第十八話 白金の光
「エルシア……出血が多い。これは危険だ」
レインは震える手で傷口を押さえた。
しかし、どこを塞げばよいのか分からない。ブラックパンサーの爪で裂かれた左脇腹から腰、太腿にかけて、凄まじい深さの傷が走っている。赤い血は指の隙間からあふれ、湿った苔の上へとこぼれ落ちていた。
エルシアの顔色は、見る間に白くなっていく。
「大袈裟じゃ……まだ、話くらいは……できる……」
そう言った声もひどく弱々しい。
彼女はいつも、どれほど危険な魔獣を前にしても動じなかった。グレイファングも、牙猪も、ポイズンリザードも、敵の特徴を見抜き、最小限の魔法で倒してみせた。
そのエルシアが、今は立ち上がることもできずに倒れている。
レインは現実を理解した。
このままでは助からない。
「エルシア、止血が必要だ。方法を指示してほしい」
返事はなかった。
エルシアの呼吸が浅くなる。目の焦点も外れ、首ががくりと傾いた。
レインの胸に、激しい恐怖が込み上げる。
嫌だ。
このまま失いたくない。
もっと魔法を教えてほしい。いつものように小言を言ってほしい。帰ったら、また一緒に食事をしたい。
そんな当たり前の時間が、すべて消えてしまう気がした。
「だめだ……このままでは、だめだ!」
レインは叫んだ。
「エルシアが傷つくのは……もう、嫌だ!」
涙があふれ、視界がにじむ。
それでも、傷口から目を逸らさなかった。
「助けたい……この傷を、直したい!」
レインの強い思いが臨界を越えたその瞬間、脳の奥深くで何かが激しく震えた。
脳の奥にある稀有な魔器が、熱を帯びて激しく拍動を始めた。
意識して術式を組み立てたわけではない。エルシアを失いたくないという激しい思いを受け取った光の魔器が、その切実な願いをそのまま魔法の形へと昇華させ、独自に力を解き放ち始めたのだ。
手のひらが熱くなる。
頭蓋の魔器から首筋、腕、そして両手へ。
奔流のような魔力が脈打つように流れ込んでくる。
レインの両手から、白く澄んだ光が溢れ出した。
それは朝の光のように明るく、炎のように激しくはない。あたたかく、柔らかい。それなのに、周囲の木々の影を押し返すほど強い輝きを放っていた。
レインには、光の強さを気にする余裕などなかった。
ただ両手を傷口へ当て、必死に願う。
治ってほしい。
もう痛くないように。
絶対に、死なないように。
白金色の光が、エルシアの身体へ吸い込まれるように流れ込んだ。
奇跡のような再構成は、傷の最も深い内側から始まった。
まず、爪の衝撃で砕け、ひび割れていた骨が細かな光の粒子に包まれ、継ぎ目なく完璧に再生していく。
続いて、千切れていた筋肉の繊維、網の目のように引き裂かれた神経が正しい位置へと引き戻され、急速に織り直されていく。
断裂していた血管が次々と繋がり、傷口から流れ出ていた血がぴたりと止まった。
血流が本来の循環路へと戻り、エルシアの身体に残っていた生命反応が急速に安定していく。
その変化に反応するように、エルシアの瞼がかすかに震えた。
「……レイン……? それは……光魔法、か……?」
意識を取り戻したエルシアが、掠れた声で呟く。
だが、現象は止まらない。
内側の組織がすべて元通りに整うと、最後に、パックリと裂けていた皮膚の縁が引き合い、光に溶けるように滑らかに閉じていった。
通常の治癒魔法では説明できない、異常な物質復元現象だった。
「治れ……エルシアを、助けろ……!」
レインの絞り出すような叫びに応えるように、光が最大まで膨れ上がり――そして、静かに収束した。
エルシアの傷は完全に消えていた。
血に染まった衣服の裂け目だけが激戦の痕跡を残し、露わになった肌には傷痕ひとつなく、浅かった呼吸も力強く戻っている。
レインの手足は小さく震えていた。
魔力が尽きたからではない。エルシアを失いかけた恐怖と、無事に助けられた安堵が、一度に押し寄せていたためだった。
エルシアは呆然と自分の身体を見下ろし、次いでレインを見つめた。
エルシアには、レインの体を巡る魔力の奔流がありありと見えていた。
常識外れの物質復元を引き起こしたというのに、レインの体内を循環する魔力は少しも涸れていない。魔力を使い果たした形跡など微塵もなく、脳内の魔器からは今もなお、底知れない力が静かに湧き続けている。
「……おぬし、今、何をした?」
「分からない……何も、分からない」
レインは息を切らしながら答えた。
「でも、直したかった。エルシアを助けたかった」
「治した、ではないな……肉体そのものを、傷を負う前の状態へ完全に『元に戻した』のじゃ……」
エルシアは傷のあった滑らかな肌にそっと触れた。骨も、筋肉も、皮膚も、何一つ違和感がない。
だが、その表情には微かな疲労が滲んでいる。
肉体そのものが完璧に復元されても、急激なショックや極限の集中による精神的な疲弊、重い倦怠感までは完全には消え去っていなかった。
「傷は塞がったけれど……まだ体が重い?」
「……まあな。これだけの傷を負ったのじゃ。少し休めば動けるだけでも上出来じゃ」
レインは胸元を押さえ、手持ちの知識を思い返した。
今の自分にできる、もうひとつの補助。
「『活力光』」
レインが小さく唱えると、両手から淡く温かな光が放たれ、エルシアの肩を包み込んだ。
初級の光魔法。疲労感を一時的に和らげ、身体の活力を底上げする術だ。
「……っ」
エルシアは息を吐き、驚いたように自分の手を開閉させた。
鉛のように重かった四肢から倦怠感が急速に引き、力が戻っていく。
「初級の活力光か……。やれやれ、手際が良いことじゃ」
エルシアは小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「まったく。おぬしは、本当にとんでもないやつじゃのう」
呆れたような言葉だったが、その声には偽りのない深い安堵があった。
「だが、助けられた。礼を言うぞ、レイン」
その言葉を聞いた瞬間、レインの目から再び涙がこぼれた。
今度は恐怖ではない。
エルシアが生きている。自分に声をかけ、いつものように話してくれている。
それが、たまらなく嬉しかった。
「ああ……本当によかった……」
「泣くでない」
エルシアは困ったように、けれどひどく柔らかな笑みを浮かべ、レインの頭へそっと手を置いた。
「もう大丈夫じゃ。おぬしが救ってくれたのじゃからな」
しばらく呼吸を整えた後、エルシアはすっと立ち上がった。
太腿の筋組織まで完全に再生したため、立ち上がりや足取りにも違和感は微塵もない。
「さて、採取を続けるぞ」
「えっ?」
「傷も塞がり、おぬしの活力光で動けるようになったのじゃ。ここまで来て、手ぶらで帰るわけにはいかぬ」
レインは思わず目を丸くした。
「傷は完全に塞がったけれど、無理は禁物じゃないのか?」
「星霜花は夜明け前の露を含んだ今の状態が最良じゃ。ここで諦めれば、また危険を冒してここまで来ねばならん。急ぐぞ」
エルシアはそう言って歩き出し、泉のほとりへと向かった。
いつもの毅然とした師匠の姿だ。弟子に余計な不安を背負わせまいとする強がりでもあるのだろう。だが、レインは心の中で、二度と彼女をこんな危険な目に遭わせたくない、と強く刻み込んだ。
二人はまず、泉のそばに咲いていた星霜花を採取した。
根を傷つけないよう周囲の土を慎重に避け、薄銀の細葉と花を茎の根元から丁寧に摘み取る。花は淡い光を放ち、濡れた茎から小さな雫が落ちた。
湿地の奥には群生が見られ、昨日採取できなかった分を補って余りある株を確保できた。これで、上級治癒薬に必要な量は十分に揃った。
「森の薬草は、採り尽くしてはならぬ。来年も芽吹くよう、必ず根を残すのじゃ」
「分かった」
採取を終えると、エルシアは先ほど倒したブラックパンサーの解体を始めた。
胸部を手際よく開き、心臓の奥から黒紫色の魔石を取り出す。リーダー個体の魔石は通常より大きく、内部に濃い闇属性の魔力が渦巻いていた。
「魔石の位置は、どうやって特定している?」
レインが尋ねると、エルシアは刃先を拭いながら答えた。
「わらわには、魔力の流れが見える。魔石は魔器からあふれた力を蓄える器官じゃ。おぬしの魔器を見つけたのと同じように、魔獣の魔石も見つけられるのじゃよ」
エルシアは毛皮、爪、牙を順番に手際よく分けていく。
「毛皮は隠密用の外套に使える。爪と牙は武器や魔道具の媒体じゃ。肉も、魔素の少ない部位なら十分に加熱すれば食べられる」
「ほとんどすべて利用できるということ?」
「命を奪った以上、無駄にはせぬ。それが森で生きる者の作法じゃ」
素材を採取袋へ収め、薬草を厳重に布で包み終える頃には、木々の隙間から夕暮れの赤い光が差し込んでいた。
レインは歩きながら、隣を行くエルシアをそっと見上げる。
傷は跡形もなく消えている。
それでも、あのとき見た夥しい血の赤と、自分の手から溢れ出た白金の光の感触は、胸の奥に強く焼き付いていた。
「エルシア」
「なんじゃ」
「……帰ろう」
エルシアは少しだけ目を細め、静かに頷いた。
「そうじゃな。帰るとしよう」
二人は、手に入れた貴重な薬草と素材、そして少年の内に目覚めた未知の力への深い疑問を抱えたまま、黄昏の森を後にした。




