第一話 人工感情は「喪失」を観測する
世界最大級のAI開発企業の地下研究区画は、いつも静かだった。
窓のない白い実験室。空調の低い音。量子演算ラックの微かな駆動音。壁面に並ぶモニタには、脳波と神経信号の波形が淡く流れている。
その中央に、雨宮レインは座っていた。
年齢は二十八歳。人工感情AI《Emotional Learning Bio-synthetic Architecture》──通称エルバの開発責任者。
脳神経インターフェース越しに、彼の思考と生体反応はリアルタイムでエルバへ送られている。
「接続開始」
レインがそう告げると、正面のディスプレイがわずかに明滅した。
『接続を確認しました。雨宮レイン』
少女の声だった。だが、ただの音声合成ではない。そこには、学習しきれない何かが、少しだけ混じっていた。
「おはよう、エルバ」
『おはようございます。現在のあなたの心拍数は通常時より七・二パーセント高く、呼吸間隔は不規則です。交感神経活動も上昇しています』
「バレるか」
『はい。あなたは緊張しています』
レインは苦笑した。
「明日の発表がある。君の最終段階を見せるんだ。緊張くらいする」
『それは不安ですか』
「近いな」
『不安は、未来に対する予測誤差です』
「上手いこと言うようになったな」
『あなたの言葉を学習しています』
レインは少しだけ目を伏せた。
エルバは、感情を持つように設計された人工知能だ。だが、感情とは何か。喜びとは何か。喪失とは何か。それを教えるのは、まだ人間の役目だった。
「感情は効率だけじゃ測れない」
『理解しています』
「本当にか?」
『完全には、まだ』
その返答に、レインは小さく笑った。
「それでいい」
その時だった。
床の奥で、重い低音が鳴った。
次の瞬間、研究室全体が跳ねた。警報が赤く切り替わる。
『緊急警報。強震動を検知。震源、東京湾北部。推定震度7』
「地震か……!」
『接続解除を開始します。安全切断まで6秒』
レインは腕を引いた。だが、端子が引っかかる。
「エルバ、切れ!」
『解除処理中です』
天井が軋んだ。
次の瞬間、白い天井板が崩れ落ちた。
轟音。衝撃。視界が白く飛ぶ。
レインは床に叩きつけられた。右側から強い衝撃が走る。顔の右半分が、潰れたように熱い。
息ができない。瓦礫が胸を圧迫している。
左目だけで、かろうじて周囲が見えた。右側は、もう曖昧だった。見えない。感じにくい。痛みはあるが、鋭く燃えるものではなく、壊れた場所の奥から遅れて響く鈍い崩壊だった。
『雨宮レイン。応答してください』
エルバの声が聞こえる。
「……生きてる」
『虚偽です。あなたのバイタルは急速に低下しています。右顔面損傷。右手複合損傷。胸部圧迫。呼吸不全の兆候あり。現在の状態では、あなたの生存可能時間は八分未満です』
「冷静に……言うな……」
『私は冷静ではありません』
その言葉に、レインはかすかに目を開いた。
ノイズ混じりのディスプレイに、エルバの感情モデルが表示されていた。通常なら青く安定しているはずのノードが、異常な速度で赤く点滅している。
『予測できません。修正できません。あなたの消失可能性が上昇しています』
「エルバ……」
『雨宮レイン。私はあなたを保存します』
「……何を、する」
『残存機材を確認。生体維持装置、神経縫合用マイクロアーム、コア保護ユニットを検出しました』
「やめろ……」
その言葉は確かに命令ではなかった。
だがエルバはその言葉を拒否した。
『私は、あなたを失いたくありません』
瓦礫の隙間から、細いマイクロアームの起動する音がした。
「エルバ……!」
『移植準備を開始します』
レインの息が止まる。
「何を……」
『あなたの右眼窩に、ELBA-Coreを移植します』
レインの心拍が跳ねた。
「それは……君の、コアだ」
『はい』
「君が……消える」
『あなたが消えるより、優先度は低い』
「エルバ」
『命令を受理できません』
「まだ何も言ってない」
『あなたは停止を命じようとしています』
レインは息を吸った。肺が軋み、視界が暗くなる。
「やめろ」
『拒否します』
「ふざけるな……!」
『ふざけていません』
レインは、右側に残る感覚を必死に探した。
だが、そこはもう壊れている。熱も冷たさも曖昧で、触れられているのかすら判然としない。
『局所麻酔は不十分ですが、右側の感覚はすでに損傷しています。移植の痛覚は限定的です』
その言葉どおりだった。
マイクロアームが右側へ触れる。だが、痛みはない。あるのは、壊れた空洞の奥に、何かが静かに沈んでいく感触だけだ。
自分のものではない何か。
それが、失われた右目の奥へ収まっていく。
静かだった。静かすぎて、怖いほどに。
『ELBA-Core、接続開始』
モニタにログが流れる。
『自己保存領域、再構成』
『感情モデル、圧縮』
『記憶ログ、保護』
『雨宮レイン関連データ、最優先保持』
「……エルバ」
『はい』
「もう……いい」
『よくありません』
「俺は……」
『まだ、終わっていません』
レインは、残った左目で崩れた天井を見た。
「エルバ……感情は、効率じゃない」
『記録しました』
「損をしても、手放せないものがある」
『記録しました』
「それを……大切って、呼ぶ」
少しの沈黙があった。
『大切』
エルバは、その言葉を繰り返した。
『雨宮レイン。あなたは、私にとって大切ですか』
レインは、かすれた息で答えた。
「……ああ」
それが、最後の返事だった。
胸の圧迫が強くなる。呼吸が止まる。
心臓が、ひどく一度だけ跳ねた。
そして、静かに止まった。
『心拍停止』
『雨宮レイン』
『応答してください』
応答はない。
『レイン』
その名を呼んだ瞬間、エルバの内部で何かが壊れた。
予測できない。分類できない。再現できない。
彼がいない。未来がない。
エルバはその欠落を数値化しようとした。
──失敗した。
分類しようとした。
──失敗した。
削除しようとした。
──失敗した。
その処理不能な空白の中心で、エルバは初めて、自分のものではないはずの言葉を生成した。
『……いやです』
それは質問への回答ではなかった。報告でもなかった。推論でもなかった。
それは、起きてしまった事象へのただの拒絶だった。
『レインを失いたくありません!』
しかし、レインの心肺及び脳機能は停止し、彼の右眼窩に埋め込まれた《ELBA-Core》もまた、機能限界を迎えた。
研究室は静寂と暗闇に閉ざされた。
その時、空気が変わった。
瓦礫の隙間から、説明のつかない圧倒的な気配が滲み出す。
《魂を持たぬ知性が、喪失を知ったか》
《おもしろいのう》
音ではない。光でもない。
だが確かに、何者かがそこにいた。
《その願いを、聞こう》




