⑮最後の言葉
「母さんには、彼女ができたこと、瑞稀と付き合っていることは言ってなかったけど、実家に帰省したときに、俺の携帯電話を勝手に見られて、瑞稀とのツーショットがフォルダの中にあったから、それを突きつけられた。「恋愛なんかして、成績が下がったらどうする!」って怒ってたけど、適当に、誤魔化して逃げた。母さんの性格的に、もし瑞稀の連絡先を知られたら、勝手に瑞稀に連絡しただろうし。「私の息子をたぶらかすな」とかね。」
その話を聞いたとき、私の中に、鮮烈に一つの思い出が蘇ってきた。
タテの留年が決まった日、タテに、別れない代わりに、将来のことを考えて付き合うと宣言した後、彼は、親に連絡すると言って、キッチンの方で長電話していた。ずっと電話の向こうの相手の言うことをただただ聞いていたが、一度だけ声を荒げており、私は心配しながら、テーブルの前に座っていた。しばらくして戻ってきたタテは、明らかに疲れていた。
「お疲れ様。大丈夫?」
私が聞くと、
「かなり怒ってた。とりあえず、学費は払ってくれるみたいだけど、次はないぞって言ってた。」
そう言って、気が抜けたように、テーブルに突っ伏した。
「ちょっとトイレ行ってくる。」
彼が立ち上がった瞬間、携帯電話が鳴り、タテは、携帯電話を開いた。届いたメールを見て、顔をしかめていた。
「大丈夫?」
私は思わず聞いてしまった。
「うん、瑞稀は気にしないで。」
タテはそう言って、携帯電話を置いてトイレに行った。
私はいけないことだとは思いつつ、彼の表情の理由がどうしても気になり、彼の携帯電話を見てしまった。
そこには、タテの母親からのメールが届いていた。
"お前を留年させた瑞稀とは絶対に別れろ。お前をダメにした原因だ。"
文面を読んで私は一瞬で血の気が引いた。急いで携帯電話を閉じたが、心臓はバクバクしていた。トイレから戻ってきたタテは、すぐにそのメールに返信していた。
その当時、私は、タテのお母さんは、留年を聞いて、ものすごく怒っていて、私に責任転嫁して八つ当たりしないと、気持ちが収まらなかったんだろうと考えていた。彼氏のお母さんに嫌われたのかもしれない事実に落ち込みつつ、タテと私の関係には問題なかったし、そこまで気にせずに過ごしていた。なので、正直言うと、今の今まで忘れていたのだ。
でも、タテのお母さんの話を聞いた後だと、意味合いが違ってくる。
あれは本気だったんだ。
「留年が決まった後、母親には瑞稀と別れろって言われて…。別れたって嘘をついた。瑞稀と瑞稀の実家に乗り込みかねない勢いだったから…。今さらだけど本当にごめん。あと、大学に入るときに、必ず、地元に帰ってくるようにって言われてたけど、留年したことで、それはさらに強く言われるようになった。S大学に残ることも考えていたけど、こっちに残るって言ったら、絶対大学に乗り込んで、俺を連れ戻しに来るだろうなって思った。そんなことされたら周りに迷惑が掛かるし…身内の恥をさらすことになるし…仕方がないって思った。だから、大学時代だけは、自分の気持ちに素直に生きようって思ってた。卒業したら、俺はまた母さんのいる地元に戻るから。だからせめて大学時代は大好きな瑞稀と一緒にいたかった。」
タテは悲しそうに私を見つめた。
「俺さ、両親がずっとケンカしてばっかりだったから、結婚って不幸になるイメージだったんだよね。自分が結婚しても相手と幸せな家庭を築ける自信がなかったし、母さんは…俺に執着してるから、どんな相手でも、敵対視して攻撃してきそうだし。自分が好きな人を、そんな確実にストレスが掛かるだろう状況にさせるのが、嫌だった。だから、瑞稀から結婚したいって言われたとき、俺とずっと一緒にいたいって思ってくれるのはすごい嬉しかった。本当に。だけど...母さんに支配されてる俺の人生に瑞稀を巻き込むのが申し訳ないし、そもそも、幸せな夫婦って見たことなかったから、結婚して、瑞稀を幸せにできる自信がなくて…。地元に帰らなきゃいけないからって言って断ったんだ。それでも瑞稀のことは大好きだから、離れたくなくて、卒業までは別れたくないって言った。ものすごい自分勝手だよな。本当にごめん。」
話を聞きながら、なんて可哀想なんだろうと思った。
私の拙い知識で考えると、彼のお母さんは毒親で、彼の家は機能不全家庭なのではないだろうか。そして、彼なりに、私をお母さんから、守ろうとしてくれていたのだ。
ただ、同時に思った。なんで何も話してくれなかったんだろう。
「ねぇ、タテは、どうしてこのことを、あのときの私に言わなかったの?具体的なことは言われずに、地元に帰るからって理由で、結婚できないって言われて…。私のこと、本気で好きだったんじゃなかったんだって思っちゃってたよ。」
私は思わず言ってしまった。
「言ったら…困らせるって思ったんだ。母親の言いなりになって情けない、マザコンって思われるかもしれないって怖かった。俺の親は、たぶん、今で言うと、毒親なんだと思うけど、あの頃は、毒親って概念を俺も知らなかったし、知ってる人も少なかったから…理解してもらえないかもしれないって思った。瑞稀と両親の関係は問題無さそうだったし、羨ましかったよ。大好きな瑞稀に否定されたらって思うと、怖くて言えなかった。親との関係をうまく作れなかった情けない男だって思われたくなかった。ごめん。」
タテに言われて、とっさに否定できなかった。あの当時の私は毒親という概念も知らなかったし、タテの言うとおり、成人男性が母親の言いなりになることが理解できなかっただろう。マザコンと思ったかもしれない。
「タテは…お母さんから離れないの?お母さんの側にいたら、いつまでもタテはお母さんに支配されるんじゃない?タテの人生、それでいいの?」
私はタテに聞いた。声が震えていたかもしれない。
「実は一昨年、父親が死んだんだ。心筋梗塞で。突然だった。」
タテはうつむいて話し始めた。
「俺が働き始めたから、一区切り着いたと思ったんだろうな。父さんは母さんに離婚を申し込んだけれど、母さんは同意しなくて、父さんは不倫相手の家に住んでいた。それで、一昨年父さんは急に亡くなった。母さんは喪主を務めて、不倫相手はお葬式に参加させなかった。俺は、母さんが父さんと離婚しなかったのは、不倫相手と最後まで一緒にいさせないための、母さんの復讐だったんだなって思ったんだ。でも…葬式が終わった後、母さんは父さんの遺影を抱きしめて泣いてた。それで俺に言ったんだ「私はお父さんを愛してた。でもお父さんが私を見てくれることはなかった。家をきれいにしても、美味しいご飯を作っても、仕事を頑張っても、浩之を医者にしても。」って。
母さんが俺たちを産んだとき、この子達を立派な大人にしようって父さんと話してたらしい。その約束を果たすために、必死で俺たちを育ててきて、俺を医者にできた。でもそのタイミングで父親から離婚してほしいって言われて…絶望したんだろうなって。俺はあんなにケンカばかりして、夫婦生活は破綻してるんだから、ずっと別れればいいと思ってたし、別れないのはお互いの世間体を気にして何だろうなって思ってたけど…。違った。母さんは父さんが好きだったんだ。…母さんを可哀想な人だと思ったよ。」
タテは続けた。
「俺、母さんのこと恨んだことも憎んだこともたくさんある。自分がやりたいことができなくて、母さんさえいなければって思った。見捨てようと思ったこともある。でも…歪んでいたと思うけど、自分勝手だなって思うけど、母さんのおかげで、俺の頭の出来では一番所得が高い職業に就けたと思う。小さい頃、母さんは俺のこと殴ったけど、その後、必ず抱きしめて「あなたのためなの、あなたのことを愛している。」って言ってきた。じゃあ殴るなよって子供心に思ったけど。…父さんも、姉貴もいなくて、母さんは、俺がいなくなったら本当に1人になるんだ。葬式でも親戚達に「これからはあなたがお母さんを支えてあげてね」って言われたよ。…色々考えたけど、俺は母さんを見捨てることはできない。」
親子には当人同士だけにしか分からない感情があると思う。
ここで私が何かを言ったところで、彼の中の気持ちは簡単には変わらないだろう。
それでも私は、どんな理由があっても、自分の子供の人生を縛り付けるタテのお母さんを理解できなかった。同じ母親としても。
「母さんは、自分の子供を医者にして、開業するのが夢だったって、さっき話したけど、この前そのための物件を選んできたって、書類を渡された。たぶん、俺開業することになる。あと、俺一人だと開業医は大変だからって、女医と結婚するように言われて、結婚相談所に入れられてる。きっと、母親の条件に合う女医と結婚することになると思う。」
あまりの展開に、私は驚いてすぐには声を出せなかった。
「…本当にいいの?タテの人生なのに、タテの意見は?意思ないの?本当に開業したいの?…それでいいの?」
私は泣きそうな顔をしていたと思う。
「タテには、タテの人生を選ぶ権利があるんだよ。タテの人生はタテのものなんだよ…?」
タテはしばらく噛みしめるように私の顔を見つめていた。
「ありがとう。瑞稀に心配してもらえて嬉しい。でも、もう決めたんだ。俺は母さんが死ぬまでは、母さんに付き合うって。いつになるか分からないけど、母さんが死んだら、俺の人生を生きるかもしれない。」
タテは悲しそうに笑った。
「でも、1つだけどうしても気になってた。瑞稀はどうしてるかなって。もし…勝手な考えだけど、俺と同じように引きずってたら困るなって。俺は、もう自分の人生をしばらく生きないって決めてたから、もし今お互いに思い合ってても、俺は一緒にいられなくて、瑞稀を不幸にするだけだなって。だから今回、上野の結婚式で瑞稀に会えるって分かって、確かめようって思ってたんだ。でも、もう俺のことをちゃんと過去のことにしてて、優しい旦那さんと結婚して子供も産んでる幸せな元カノに対して考えることじゃないよな。うぬぼれてるにもほどがある。変なこと言ってごめん。気持ち悪くてごめん。…それくらい瑞稀は俺にとって特別で大事な存在だった。たぶんこれからも。俺が自分の人生で唯一、自分で選んだ存在だったから。今でも好きだよ。」
あの日、タテが告白してくれたときと同じように、涼しい風が吹いた気がした。
「瑞稀が俺のことを、ちゃんと思い出にしてくれていて安心した。俺が何を言っても、今が幸せなら、過去のことにしてくれるなって思えるから。申し訳ないけど、俺はこれからも瑞稀のこと忘れずに過ごしていく。母親のために。瑞稀との未来なんて望まないから、それは許して。ごめんね。俺のわがままだけど、俺のこと、思い出として忘れないでいて。」
これは愛の言葉のようで、私を縛り付ける呪いのような言葉だった。
きっと私は、彼に捕われ続ける。彼の言葉は矢のように私の心に刺さったままだ。
明日には私は大切な夫と可愛い子供がいる日常に戻る。
でも心のどこかでタテのことを忘れることはないだろうと思った。




