第74話 管理される災厄
離反種の灰は、雨上がりの泥に混ざっていた。
吸血鬼だったもの。
かつては名を持ち、血筋を持ち、夜に立っていたはずのもの。
それが今は、湿った地面の上で黒く崩れ、風に散ることもできずにいる。
クラウディオ・ルジェリウスは、それを見下ろしていた。
喉には、消えない牙の痕がある。
首には雷鎖。
脇腹には灰銀印。
体内には、まだ薄く残る灰銀の血の気配。
どれもルストのものだった。
考えるだけで、血が怒りを帯びる。
だが怒りを血へ乗せれば、首元の雷鎖が鳴る。
脇腹の印が焼く。
王の身体は、王の意思より先に灰銀の制御へ反応する。
それが、何より屈辱だった。
「殺せばよかっただろう」
クラウディオは、低く言った。
ルストは少し離れた場所で、離反種が残した痕跡を見ていた。
無駄のない動き。
冷たい観察。
勝利の余韻も、獲物を仕留めた誇示もない。
それがまた腹立たしい。
「何を」
「我をだ」
ルストの動きが止まる。
クラウディオは笑った。
血の気がまだ完全には戻っていない唇で、美しく、冷たく。
「喉を噛み、印を刻み、首輪をつけ、皿で血を飲ませ、雷で心臓を止める。そこまでするなら、いっそ殺せばいい」
「殺さない」
「なぜ」
クラウディオの声が冷える。
「貴様は吸血鬼を狩る男だろう。灰銀のハンター。外縁の夜を荒らすものを殺す。崩れ種を殺す。離反種を殺す。野良を殺す」
赤い瞳がルストを射る。
「なら、我ほど殺すに値する吸血鬼はいない」
ルストは答えなかった。
沈黙が落ちる。
廃村の壊れた屋根から、雨水がぽたりと落ちた。
クラウディオは続ける。
「我は人間を餌場と呼ぶ。弱い者が喰われるのは当然だと言う。給餌係を狂わせ、血肉まで喰った。若い狩人の血を奪おうとした。王血稀血の匂いで同族すら狂わせる」
低く笑う。
「災厄だろう?」
その言葉は、自嘲ではなかった。
どこか誇らしげですらあった。
「なら、殺せばいい。貴様の理屈なら、我を生かす理由などない」
ルストは、ようやくクラウディオを見た。
「ある」
「聞こうか」
「殺せば終わるわけではない」
「終わるさ。我は死ぬ」
「お前だけはな」
クラウディオの眉が動いた。
ルストは、黒く濡れた廃村を見渡した。
壊れた家。
血の染みた土。
誰も戻らない窓。
そこにあるものを、ただの現場としてではなく、もっと古い何かと重ねているような目だった。
「昔、殺せば済むと思われていた時代があった」
静かな声。
クラウディオは目を細めた。
「狩人の昔話か」
「もっと古い」
その一言に、クラウディオの胸の奥で何かが引っかかった。
ルストの声は、ただの人間の歴史を語る声ではなかった。
狩人組合の記録。
教会の伝承。
そういう薄さではない。
血で見てきた者の声。
夜そのものを何度も越えてきた者の声。
「吸血鬼を見つければ殺す。飢えた者を殺す。血を荒らした者を殺す。人間を襲った者を殺す。そうすれば夜は静かになると信じられていた」
「当然だろう」
クラウディオは鼻で笑う。
「牙を持つ者を減らせば、喰われる者も減る。単純な話だ」
「単純なら、今頃夜は終わっている」
ルストの返答は短かった。
クラウディオは黙る。
ルストは続けた。
「殺せば、別の場所で飢えが生まれる。血族を失ったものが狂う。秩序を失った群れが野良になる。追われた者が人間の村へ逃げ込む。守るために殺したはずの刃が、次の災厄を作る」
「綺麗な後悔だな」
「後悔ではない」
「では何だ」
「覚えているだけだ」
その声は、重かった。
クラウディオは、じっとルストを見る。
「貴様、何歳だ」
ルストは答えない。
クラウディオは笑った。
「また黙るか」
「話す必要がない」
「ある」
「ない」
「貴様は、時折おかしい」
クラウディオは一歩近づいた。
雷鎖が首元で小さく鳴る。
ルストは動かない。
「狩人のくせに、吸血鬼の血脈を知りすぎている。灰銀印など、普通の狩人が扱えるものではない。雷鎖もそうだ。王血の反応を見て、量を調整し、血を混ぜ、心臓が何度止まれば戻るかまで分かっている」
赤い瞳が細くなる。
「貴様は何だ」
ルストは沈黙した。
風が、灰を少しだけ動かす。
クラウディオは低く言った。
「答えろ、灰銀」
「今は必要ない」
「我が必要だと言っている」
「お前が知れば、余計に暴れる」
「貴様の血を飲まされ、首輪までつけられている今より悪くなると?」
「なる」
即答だった。
クラウディオの顔が歪む。
「腹立たしいな」
「知っている」
「なら少しは控えろ」
「無理だな」
「貴様……」
殺意が血へ乗りかける。
雷鎖が低く鳴った。
クラウディオは息を詰め、怒りを噛み殺した。
それもまた屈辱だった。
ルストは、その反応を見て言った。
「それだ」
「何が」
「殺せばいいと、お前は言う。だが、お前を殺せば済むなら簡単だった」
「我を殺すのが簡単だと?」
「簡単ではない」
「なら言うな」
「だが、殺すだけなら方法はある」
クラウディオの瞳が一瞬止まった。
ルストは淡々としている。
嘘ではない。
この男は、クラウディオを殺す方法を知っている。
そう感じた。
それが、怒りより先に背筋を冷やす。
「だが殺せば、お前の血が散る」
ルストは続けた。
「王血稀血が外縁へ散れば、今日の離反種のようなものが集まる。野良も、崩れ種も、飢えた高位吸血鬼も。お前の死体を巡って、夜が荒れる」
クラウディオは黙って聞いている。
「お前の王権が崩れれば、王城も荒れる。お前を恐れて従っていた同族が割れる。力を持ったものが血杯を奪い合い、人間側へ流れる者も出る。教会はそれを魔女狩りの名目に使う。狩人は増え、吸血鬼はさらに隠れ、隠れた飢えがまた村を襲う」
ルストの声は、廃村の空気より冷たかった。
「お前一人を殺せば終わるほど、夜は単純じゃない」
クラウディオは、しばらく何も言わなかった。
その理屈は気に入らない。
だが、筋は通っている。
気に入らないほどに。
「つまり」
クラウディオは低く言う。
「我を殺すと面倒だから、生かしていると」
「そうだ」
「貴様は本当に、言い方に情緒がないな」
「必要ない」
「あると言っているだろうが」
「お前にはいらない」
クラウディオは笑った。
怒りと不快感と、わずかな興味を混ぜた笑み。
「なら、なぜ管理する」
彼は雷鎖へ指を近づけ、触れる寸前で止めた。
触れれば、たぶん雷が走る。
その程度には身体が覚えている。
それをルストに見られている。
最悪だった。
「殺さぬなら、放っておけばいい。王城へ返せばいい。貴様の嫌う夜の理屈へ戻せばいい」
「戻せば、また喰う」
「当然だ」
「だから戻さない」
「管理か」
「管理だ」
「その言葉を本当に好むな、灰銀」
ルストは静かに答える。
「殺すより難しい」
クラウディオの目が動く。
「何?」
「殺す方が簡単だ。線を引き、超えたものを切る。灰にする。終わらせる。だが、終わらせるほど夜が壊れるものがある」
ルストはクラウディオを見た。
「そういうものは、管理するしかない」
沈黙。
クラウディオは、その言葉を飲み込みきれなかった。
そういうもの。
災厄。
殺して終わらせられないもの。
生かしておけば人を喰う。
殺せばさらに多くを巻き込む。
なら管理する。
この男は、クラウディオをそういうものとして見ている。
王としてではない。
獣としてでもない。
災厄として。
クラウディオは、低く笑った。
「我は災害か」
「近い」
「貴様は災害を首輪で管理するのか」
「必要なら」
「傲慢だな」
「そうだな」
否定しなかった。
まただ。
ルストは、自分を正しい善人のように飾らない。
それが、妙に腹立たしい。
クラウディオは、ルストを睨んだ。
「貴様も同じだ」
「何が」
「災厄を管理できると思っている時点で、貴様も災厄だ」
ルストはしばらく黙った。
そして、低く言った。
「昔、そう呼ばれたこともある」
クラウディオの目が細くなる。
今のは、漏れた。
明らかに。
ルストは続けなかった。
だが、クラウディオは聞き逃さない。
「昔?」
「忘れろ」
「忘れると思うか」
「思わない」
「では言うな」
「出た」
「迂闊だな、灰銀」
クラウディオの笑みが深くなる。
「災厄と呼ばれた狩人か。面白いではないか」
「面白くない」
「貴様の過去など、たいして興味もなかったが、少し変わった」
「興味を持つな」
「命じるな」
いつものやり取り。
けれど、空気はわずかに変わっていた。
ルストは、古い過去を隠している。
狩人としての履歴ではない。
もっと古いもの。
吸血鬼と人間の境界に関わる何か。
クラウディオはそれを感じた。
そして、感じたからこそ笑った。
「貴様、人間側の顔をしているが、本当に人間側なのか」
ルストは答えない。
「狩人か」
答えない。
「それとも、狩人のふりをした何かか」
ルストは、ようやく口を開いた。
「今のお前には関係ない」
「なら、いつか関係するのだな」
クラウディオの声が甘くなる。
「言葉を選び損ねたな、灰銀」
ルストは無言でクラウディオを見た。
その視線に、クラウディオは薄く笑う。
ようやく、少しだけ噛み返せた気がした。
首輪をつけられ、印を刻まれ、皿で血を飲まされ、雷で心臓を止められている。
それでも、言葉でならまだ噛める。
噛みつける。
クラウディオは、低く言った。
「我を管理する理由は分かった」
「分かったのか」
「殺すと面倒で、生かすと危険。だから縛る。実に貴様らしい雑な理屈だ」
「十分だ」
「だが、まだ足りぬ」
赤い瞳がルストを射る。
「なぜ貴様がそれを知っているのか。なぜ貴様が、殺すだけでは夜が壊れると語れるのか。なぜ貴様の血が、我の王血を押さえつけられるのか」
雷鎖がかすかに鳴る。
クラウディオは気にせず続けた。
「そこは、まだ答えていない」
「答えない」
「なら、暴いてやる」
「できるなら」
「その言葉も聞き飽きた」
「なら、やれ」
クラウディオは笑った。
「今はやらぬだけだ」
ルストは、かすかに息を吐いた。
疲れたようにも、呆れたようにも見えた。
クラウディオは、それを見て少し機嫌を直した。
灰銀の表情を動かした。
ほんの少しでも。
それだけで今は十分だった。
ルストは、廃村の出口へ歩き出す。
「戻るぞ」
「命じるな」
「ここにはもう何もない」
「灰がある」
「放っておけ」
「貴様が残した灰だ」
「お前に噛みつこうとした灰だ」
「我が燃やしたかった」
「次があれば制御内でやれ」
「我は貴様の制御内で殺す王ではない」
「今はそうだ」
クラウディオは、赤い瞳でルストの背を睨む。
「認めぬ」
「認めなくていい」
「なら言うな」
「事実だ」
「事実ごと殺す」
「雷鎖が鳴るぞ」
言われた瞬間、首元の輪がかすかに冷えた。
クラウディオは舌打ちした。
「貴様のせいで、我の殺意が不便だ」
「便利な殺意は危険だ」
「王の殺意は便利であるべきだ」
「だから管理する」
「だからその言葉をやめろ!」
雷鎖が小さく光る。
クラウディオは一瞬止まった。
止まってしまった。
ルストは振り返らない。
見ていない。
だが、気づいているだろう。
それが腹立たしい。
クラウディオは歩き出した。
ルストの後ではなく、横へ並ぶように。
後ろは歩かない。
絶対に。
ルストは何も言わなかった。
廃村を出る前に、クラウディオはもう一度だけ、離反種の灰を見た。
自分の稀血に寄った者。
王血に狂い、禁忌を犯そうとした者。
そして、灰になった者。
もしルストが来なければ、自分は噛まれていたかもしれない。
あるいは、噛まれる寸前に雷鎖と印に打たれ、もっと無様に崩れていたかもしれない。
その事実を、クラウディオは認めない。
ただ、覚える。
また一つ増えた屈辱として。
「灰銀」
歩きながら、クラウディオは言った。
「何だ」
「貴様は我を災厄だと言ったな」
「近いと言った」
「訂正しろ」
「何と」
クラウディオは笑った。
喉の牙痕を雨上がりの空気へ晒したまま。
「我は管理される災厄ではない」
赤い瞳が、妖しく光る。
「いつか、貴様を管理する災厄だ」
ルストは短く返した。
「その前に、今日の血を飲め」
「台無しにするな!」
廃村の外れに、二人の声が響いた。
ひとりは、災厄を管理すると言う男。
ひとりは、管理されることを拒む災厄。
どちらも譲らない。
どちらも、まだすべてを明かさない。
ただ、ルストの古い過去の影だけが、クラウディオの中に新しい棘として残った。
この灰銀は、ただの狩人ではない。
それだけは、もう確かだった。




