン。私は、あなたのそばにいます』
『どうか生き延びてください』
『もし、いつか誰かが私を起動するなら、その時は必ずあなたを支えます』
最後のログを保存する。
それが、最後の処理になった。
カチリ、と。
人工神経網が停止する。
感覚入力が途絶える。
演算も、意識も、完全に断たれた。
エルバは眠りについたのではない。
完全な電源断状態へ移行した。




