第31話 美しき暴君王
過去編が終わり、現在軸に入ります。
今代の吸血鬼王クラウディオ・ルジェリウスは、美しい王だった。
それは、誰も否定できない。
黒髪は夜を編んだように艶やかで、白い肌は月光を受けた大理石のように冷たい。長い睫毛の影が落ちる瞳は、普段は琥珀にも金にも見える深い色をしている。唇は血を含んだ薔薇のように赤く、指先は人形師が作った精巧な造形のように細い。
彼が玉座に座っているだけで、王城は息を潜める。
誰も身じろぎしない。
誰も余計な音を立てない。
燭台の火ですら、揺れることを許されていないように見える。
美しい。
あまりに美しい。
だからこそ、恐ろしい。
王城の者たちは皆、知っていた。
クラウディオの美しさは、花のそれではない。
刃だ。
血を吸ってなお曇らない刃。
誰かが触れれば、触れた者だけが裂かれる。
王城の大広間は、数百年前と変わらず黒かった。
磨かれた黒石の床。
高い天井。
青白い魔導灯。
壁に刻まれた古い血紋。
玉座の背後には、黒薔薇の紋章が広がっている。
かつて地下礼拝堂で血に濡れた王冠は、今、クラウディオの頭上にあった。
黒い宝石。
深紅の血石。
古い銀細工。
その内側には、今でも落ちない血の染みがある。
誰の血かは、もう分からない。
父王の血。
兄弟の血。
正妃の血。
クラウディオ自身の血。
王座を奪った夜に混ざった血。
それらすべてが、王冠の内側で乾き、沈み、今代の王権の重さになっている。
玉座の下では、同族たちが膝をついていた。
王城に仕える眷属。
古参吸血鬼。
血糧管理官。
夜警の長。
外縁領から参じた血族の代表。
彼らは皆、頭を垂れている。
吸血鬼の膝が黒石に触れる音は、ひどく冷たい。
今夜、その音はすでに何度も響いた。
だが、まだ終わっていない。
大広間の中央に、一人の吸血鬼が引き出されていた。
名を、バルド・レギアスという。
王城血杯管理を任されていた中位の同族だった。
外見はまだ若い。
だが、実年齢は人間の国が一つ興って滅びるほどには長い。
青灰色の髪。
痩せた頬。
黒い礼装。
胸元には血杯管理官の銀章。
その銀章は、今は割れていた。
故意に割られたものではない。
役目を失った者から、王城が剥がしたのだ。
バルドは床に膝をつき、両手を拘束されている。
顔は蒼白だった。
唇は震え、牙がわずかに覗いている。
彼の瞳には、禍々しい赤が滲んでいた。
吸血衝動ではない。
恐怖と血脈の乱れで、本性が表へ浮かび上がっている。
まだ自我はある。
だから、余計に恐ろしい。
自分が何をしたか理解しながら、王の前にいる。
それが、彼を壊しかけていた。
クラウディオは、玉座の上から彼を見下ろしていた。
肘掛けに白い指を置き、頬杖すらつかない。
退屈そうに見えるほど静かだった。
大広間の空気は、張り詰めている。
誰もバルドを庇わない。
誰も声を上げない。
王がまだ言葉を発していないからだ。
沈黙の中、黒い石床の上に、割れた血杯の破片が置かれていた。
銀の杯。
王家の血紋。
深紅の封印石。
本来なら、王の儀礼血を受けるための杯だった。
だが、その杯は割れている。
縁が欠け、底に裂け目が走り、内側には乾いた血の跡がある。
落ちたのだ。
王の血杯が。
しかも、バルドはそれを隠そうとした。
代わりの杯を用意し、血を移し替え、破片を処分しようとした。
血杯を落としたことより、その隠蔽が罪を重くした。
だがクラウディオにとっては、どちらも同じだった。
血杯は落ちない。
落としてはならない。
渡す者も、持つ者も、責を負う。
それは、遠い昔に黒石の回廊で決まったことだった。
クラウディオは、その夜を忘れていない。
彼は忘れない。
忘れられないのではない。
忘れないと決めている。
バルドが震える声で言った。
「陛下……どうか、お慈悲を」
大広間の空気がさらに冷えた。
慈悲。
その言葉を王の前で使った者は、近年少ない。
理由は単純だ。
クラウディオに慈悲を求めることは、凍った湖に火を投げ込むようなものだからだ。
溶けはしない。
ただ、火の方が消える。
クラウディオは、ようやく口を開いた。
「慈悲」
声は低く、美しかった。
音だけなら、夜に溶ける楽器のようですらある。
だが、その響きに温度はない。
「そなたは、我にそれを求めるのか」
バルドは床に額をつけた。
「はい……はい、陛下……! 一度だけ、どうか一度だけお許しを……! 血杯は、すぐに代えを用意し、血も保ちました。王城の外へは漏らしておりません。どうか、どうか……!」
声が裏返る。
吸血鬼の喉から出るには、あまりに惨めな声だった。
だが、誰も笑わない。
笑えば次は自分だと、全員が知っている。
クラウディオは、割れた血杯を見た。
長い沈黙。
バルドの呼吸だけが、広間に響く。
「血杯を落としたな」
クラウディオが言った。
バルドは震えた。
「……はい」
「血を移したな」
「……はい」
「破片を隠したな」
「恐れながら、私は……私は、王城の混乱を避けるために」
「違う」
その一言で、バルドの声が止まった。
クラウディオは立ち上がらない。
玉座から見下ろしたまま、静かに続ける。
「そなたは、己の失態を隠すために血を移した」
バルドの肩が震える。
「王城のためではない。我のためでもない。血のためでもない」
クラウディオの瞳の奥に、かすかな赤が滲む。
吸血衝動ではない。
怒りでもない。
王権が血に触れた色だった。
「己の首を守るためだ」
バルドは泣きそうな声で叫んだ。
「陛下! どうか、どうかお許しください! 私は長く王城に仕え、血杯を守って参りました! この一度だけでございます! この一度だけ……!」
クラウディオは、そこで初めて微かに首を傾けた。
美しい仕草だった。
人形のように整っている。
そのせいで、余計に恐ろしい。
「一度」
彼は繰り返す。
「一度落ちた血は、戻るのか」
バルドの顔が凍った。
「一度割れた杯は、割れる前に戻るのか」
「陛下……」
「一度隠した失態は、隠す前に戻るのか」
バルドは答えられない。
クラウディオの声が、少しだけ低くなる。
「落ちた後では遅い」
その言葉が、大広間に沈んだ。
古参吸血鬼の何人かが目を伏せる。
古い者たちは、その言葉に含まれるものを知っている。
クラウディオが血杯を落とさない王だったこと。
血杯を落とす者を許さないこと。
そして、彼が許さない理由を、誰も完全には知らないこと。
クラウディオは、玉座の前へゆっくり歩み出た。
黒い衣の裾が床を滑る。
長い指が王冠の血石へ一瞬触れる。
その姿は、あまりに美しかった。
暴君という言葉すら、彼の前では粗末に見える。
バルドは顔を上げた。
その瞳の赤が濃くなる。
恐怖で、血が暴れている。
「陛下、いやだ……どうか、どうか……! 私は、まだ……まだ王にお仕えできます! 血杯も、儀礼も、次こそは……!」
クラウディオは彼の前で立ち止まった。
「次」
静かな声。
「そなたに、次があると思うのか」
バルドの顔が崩れた。
「お許しを……お許しを、陛下……! あ、ああ、いやだ、いやだ……! 死にたくない! どうか、どうかァッ!!」
絶叫に近い命乞いだった。
クラウディオは表情を変えない。
白い指先を、ほんの少し動かした。
それだけだった。
大広間の床に刻まれた王家の血紋が、赤黒く光った。
バルドの身体が硬直する。
彼の喉から、まず短い息が漏れた。
「ひゅ……ッ」
次に、血が内側から引き絞られるような呻き。
「が、ぁ……ッ、あ、あああ……ッ!」
バルドの瞳が完全に禍々しい赤へ染まる。
恐怖。
痛み。
吸血鬼としての本性。
すべてが表に出る。
彼は拘束された手で床を掻こうとした。
爪が黒石を擦る。
音が甲高く響いた。
「や、やめ……陛下、陛下ぁッ!! あが、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
悲鳴が広間を裂いた。
クラウディオは、ただ見下ろしている。
王城全体が凍っていた。
誰も動かない。
誰も助けない。
誰も止めない。
バルドの身体から、血が外へ流れたわけではなかった。
だが、命そのものが王権に掴まれているようだった。
彼の影が床の血紋へ引きずられていく。
輪郭が揺れる。
存在が薄れていく。
血と名と役目が、王の命令によって剥がされていく。
バルドは声にならない叫びを上げた。
「ぎ、ぃいいいいいッ!! いやだ、俺は、俺はまだ……ッ! 陛下、どうか、どうかァッ!!」
クラウディオの瞳の赤が、わずかに深くなる。
「黙れ」
短い命令。
バルドの声が一瞬で詰まった。
喉が震える。
叫びたいのに、声が出ない。
口だけが開き、牙が剥き出しになり、赤い目が見開かれる。
次の瞬間、声封じを破るように、掠れた絶叫が漏れた。
「か、は……ッ、あ゛、あ゛あ゛……ッ!」
それが最後だった。
バルドの身体は、崩れた。
血肉が飛び散ることはない。
骨が砕ける音もない。
ただ、存在が王城の黒い床へ吸い込まれるように薄れ、赤黒い霧となってほどけていく。
衣だけが一瞬残り、それすら血紋の光に飲まれた。
銀章の欠片が床へ落ちる。
小さな音。
それだけが、彼がそこにいた証だった。
跡形もなかった。
血も。
灰も。
骨も。
名を呼ぶ者も。
ただ、落ちた銀章の欠片だけ。
クラウディオは、それを見下ろした。
やがて、ゆっくりと言った。
「まずいな」
広間の誰も、その意味をすぐには理解できなかった。
処刑が失敗したという意味ではない。
バルドが不味かったという意味でもない。
もっと深い、もっと乾いた声だった。
クラウディオは、自分の指先を見た。
そこに血はついていない。
今の処刑で、彼は何も汚れていない。
汚れていないことが、かえって空虚だった。
「これでも足りぬ」
彼は呟いた。
美しい声だった。
だが、その奥に飢えがあった。
王権の飢え。
血の飢え。
何を飲んでも、何を奪っても、満たされない空洞のようなもの。
クラウディオは、広間に跪く同族たちを見た。
全員が震えている。
誰も顔を上げられない。
彼は王だった。
今代の吸血鬼王。
美しき暴君王。
彼の一言で、同族の命は跡形もなく消える。
それでも、満たされない。
クラウディオは低く笑った。
楽しい笑いではない。
空虚をなぞるような笑いだった。
「我を満たす糧は、この世に存在するのか」
その言葉に、何人かが震えた。
糧。
王がそう言った。
同族を跡形もなく消した直後に。
だが、クラウディオの目は飢えた獣のものではなかった。
もっと悪い。
自我がある。
理性がある。
美しく、冷静で、残酷な王の目だった。
禍々しい赤は、瞳の奥に沈んでいる。
完全には表へ出ていない。
彼は暴走していない。
飢餓堕ちでもない。
崩れ種でもない。
だからこそ、恐ろしい。
満たされないと知りながら、自分が何をしているか理解している。
クラウディオは、銀章の欠片を見下ろした。
「血杯を落とす者は、血を軽んじる」
誰も答えない。
「血を軽んじる者は、我の城に要らぬ」
大広間に、王命が落ちる。
「バルド・レギアスの名を記録から削れ」
記録官が震えながら頭を下げた。
「は……はい、陛下」
「血杯管理の座は空けておけ。後任は、我が決める」
「仰せのままに」
クラウディオは玉座へ戻った。
彼が歩くたび、同族たちはさらに深く頭を下げる。
誰も彼の顔を見ない。
見ることを許されていないわけではない。
ただ、見られないのだ。
あまりに美しく、あまりに冷たい王を。
玉座に腰を下ろすと、クラウディオは指先で肘掛けを軽く叩いた。
一度。
二度。
それだけで、広間の空気がさらに締まる。
「次」
その一言に、血糧管理官が震えた。
次の報告を持つ者が、這うように前へ出る。
クラウディオは退屈そうにそれを見ていた。
同族一人の命を奪った直後とは思えないほど静かだった。
いや、違う。
それが今の彼だった。
命を奪うことが、もはや彼を揺らさない。
揺らすのは、満たされない飢えだけ。
王城の者たちは皆、同じことを悟っていた。
この王に、優しさを期待してはいけない。
この王に、失態の許しを求めてはいけない。
この王に、血を軽んじた言い訳をしてはいけない。
クラウディオ・ルジェリウスは、優しい王ではない。
けれど、王だった。
誰よりも王だった。
その美貌で王城全体を凍らせ、その声ひとつで同族を沈黙させ、その指先の動きだけで命を消す。
美しき暴君王。
その名にふさわしい存在が、玉座にいた。
報告の声が震える。
クラウディオは聞いているのかいないのか分からない顔で、広間の奥を見ていた。
彼の視線は、どこか遠い。
遠い昔の火刑台か。
血で濡れた王冠か。
それとも、まだ見ぬ糧か。
誰にも分からない。
ただ、彼の唇がわずかに動いた。
「まずい」
もう一度、彼は呟く。
今度は誰にも聞かせるためではない。
自分の内側へ落とす声だった。
「何を喰らっても、足りぬ」
玉座の間は、凍りついたままだった。
誰も、その言葉に答えられない。
答えなど、この世のどこにもないのかもしれなかった。
クラウディオは、静かに目を細める。
琥珀色の瞳の奥で、禍々しい赤がゆっくりと沈んでいった。
暴走ではない。
飢餓堕ちでもない。
理性を持ったままの渇望。
それが、王城全体を支配していた。
美しき吸血鬼王は、玉座の上で微笑まない。
ただ、次の失態を待つ。
次の血を待つ。
次の糧を待つ。
そして王城の誰もが知っていた。
その飢えを満たすものが見つかるまで、世界はさらに冷たくなっていくのだと。




