銀紙の網
## 第一章 松田
僕の冷蔵庫には甘いものなんてない。砂糖も蜂蜜もチョコもゼロ。唯一“甘味”と呼べるのは、味噌のわずかな甘さくらいだ。だからガムなんて論外だし、虫歯持ちの僕には拷問に等しい。キシリトールのCMを見るだけで奥歯が疼く。テレビに映る芸能人の白い歯が笑うたび、こっちは奥歯が悲鳴を上げる。笑顔で「健康!」なんて叫ばれても、僕にとっては地獄の宣伝だ。
コンビニに寄ったのは、牛乳を切らしていたからだ。深夜の店内は冷房が効きすぎていて、入った瞬間に鼻の奥がつんと冷えた。レジ横には例によって「新発売!」と派手なポップが躍る。フライドチキンやスイーツや、僕には縁のないものばかり。レジ前のガムの棚も、視線を逸らすように素通りした。虫歯持ちが一番見たくない棚だ。
会計を済ませて店を出ると、アスファルトにひときわ目立つ銀紙が落ちていた。月明かりを反射して、不自然に清潔に見えた。
なんでこんな夜中に、こんなに新品めいた包み紙が落ちているのか。誰かがポケットから落とした? それとも、意図的に置いた?
拾わなければよかった。けれど、人間の性だろうか。気付けば指が勝手に動いていた。何かの実験器具のように冷たく硬い銀紙を、つまみ上げてしまったのだ。
ポケットに入れた瞬間、背中に突き刺さるような視線を感じた。熱とも寒気ともつかない、じりじりと焼け付く感覚。思わず周囲を見回したが、夜道には誰もいない。街灯の下には僕の影だけが伸びている。
いや、誰かがいる。気配だけは確かにある。
振り返ると、細身のスーツ姿の男が立っていた。靴下の色が左右で違うのが一目で分かる。白と紺。わざとなのか、慌てて履いたのか。
そして、咳払い。わざとらしいのか癖なのか判別できない、濁った音がやけに響いた。
「それを持ってると、面倒なことになるね」
開口一番、それだ。男は淡々と言い放ち、僕を見た。顔色は悪い。路地裏で照明に照らされたカカシのように立っている。
「……何の話ですか?」
「監視だね」
乾いた声が返ってきた。
「持った瞬間から、君はもう誰かに見られてるね」
ふざけているのかと思った。けれど、その目は笑っていない。
僕は笑い飛ばす代わりに皮肉を飲み込んだ。
本当は「監視されるほどの値打ちが、虫歯持ちの僕にあるのか?」と吐き捨てたかった。でも声は喉で止まり、代わりに心臓が早鐘を打った。
「冗談ですよね」
そう言うのが精一杯だった。
男は咳払いをひとつ。喉を守るように、あるいは黙り込む勇気の代わりに。
「冗談ならよかったんだけどね」
夜の静けさにその言葉が落ちた。僕はその場から逃げ出したかった。だけど足はアスファルトに貼り付いたように動かない。
銀紙はポケットの中でやけに重く感じられた。新品のガム一つで、こんな重さがあるはずがない。
――虫歯持ちの僕なんかを見張るなんて、世の中も暇らしい。
## 第二章 学生A・B
夕方のファストフード店は、部活帰りの制服姿で埋め尽くされていた。油で湿った空気にポテトの匂いが充満し、ざわめきと笑い声が混じっている。氷を噛む音、ストローでジュースを啜る音、椅子の足が床と擦れた際の金属音。日常の雑音に包まれているはずなのに、隅の席に座る二人の会話だけは、妙に浮き上がって聞こえていた。
テーブルにはポテトの紙袋と、汗をかいたコーラのカップ。Aはポテトを一本つまんでは塩を指で弾き、わざと床に飛ばして笑った。
「なあ聞いた? GPS付きのガム仕込むバイト」
対面のBはストローをくわえたまま、白けた顔をする。
「犬用とかだろ、それ」
「いやいや、人間用もあるんだって。顎の動きで個人識別できるんだと。笑えるだろ?」
Aはスマホを取り出し、画面をBに突きつける。ネットで拾った胡散臭いまとめサイト。けれど声は本気で楽しそうだった。
「俺さ、この前ちょっとだけ配布の手伝いしたんだ。バイト代出るって聞いて」
「……お前、それ本当に大丈夫か?」
「余裕余裕。だって誰も気付かねえんだよ? 銀紙ごとポケットに入れておくだけで、知らない奴が勝手に噛む。こっちは金だけ貰える。最高じゃん」
Aはポテトをまた一本口に放り込み、しょっぱい指を紙ナプキンでぞんざいに拭った。
Bは笑えなかった。ストローで吸ったコーラの氷がカランと鳴る。炭酸が喉を通るのに、渇きはひとつも潤わない。背中にじっとりと汗がにじんでくる。
「……でもさ」Bは声を潜めた。
「本当だったら拾ったやつ、今どこで噛んでんだろな」
その一言に、Aの笑いが一瞬止まる。けれどすぐにまた甲高い笑いが店内に響いた。
「ははっ、いいじゃんいいじゃん! 知らねえ奴の顎がカクカク動いてるって思うとウケる」
Bは視線を落とし、テーブルに散った塩を指でなぞった。白い結晶が指先にざらりと貼りつく。背筋に冷たい汗がすっと流れた。笑い声が遠ざかり、喉はますます乾いていく。
ざわめく店内で、Aの声だけがやけに浮いて響いていた。
## 第三章 佐々木
佐々木は六畳一間のアパートに暮らしていた。会社から徒歩二十分、家賃は安いが壁が薄く、隣の咳払いまで筒抜けだ。冷蔵庫は単身者用の小型で、扉の表面には小さな傷と、前の住人が残したらしいシールの跡がこびりついている。
中身はいつも同じ。スーパーの惣菜に「半額」と赤いシールが貼られたものを詰め込み、ビールを数本、あとは氷の詰まった製氷皿くらい。仕事帰りの彼には、それ以上を望む気力も余裕もなかった。
異変が始まったのは、ある夜のことだった。
惣菜を放り込み、缶ビールを取り出す。そのとき、見慣れない銀色の列が目に入った。ドアポケットに、ミントガムの小箱がきっちり並んでいる。新品同様、まるでコンビニの棚からそのまま移したように整然と。
「……?」
一瞬、買った記憶が飛んだのかと思った。だが財布を確認しても、レシートにそんな品目はない。そもそも佐々木はガムを買ったことがなかった。虫歯が怖いのもあるし、何より口に残る人工的な甘さが苦手だった。
翌日も、翌々日も、同じだった。仕事から帰って冷蔵庫を開けると、決まってそこに新品のガムが補充されている。惣菜やビールは減ったままなのに、ガムだけが規則正しく揃っている。
不気味さは日ごとに増していった。
夜中、寝返りを打つたびに耳が冴える。誰かが合鍵で入り込んでいるのか? いや、そんな馬鹿な。だが冷蔵庫の扉に手をかけると、前より軽く開く気がした。指先が冷え、呼吸が妙に浅くなる。
ある夜、彼は冷蔵庫の前で立ち尽くした。ガムの銀紙に蛍光灯が反射し、冷たい光が顔に跳ね返る。惣菜の揚げ物からは脂が染み出しているのに、ガムの小箱はひとつとして乱れていない。誰かがわざわざ並べているのだ。
翌日、いつもの喫茶店で佐々木はつい打ち明けてしまった。
「うちの冷蔵庫、最近毎朝ガムが補充されてんだよ」
向かいのテーブルに座る常連仲間がコーヒーをかき混ぜながら、苦笑いを浮かべる。
「それ、誰かの親切なんじゃないですか。体調管理とか」
「親切ってレベルか? 半額惣菜はそのままに、ガムだけ新品だぞ」
会話を聞いていたウェイトレスが、トレーを抱えながら近づいてきた。いつも朗らかな笑顔で接客する彼女は、少し首をかしげながら言った。
「羨ましいです。うちの冷蔵庫なんて、氷と賞味期限切れしか入ってませんよ。次は歯ブラシでも入ってたりして」
冗談めかした言葉に、思わず苦笑がこぼれる。けれど胸の奥の不安は消えなかった。
彼女はさらに言葉を継いだ。
「でも、買った覚えないのにあるのって……やっぱりちょっと怖いですよね」
笑顔はそのままだったが、声の端にかすかな迷いがあった。
彼女が去ったあと、佐々木は向かいの常連に顔を寄せられた。
「……本当に誰かが入ってるんじゃないですか」
そんな馬鹿な、と即座に否定した。だが否定する声がわずかに掠れていたことを、自分でも感じていた。指先はまだ冷たいままで、掌にはじんわり汗がにじんでいる。
その夜、また冷蔵庫を開けた。
扉は前より軽く、ほとんど抵抗なく開いた。中にはやはりきっちり並んだガムの列。銀紙が冷気をはじき返し、不自然な清潔さを放っていた。
佐々木はしばらく立ち尽くした。惣菜の袋の油染み、ビール缶の水滴、そして整然と並ぶガム。現実の生活感と、不気味な規則性の対比に、頭がくらくらした。
――真夜中に誰かが入って、銀紙を詰めている。
そう想像した瞬間、喉がきゅっと縮まった。コーヒーで潤したはずの舌の奥が、砂をかむようにざらついた。
## 第四章 男
男は歩くたびに咳払いをした。わざとらしくもあり、癖のようでもあった。喉に異物があるわけではない。ただ、音を立てていなければ自分が消えてしまいそうで、それが怖かった。
彼はかつて「配れ」と命じられた。上司の声は冷たく、説明もなかった。机の上に並べられた銀紙の包みを前に、ただ一言。
「お前はこれを渡せ」
拒否の余地などなかった。背広の胸ポケットに押し込まれた包みは妙に冷たく、彼の体温を拒絶するようだった。その日から、彼は駅前やオフィス街の片隅で、知人に、同僚に、見知らぬ誰かに――ガムを差し出し続けた。
初めて配った日のことを、いまでも忘れられない。
相手に手渡した直後、上司の手が伸びてきた。銀紙が彼自身の唇に押し当てられる。「お前も噛め」――命令はそれだけだった。
噛んだ瞬間、爽快さではなく、ミントの苦さだけが舌に残った。
顎の動きに合わせて世界が静まり返る。音が消えるのではなく、自分が透明になったような錯覚。足元のアスファルトから温度が失われ、呼吸の音すら奪われる。その静けさに、彼は逆らえなかった。
以来、咳払いが癖になった。沈黙に呑まれそうになると、喉を鳴らして存在を確かめる。誰かに笑われてもいい。そうでもしなければ、音のない闇に落ちていく気がした。
――今日もまた、銀紙を持って歩いている。
コンビニの前で立ち止まると、視線の端に若い男の姿が映った。疲れた顔、どこか偏屈そうな雰囲気。彼のポケットにも、すでに銀紙の気配がある。
男は咳払いをひとつし、近づいた。
「それを持ってると、面倒なことになるね」
声は脅しのように聞こえただろう。だが実際には、自分の後悔を押しつけただけだった。噛まなければ、視線が突き刺さる。噛めば、静寂に沈む。どちらにしても逃げ場はない――それを伝えたかった。
若い男の目に怯えが走る。やはり伝わらないか、と咳払いをもう一度。喉が掠れる。
銀紙の冷たさがポケット越しに伝わってくる。指先が汗ばみ、取り出したくなくても取り出してしまう。配ることも、噛むことも、もう彼の役目になっていた。
咳払いの音と、奥歯でガムを噛む音が重なる。どちらがどちらか、もう彼自身にも区別がつかない。
## 第五章 松田 再び
歯医者に行くたびに「甘いものは控えましょう」と言われる。そのたび僕は心の中で「控えてるつもりだ」と反論してきた。冷蔵庫には甘いものなんて入っていない。あるのは味噌とビールだけだ。ビールは甘味料じゃないだろ、と言い返したかったが、虫歯の痛みには勝てなかった。
そんな僕が、いま机の下で銀紙を剥がしている。カサリと小さな音がして、鼻歌がうるさい隣の山本がちらりとこちらを見た。慌てて机に肘をつき、何事もなかったふりをする。
銀紙を剥がす指が震えていた。何をしているんだ、と自分に問いかける。答えは単純だ。噛まなければならないから。
――背中に視線を感じるたびに、噛まずにはいられなくなった。
口に放り込む。歯に触れた瞬間、冷気のような清涼感が広がった。普通なら爽快さを味わうのだろう。だが僕にとっては、虫歯の奥を針で突かれたような痛みの方が先に来る。それでも顎を動かす。
噛みしめるごとに、周囲のざわめきが遠ざかっていった。
オフィスのキーボード音も、コピー機の低い唸りも、山本の鼻歌も。すべてが水の底に沈むように消えていく。残るのは、自分の顎のリズムだけ。
静寂は恐怖であると同時に、安らぎだった。
「虫歯の痛みか、監視の痛みか。歯医者でも聞いてこない二択だな」
つぶやいて苦笑した。答えはどちらにしても詰んでいる。
気付くと、指先が勝手に動いていた。ポケットから銀紙を取り出し、隣に差し出していた。差し出すつもりなんてなかった。だが山本は疑いもせず、受け取った。
カサリ、と音がした。
いつもの山本なら「お、サンキュー!」と軽口を叩きながら鼻歌を続けるはずだった。だが今日は違った。笑顔の痕跡だけを顔に残したまま、表情が固まった。鼻歌が止まる。無表情でガムを噛み始めた。
その瞬間、背中に冷気が走った。網を広げる一端になった感覚。僕は加害者になった。
空調の風が強まった気がした。シャツが背中に貼り付き、冷たく感じられた。
## 第六章 噛む者たち
カサリ、と銀紙が剥がれる音がした。
Aは、笑顔のまま包みを開いた。ポテトをつまむ指で器用に銀紙を丸めると、噛み始めると同時にカバンから銀紙を取り出し、友人にも差し出していた。ミントの匂いが広がり、彼はわざとらしく咳き込む。
対面のBは、その音を聞くだけで背筋が冷えた。指先に塩がざらつく。仕方なくガムを口に入れると、静寂が襲いかかってきた。店内のざわめきが遠ざかり、喉が締め付けられる。――静けさそのものが、何よりも怖かった。
*
佐々木は、自室の冷蔵庫を開けた。整然と並ぶ銀紙の列に、ため息を吐く。半額シールの弁当やビールはそのままなのに、ガムだけは今日も新品に入れ替わっている。
「……もう好きにしろ」
そう呟いて、一本を口にした。顎が動くたび、部屋の古い時計の音すら消えていく。抵抗する気力はもう残っていなかった。
*
喫茶店では、ウェイトレスが笑顔を崩さずにガムを差し出していた。
「一本いかがですか?」
客は戸惑うことなく受け取り、カサリと包みを開ける。彼女自身もポケットから一本を取り出す。歯を立てる瞬間、頬の笑みがわずかに引きつった。それでも「サービスですから」と言い聞かせ、噛み続けた。
*
咳払いが響く。スーツ姿の男は、銀紙を掌で握り潰した。
噛め、と言われた過去が蘇る。ミントの苦さ。静寂に沈む感覚。
「……仕方ない」
呟いてガムを噛む。咳払いをしようとしたが、喉は動かず、代わりに咀嚼音だけが鳴った。咳なのか、咀嚼音なのか――もう自分でも区別がつかなかった。
*
松田は机に突っ伏しながら、銀紙を開いた。
「……結局、虫歯の痛みか監視の痛みか。その二択しか残らない」
皮肉を吐きつつ、ガムを噛む。オフィスの騒音が遠ざかり、山本の鼻歌も途絶える。静寂に守られるようで、同時に囚われる感覚。
全員の顎が、同じリズムで動いていた。カサリ、クチャリ、カサリ、クチャリ――音が重なり合い、一つの網を編んでいく。
主人公は舌打ちした。
その音だけが、甘さよりも長く残った。
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