第32話 血杯を落とした従者
血杯は落ちない。
落としてはならない。
王城に仕える者なら、誰もがそれを知っていた。
知っていなければならなかった。
吸血鬼王クラウディオ・ルジェリウスの治世において、血杯を落とすという行為は、ただの粗相ではない。手元の不注意でも、緊張による失敗でも、若い従者の未熟でも済まされない。
血杯は血を受ける器である。
血は名であり、家であり、夜であり、王権そのものだ。
それを落とす者は、血を軽んじた者。
それを割る者は、王権へ傷をつけた者。
それを隠す者は、王の前で血を偽った者。
クラウディオは、そう定めた。
誰も反論しなかった。
反論できなかった。
反論できる者は、もうこの王城にはほとんど残っていなかった。
王城の朝は、いつも冷たい。
黒硝子の窓には淡い月光が残り、廊下の魔導灯は青白く燃えている。従者たちは足音を殺し、侍女たちは声を潜め、血糧管理官たちは王の朝杯に使う血を慎重に運ぶ。
その日も同じだった。
同じであるはずだった。
大広間ではなく、王の私的な謁見室。
黒い石柱が左右に二本だけ立ち、中央には小さな玉座がある。公の玉座よりも低いが、それでもクラウディオが座ると、部屋全体が彼のものになる。
壁には黒薔薇の紋章。
床には王家の血紋。
卓には朝の血杯が置かれる予定だった。
王の前に出る者は少ない。
血杯を運ぶ従者。
血糧管理官。
記録官。
控えの侍女。
そして、王城守備から一名。
その程度の場だった。
クラウディオはすでに玉座にいた。
黒い衣。
銀糸の刺繍。
王冠は身につけていない。
だが、王冠がなくとも彼は王だった。
黒髪は夜のように艶やかで、白い肌は冷えた月光を浴びた彫像のように見える。琥珀色の瞳は静かで、赤は沈んでいる。
沈んでいるだけだ。
消えてはいない。
誰もがそれを知っている。
今日、血杯を運ぶ従者は若かった。
名をエリオットという。
王城へ入ってまだ二年。
血杯を運ぶ役を任されたのは、今日が初めてだった。
血杯管理官の後任がまだ正式に決まっていないため、臨時の従者たちが交代で運ぶことになっていたのだ。
愚かな配置だった。
若い従者に、今のクラウディオの血杯を運ばせる。
食器棚に火薬を積んで「揺らすな」と命じるようなものだ。王城は時々、危機管理をどこかの沼に捨ててくる。
エリオットは、銀盆の上に血杯を載せていた。
深紅の血が注がれた杯。
王の朝杯。
器は細い銀で作られ、縁には黒い血紋が刻まれている。
血の香りは濃く、しかし整っていた。
問題は血ではない。
従者の手だった。
震えている。
ほんのわずか。
だが、クラウディオは気づいた。
玉座の上で、彼の目が従者の手元へ落ちる。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
血糧管理官の顔が青ざめる。
記録官の筆が止まる。
控えの侍女が息を殺す。
王城守備の男が、ほんの少し姿勢を正す。
エリオット自身も、王の視線に気づいた。
震えを止めようとした。
それが悪かった。
震えている手を無理に止めようとすると、力が入る。
力が入れば、銀盆が傾く。
銀盆が傾けば、血杯の底が滑る。
時間にすれば、一瞬だった。
だが、クラウディオにはその一瞬がひどく遅く見えた。
血杯が揺れる。
縁に血が触れる。
銀盆の上で、細い音がした。
エリオットの顔が凍る。
彼は咄嗟に支えようとした。
だが指が滑った。
血杯が、落ちた。
黒石の床に銀の音が響いた。
高く、冷たく、許されない音。
杯は一度跳ね、縁から床へ血が広がる。
深紅の血が、王家の血紋の上へ流れた。
器は完全には割れなかった。
だが、縁に細い罅が入っていた。
その罅から、血が黒石へ落ちていく。
謁見室は凍りついた。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
エリオットだけが、膝から崩れ落ちた。
「陛下……っ」
声は震えていた。
若い。
あまりにも若い声だった。
「も、申し訳ございません……! 申し訳ございません、陛下……!」
彼は床に額を擦りつけるように伏せた。
手が震えている。
落ちた血杯へ触れようとして、すぐに手を引っ込める。
触ればさらに罪になると分かっている。
だが、触れなければ血は広がる。
どうしていいか分からず、ただ震える。
その姿は、罪人というより、失敗した子どもだった。
悪意はない。
罠でもない。
隠蔽でもない。
ただ、恐怖で手が震え、血杯を落とした。
それだけだった。
それだけ。
人間なら、そう言っただろう。
吸血鬼でも、別の王なら、そう言ったかもしれない。
だが、クラウディオは言わない。
玉座の上で、彼は血杯を見ていた。
落ちた血。
罅の入った器。
黒石へ広がる赤。
その光景が、遠い夜を呼び起こす。
黒石の回廊。
血杯渡り。
若い従者ニコラの震えた手。
その時、彼は止めた。
杯を水平に。
左手の親指を下げるな。
右手首を固めすぎるな。
血杯は、渡す者の恐怖まで拾う。
あの時、血杯は落ちなかった。
落ちる前に止めたからだ。
落ちた後では遅い。
この言葉は、昔から彼の血に沈んでいる。
ベルニエがわざと血を溢した食卓。
誰も怒らなかった。
ロウェナが火刑台に上がった広場。
誰も止めなかった。
血杯は落ちない。
落とさせない。
落とした者は、覚える。
いや。
自分が覚える。
クラウディオは、ゆっくり立ち上がった。
その動きだけで、エリオットの呼吸が止まる。
血糧管理官が震えた。
「陛下、どうか……この者はまだ若く、初めての役で……」
クラウディオの視線が、血糧管理官へ向いた。
それだけで、管理官は言葉を失った。
王の目は琥珀色だった。
赤くはない。
怒りで赤くもなっていない。
それが、何より恐ろしかった。
クラウディオは静かに言った。
「若ければ、血を落としてよいのか」
誰も答えない。
「初めてなら、王の血杯を割ってよいのか」
管理官は顔を伏せた。
「恐怖で手が震えれば、血を床へ流してよいのか」
沈黙。
エリオットは泣きながら叫んだ。
「陛下、どうか、どうかお許しください……! 私の不注意です、私の罪です……! けれど、悪意はございません! 隠そうともしておりません! どうか、どうか……!」
悪意はない。
隠していない。
それは事実だった。
だからこそ、理不尽だった。
クラウディオは、エリオットを見下ろした。
「悪意がなければ、落ちた血は戻るのか」
エリオットの顔が凍る。
「隠さなければ、割れた杯は割れる前に戻るのか」
「陛下……」
「不注意なら、王権に罅を入れてよいのか」
エリオットは言葉を失った。
クラウディオは、床の血へ目を落とした。
黒石へ広がる赤。
王の朝杯の血。
美しく整えられるはずだった血。
それが床にある。
許せない。
理由など、もう理屈の後からついてくる。
許せないものは許せない。
その冷たい理不尽が、クラウディオの中で王命の形を取る。
王城の者たちは、それを感じ取って震えた。
クラウディオは言った。
「処断しろ」
短い命令だった。
エリオットが顔を上げる。
目が見開かれる。
「陛下……?」
信じられない、という顔だった。
血糧管理官が青ざめて一歩出る。
「陛下! どうか、どうかご再考を……!」
「二度言わせるな」
声は荒くない。
だが、その一言で管理官は膝をついた。
エリオットは、ようやく理解した。
自分が許されないことを。
この失敗が、取り返しのつかないものとして扱われることを。
彼は床を這うようにして、クラウディオへ近づこうとした。
王城守備の男が止める。
「いやだ……いやだ、陛下! お許しください! お願いです、私は、私はまだ……!」
クラウディオは、彼を見ている。
顔には何もない。
「母が、病で……私が仕送りを……! どうか、命だけは……! 手なら、手なら差し出します! 二度と血杯には触れません! だから、どうかァッ!!」
悲鳴じみた命乞いだった。
若い声。
震える喉。
赤く染まり始める瞳。
恐怖で吸血鬼の本性が浮かび、牙が覗く。
それでも彼はただの従者だった。
王へ逆らう力などない。
クラウディオは、冷たく言った。
「手だけで済むと思うのか」
エリオットの顔が崩れた。
「ひ……っ」
王城守備の男が、エリオットの首元へ黒い封具を当てた。
処断用の魔導具。
血を一瞬で締め、存在そのものを王城の血紋へ沈めるもの。
バルドの時と同じ系統の処刑。
ただし、今回は公開処刑ではない。
小さな謁見室。
朝杯の場。
たった一つの失態。
それに対して、同じだけ重い罰が下る。
その理不尽さが、部屋の全員を凍らせていた。
エリオットは暴れた。
拘束されていない分、身体が床の上で跳ねる。
「いやだ、いやだあああッ!! 陛下、陛下ァッ!! 助けて、どうか、どうかァッ!!」
封具が赤黒く光る。
エリオットの声が引き攣った。
「ぎ、ぃ……ッ! あ、ああああああッ!!」
血が締められる。
外へ流れるのではない。
内側から、王城の血紋に掴まれる。
彼の瞳が完全に禍々しい赤へ染まる。
自我はある。
恐怖もある。
だから、余計に悲鳴が生々しい。
「やめ、やめて……ッ! あがああああッ!! 血が、血が……ッ、身体が、引かれ……ッ!!」
爪が黒石を掻く。
足が床を蹴る。
喉が裂けるような声が響く。
控えの侍女が口元を押さえた。
記録官の筆が震える。
血糧管理官は床に額をつけたまま、目を閉じている。
クラウディオは動かない。
見ている。
最後まで。
エリオットの身体が弓なりに跳ねた。
「が、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!! 母さん、母さ……ッ、いやだ、死にたくな……ッ!!」
声が潰れる。
封具の光が強くなる。
血が、名が、命が、王城の血紋へ吸い取られていく。
エリオットは最後に、クラウディオを見た。
助けを求める目だった。
怨みではない。
まだ、助かると思いたい目。
その目すら、クラウディオは受け止めた。
そして、何もしなかった。
「か、は……ッ、陛……下……」
それが最後の声だった。
次の瞬間、エリオットの身体は赤黒い霧へほどけた。
骨も肉も血も残らない。
衣が床へ落ち、すぐに血紋の光に沈む。
若い従者がいた場所には、何も残らなかった。
ただ、落ちた血杯と、床に広がる王の血だけが残っている。
謁見室は、死んだように静かだった。
クラウディオは、落ちた血杯へ視線を戻す。
「血を拭え」
誰もすぐには動けなかった。
クラウディオの瞳が、ゆっくり血糧管理官へ向く。
「聞こえなかったのか」
「は、はい……!」
管理官が慌てて動く。
侍女も震えながら布を持つ。
だが、クラウディオは言った。
「素手で触れるな」
全員が止まる。
「落ちた血を、さらに汚すな」
血糧管理官は涙を滲ませながら頭を下げた。
「仰せのままに……」
専用の浄布と銀器が運ばれる。
床に落ちた血が、丁寧に吸い上げられていく。
割れた血杯は、別の銀盆に載せられた。
罅の入った杯。
それも処分されるだろう。
エリオットと同じように。
記録からは、どう書かれるのか。
血杯を落としたため処断。
短い。
きっと、それだけだ。
そこに、彼が若かったことは書かれない。
母に仕送りをしていたことも。
悪意がなかったことも。
泣いて命乞いをしたことも。
最後に母を呼んだことも。
何も残らない。
クラウディオは、それを分かっていた。
分かった上で、処断した。
だから理不尽だった。
だから暴君だった。
血が片づけられるまで、彼は玉座の前に立っていた。
誰も顔を上げない。
誰も彼を見ない。
見る勇気がない。
だが、全員が理解した。
王は、本当に許さない。
悪意がなくても。
初めてでも。
若くても。
泣いても。
母の名を呼んでも。
血杯を落とせば、死ぬ。
その事実が、王城全体へ染み込んでいく。
やがて、床は清められた。
血の跡は消えた。
しかし空気は戻らない。
クラウディオは、清められた黒石を見下ろした。
そこにはもう何もない。
落ちた血も。
死んだ従者も。
ただ、記憶だけが残る。
いつものように。
自分の中に。
「後任を選べ」
クラウディオが言った。
血糧管理官が震える声で答える。
「は……はい、陛下」
「次に血杯を運ぶ者へ伝えろ」
クラウディオは玉座へ戻る。
「血杯は落ちない」
短い言葉。
それだけで十分だった。
その日以降、王城で血杯を運ぶ者は、全員が死に物狂いで手を鍛えた。
指の震えを殺す訓練。
銀盆を水平に保つ訓練。
血の匂いに動揺しない訓練。
王の視線を受けても呼吸を乱さない訓練。
たった一つの杯のために、従者たちは夜ごと手を傷めた。
誰も文句を言わなかった。
言えなかった。
エリオットの悲鳴が、王城に残っていたからだ。
あの若い従者が最後に母を呼んだ声は、謁見室にいた者たちの耳から消えなかった。
しかし、記録には残らない。
残す者はひとりだけだった。
夜、クラウディオは自室へ戻った。
玉座の間とは違う、静かな部屋。
黒硝子の窓。
机。
古い紙片。
王になってなお、彼は記録を続けている。
誰にも見せない記録。
王城の公式記録では消えるものを、自分の内側へ沈めるための記録。
クラウディオは、白い紙を出した。
題を書く。
血杯を落とした従者。
そして、続ける。
エリオット。
若い従者。
初めて王の朝杯を運ぶ。
手が震え、血杯を落とした。
悪意なし。
隠蔽なし。
命乞い。
母の名を呼んだ。
処断。
跡形もなく消える。
クラウディオは、そこでペンを止めた。
悪意なし。
隠蔽なし。
それでも処断。
自分で書くと、あまりに理不尽だった。
だが、後悔はなかった。
後悔がないことが、さらに理不尽だった。
彼は続きを書いた。
血杯は落ちない。
落ちた後では遅い。
若さも、恐怖も、悪意の有無も、落ちた血を戻さない。
許せば、次の血杯が揺れる。
揺れるなら、落ちる。
落ちる前に止める。
落ちたなら、終わる。
そこまで書いて、クラウディオはペンを置いた。
黒硝子に映る自分を見る。
美しい王。
白い肌。
黒い髪。
琥珀色の瞳。
瞳の奥に、赤はない。
怒っていない。
飢えてもいない。
血術を使った後の高揚もない。
ただ、静かだった。
それが一番恐ろしいのだと、王城の者たちは知っている。
クラウディオは低く呟いた。
「理不尽だな」
自分で分かっている。
それでも変えない。
王とは、時に理不尽を法に変えるものだ。
その法が誰かを殺すと知っていても。
いや、知っているからこそ、王なのだ。
彼は机の奥の古い紙片を一度だけ見た。
また来てね、クラウディオ。
ロウェナの文字。
彼女なら、泣いただろうか。
怒っただろうか。
「そんなことしないで」と言っただろうか。
たぶん、言った。
それでも、クラウディオは今日の命令を取り消さない。
もう彼は、彼女が温めた小さな子どもではない。
血で作った王冠を戴く、美しき暴君王だった。
クラウディオは紙をしまい、最後に一行だけ書き足した。
読者が我を恐れるなら、それでいい。
我は、許される王ではない。
その文字を見つめてから、彼は静かに目を閉じた。
王城のどこかで、従者たちは今夜も銀盆を持つ訓練をしている。
誰も血杯を落とさないために。
誰も、エリオットのように叫ばないために。
だが、その悲鳴はもう王城へ刻まれている。
血杯は落ちない。
その言葉の下に、若い従者の断末魔が、永遠に沈んでいる。




