ECLIPES VEIN 2話
父は一瞬だけ目を見開いた。だがすぐに、その驚きを胸の内へ押し戻すように、静かな表情へ戻った。
ローゼン「そうだな。お前も、これからこの国が、この大陸がどうなっていくのか、知らなければならない」
父はそこで一度言葉を切り、俺をまっすぐ見た。
ローゼン「私がこの先、いつまでも無事でいられるとは限らん。その時は、お前がこの国を動かすのだからな」
その言葉に、思わず息が詰まった。
父は侍女を呼び、ワインとグラスを持ってくるよう命じた。
ほどなくして運ばれてきた盆の上には、深い紅を湛えた瓶と、磨かれたグラスが二つ、そして小皿に盛られたチーズが並んでいた。
リオン「いいです、父上。そんな高い酒、俺にはもったいないですよ」
ローゼン「まあ、そう言うな。話は長くなるだろうしな」
父は穏やかに笑った。
ローゼン「それに、今日はきっと、お前にとっても大切な夜になる」
リオン「大切な夜……?」
侍女が静かに下がると、父は自ら瓶を取り、二つのグラスへ丁寧にワインを注いだ。
薄い硝子の内側で、赤い液体がゆるやかに揺れる。
父はその色をしばし眺めてから、ひとつを俺の前へ差し出した。
ローゼン「こうしてお前と飲むのも、ずいぶん久しぶりだな。さて、どこから話そうか」
リオン「……まずは、今この大陸がどうなっているのか、教えてください」
父は小さく頷いた。
ローゼン「この大陸にある四つの神脈石については知っているな?」
リオン「はい。炎、水、雷、風。それぞれ異なる力を持っていて、保有する国々はその力を国の発展に使っている。神の恵みとして信仰する国もあれば、軍事や産業に転用している国もある……その程度は」
ローゼン「そうだ」
父はグラスを置き、ゆっくりと言葉を継いだ。
ローゼン「だが近頃、その神脈石の力が、少しずつ弱まり始めているらしい。最初にその異変を告げてきたのが、ネレイディアだった」
父の声は低く、だがひどく落ち着いていた。
それがかえって、この話の重さを際立たせているように思えた。
ローゼン「原因は分からん。他の国が保有している石に、同じ異変が起きているのかどうかも、まだ確かなことは言えない。ネレイディアは独自に諜報員を動かしているそうだが、情報はまだ揃っていないようだ」
リオン「それが、そんなに大きな問題になるんですか?」
問いかけながらも、自分の声にわずかな戸惑いが混じっているのが分かった。
父はすぐには答えず、グラスの縁を指先でなぞった。
ローゼン「もし、それぞれの国の神脈石が同時に弱まり始めているのだとしたら――この大陸はいずれ、戦乱に沈む」
その一言が、胸の奥へ重く落ちた。
ローゼン「そして、その時、この国も決して無関係ではいられん。いや、むしろ確実に巻き込まれるだろう」
父から告げられた話は、あまりに現実離れしていた。
俺にとって平和とは、当たり前に続いていくものだった。
城下の灯りも、兵士たちの笑い声も、レーヴと歩いた夕暮れも、ずっと変わらずそこにあるものだと思っていた。
それが壊れるかもしれない。
その想像が、うまく現実の形を結ばない。
リオン「でも、なぜです? この国は、それぞれの国と友好条約を結んでいます。万が一そんなことが起きれば、他の国々だって平和を乱したとして許さないはずです」
父は静かに俺を見た。
ローゼン「理想を言えば、そうだ」
その声には、否定ではなく、苦い諦めに近い響きがあった。
ローゼン「だが、石の力を持つ国々はここ数年、その力を少しずつ軍事へ転用し始めている。ネレイディアからの報せによれば、炎の国ヴァルカシアは、他国の神脈石を奪おうとしている節があるそうだ」
リオン「ヴァルカシアが……?」
ローゼン「あくまで現時点では推測にすぎん。だが、ネレイディアとの国境付近では、近頃になって大規模な軍事演習が繰り返されている。動機はまだ分からん。だが私は、あの国でも石の弱体化が始まっているのではないかと見ている」
父はそこで一度、ワインに口をつけた。
ローゼン「考えてみろ。あの四大国は、神脈石の力によって利権を得て、富を築き、軍を整え、繁栄してきた。国そのものが、その力を土台にして立っている」
父の視線が、まっすぐに俺へ向けられる。
ローゼン「その土台が崩れ始めた時、何が起こると思う?」
リオン「……奪い合い、ですか」
ローゼン「その可能性が最も高い」
父の答えは、あまりに静かだった。
ローゼン「この大陸そのものが戦場になる。主要国家だけではない。力を持たぬ小国も、交易で成り立つ町も、国境の外れに暮らす民も、否応なくその影響を受けることになる」
俺は言葉を失った。
脳裏に浮かぶのは、兵舎の食堂で笑っていた兵士たちの顔だった。
来月結婚すると笑っていたハイク。
真っ直ぐな目で俺たちに憧れていると言ったレオ。
あの街の灯りのひとつひとつに宿っていた、誰かの未来。
それが、戦で踏みにじられるかもしれない。
リオン「……では、この国はどうすればいいんですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
父はその問いを待っていたかのように、わずかに身を乗り出した。
ローゼン「だからこそ私は、神脈石の共有化をネレイディアへ提案した」
リオン「共有化……?」
ローゼン「ああ。ひとつの国が独占するから、失う時に奪い合いが起きる。ならば最初から、石を各国の独占物ではなく、大陸全体で管理するものに変えるしかない」
その言葉は、あまりに大きかった。
リオン「そんなことが……本当にできるんですか」
父は少しだけ笑った。
それは自信に満ちた笑みではなく、それでも前へ進むしかない者の笑みだった。
ローゼン「理想論だと言われれば、その通りだ。セインが怒るのも分かる。今から私がやろうとしていることは、たしかに危険な賭けだ」
父はグラスを置いた。
ローゼン「下手をすれば、石を狙う他国から目をつけられる。余計にこの国を危険へ晒すことにもなりかねん。何もせずにいれば、戦いが起こらない可能性もゼロではない。民を巻き込まずに済む道が、どこかに残っているのかもしれない」
そこまで言って、父は一度目を伏せた。
ローゼン「だがな、リオン。私はどうしても、嫌な予感がしてならんのだ」
その声音は、これまでのどの言葉よりも低かった。
ローゼン「戦が、もう身近なところまで来ているような気がしてならん。まだ始まっていないはずなのに、もう足音だけは聞こえている。そんな感覚が、ずっと消えないのだ」
俺は知らず知らずのうちに、息を止めていた。
父は、ただ理想を語っているのではない。
来るものを感じ取った上で、それでも賭けに出ようとしている。
ローゼン「私は、この条約締結に命を賭けるつもりだ」
その言葉は、驚くほど穏やかに告げられた。
ローゼン「人の善意に、正しい心に、この余生を賭けてみたい。たとえそれが、国民を不安へ晒す可能性を孕んでいたとしてもだ」
思えば父とこうして長く話すのは、いつ以来だっただろう。
自分の生まれを恨み、王として生きることをどこかで拒み続けてきた俺は、父と向き合うたびに引け目を感じていた。
父の期待から逃げてきたつもりはなくても、父の目をまっすぐ見ることが、ずっと怖かった。
だが最近、いろいろなことがあった。
憧れていた兄の心の内を聞くことができた。
兵舎で、兵士たちの熱い想いを知った。
レーヴと過ごした時間の中で、自分が守りたいものが何なのかを、少しだけ考えられるようになった。
そのおかげかもしれない。
最近、生きていることが前より少しだけ楽しくなっていた。
俺が大好きなこの国を、みんなもまた大切に想っている。
みんながこの国で笑い、未来を願い、俺にも何かを託そうとしている。
だったら、答えなければならない。
父の話は衝撃的だった。
これから起こるかもしれないことは、まだ実感としては遠い。
それでも、俺は初めて思った。
父と一緒に、この国のために戦いたい。
平和のために、自分も何かをしたい。
初めて、本気でそう思った。
だから、俺は父を見た。
リオン「俺も協力します」
父が静かに目を上げる。
リオン「俺にできることがあるなら、教えてください。俺は……父上の子供ですから」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがはっきりと形を持った気がした。
ずっと背を向けてきた場所へ、ようやく自分の足で立ったような感覚だった。
父はしばらく何も言わなかった。
ただ、じっと俺を見ていた。
やがて、その目元がわずかに緩む。
ローゼン「……そうか」
それだけだった。
けれど、その短い一言の中に、驚きも、喜びも、安堵も、全部入っている気がした。
ローゼン「お前に、渡したいものがあるんだ」
そう言って父は、椅子の脇に立てかけてあった剣を手に取った。
ゆっくりと鞘を払う。
澄んだ音とともに現れた刀身は、シャンデリアの灯を受けて、淡い橙色に染まった。
父はしばらくのあいだ、その剣を黙って見つめていた。
懐かしむようにも、何かを確かめるようにも見える沈黙だった。
やがて父は静かに剣を鞘へ納め、両手で俺の方へ差し出した。
ローゼン「リオン。お前に、こいつを託したい」
リオン「……いいのですか?」
思わず声が小さくなる。
リオン「この剣は、父上がずっと大切にしていたものでしょう」
父はわずかに笑った。
だがその目は、いつになく真剣だった。
ローゼン「ただ大切にしていたわけではない」
父はそう言って、俺の目をまっすぐ見た。
ローゼン「この剣は、アルケイア王家の誇りそのものだ。代々、この国を背負う者の手に渡ってきた。だからこそ今、お前に預けるべきだと思った」
鋭く、それでいて温かい視線だった。
俺は息を呑み、差し出された剣を両手で受け取る。
見た目以上に重い。
だがそれは、ただ鉄の重さというだけではなかった。
父から託されたものの意味が、そのまま掌へ伝わってくるようだった。
リオン「……ありがとうございます」
喉の奥が少し詰まる。
それでも、どうにか言葉を絞り出した。
リオン「きっと、立派な王になってみせます」
父はすぐには何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
ローゼン「……頼むぞ、リオン」
その一言は、短いのに妙に胸へ残った。
そして父は、少しだけ言いづらそうに口元を掻いた。
ローゼン「あと、もう一つ頼みがあるんだが……いいか?」
リオン「どうしました?」
ローゼン「実は、明日ネレイディアともう一度会談がある。そこで本格的に、条約締結に向けた話を進めようと思っていてな」
そこまで言って、父は苦笑した。
ローゼン「だが、どうにも緊張してしまってな。今夜はあまり寝つけそうにない。よければ、少し酒に付き合ってくれんか」
その言い方がどこか照れくさそうで、俺は一瞬きょとんとした。
思えば、こうして家族らしい時間を過ごした記憶はあまりない。
父はいつだって王で、兄はいつだって騎士団長で、俺はその背中を遠くから見ているばかりだった。
だからこそ、その申し出がたまらなく嬉しかった。
リオン「もちろん。付き合いますよ」
俺は思わず笑っていた。
リオン「でも、飲みすぎには注意してくださいね」
ローゼン「ははっ。分かっておる」
父は声を上げて笑った。
ローゼン「今日は本当に、いい日だ」
そうして俺たちは、向かい合って杯を交わした。
最近の稽古のこと。
兵舎での出来事。
ハイクたちと食べた食事のこと。
レオが真っ直ぐな目で語った憧れのこと。
父は俺の話を一つ一つ、思っていた以上に真剣に聞いてくれた。
ただ頷くだけではなく、ときおり笑い、ときおり真面目な顔で問い返してくる。
それが妙に嬉しくて、俺は気づけば、いつもよりずっと多くを話していた。
父もまた、普段は見せないような顔をした。
王としてではなく、一人の男としての迷い。
決断の前に立つ者の重さ。
そういうものを、酒の力を借りるようにぽつりぽつりと漏らした。
杯を重ねて、小一時間ほど経った頃だった。
温かく、静かな空気のなかで。
俺はごく自然に、父へ切り出していた。
リオン「父上。実は、もう一つ……相談したいことがあるんです」
ローゼン「どうした。そんなに真剣な顔をして。何か深刻な悩みか?」
リオン「い、いえ、深刻というほどではないのですが……その……」
喉まで出かかった言葉が、そこで止まる。
もし反対されたらどうする。
もし父が認めなければ、俺とレーヴのあいだにあるものは、何も言えないまま終わってしまうのではないか。
そんな考えが胸をよぎった瞬間、急に言葉が出てこなくなった。
すると父が、どこか面白がるような、けれど穏やかな口調で言った。
ローゼン「もしかして、お前がよく一緒にいるあの娘のことか?」
リオン「し、知っていたのですか?」
ローゼン「ああ、もちろんだ。城のメイドたちも、お前たちの話をしょっちゅうしているぞ」
父はにこやかに笑った。
その笑い方には、からかうような軽さよりも、どこか安心したような温かさがあった。
ローゼン「私はな、お前に対して少し申し訳なく思っていたんだ」
リオン「な、何をですか?」
父は手にしたグラスをゆっくり傾け、中の赤い液体を揺らした。
ローゼン「王族に生まれるというのは、それだけで普通の民の何倍も険しい道を歩むということだ。選べるはずのものまで、最初から選べなくなることもある」
静かな声だった。
だがその言葉は、まるで胸の奥の柔らかいところをまっすぐ射抜いてくるようだった。
ローゼン「それを、自分の大切な息子に背負わせている。そのことを思うとな」
リオン「そんなこと……ないです」
そう口では言いながらも、心の奥がじくりと痛んだ。
自分の生まれを認められるようになったのは、つい最近のことだ。
それまでは王族であることを重荷としか思えず、自由に生きられない自分の立場を恨んでばかりいた。
だからこそ、父の言葉は強く胸に残った。
父はそんな俺の顔を見て、少しだけ目元を和らげた。
ローゼン「だからこそ、お前の将来の伴侶くらいは、せめてお前自身の心で選ばせてやりたいと思っていた」
リオン「……ほ、本当ですか?」
思わず身を乗り出していた。
自分でも驚くほど、声が弾んでいた。
ローゼン「ああ。本当だ」
その一言を聞いた途端、胸の奥で張り詰めていたものが一気にほどけていった。
自然と笑みがこぼれる。
レーヴに自分の気持ちを伝えられるかもしれない。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
そして同時に、気づかされる。
自分のなかで、レーヴがどれほど大きな存在になっていたのかを。
ただ一緒にいると楽しい相手ではない。
ただ気を使わずに笑える幼馴染でもない。
彼女がいる景色を、俺はもう当たり前のものとして手放したくないのだと、はっきり分かった。
父はそんな俺を見て、小さく笑った。
ローゼン「よほど大事な娘なのだな」
リオン「……はい」
今度は迷わず答えられた。
その返事に、父は満足そうに頷いた。
ローゼン「リオン、お前は知らないと思うが、あの娘は――」
父が何かを言いかけた、その時だった。
不意に扉が開き、広間の空気がわずかに張りつめる。
現れたのは、大臣のグランだった。
いつもと変わらぬ落ち着いた足取りで部屋へ入ってきたが、その表情にはかすかな緊張が浮かんでいる。
グラン「ローゼン様、お楽しみのところ失礼いたします」
深く一礼したあと、グランは低い声で続けた。
グラン「どうやらヴァルカシアの兵が、アルケイアの国境付近まで偵察に来ていたと、兵から報告を受けました」
その言葉を聞いた瞬間、父の目つきが変わった。
酒を酌み交わしていた時の穏やかな父ではない。
一国を預かる王の顔だった。
ローゼン「……そうか」
父は静かにグラスを置いた。
ローゼン「ヴァルカシアの奴ら、何かを嗅ぎつけたか」
グラン「その可能性は高いかと。やはり、明日の提案は危険すぎるのではありませんか。この国が巻き込まれてしまう恐れも――」
ローゼン「分かっている」
父は短く言って、椅子から立ち上がった。
その横顔には迷いもあったが、それ以上に決意の色が濃かった。
そして父は、俺の方を振り返る。
ローゼン「リオン、すまないな。どうやら、明日のことでグランと話さねばならんようだ。今日はここまでにしよう」
さっきまでの温かな時間が、そこで静かに終わった気がした。
リオン「……わかりました」
ヴァルカシア。
国境への偵察。
明日の会談。
酒の温かさが、胸の奥から急速に引いていく。
俺は父とグランに一礼すると、そのまま広間を後にした。
廊下へ出ると、夜の城はひどく静かだった。
けれどその静けさの下で、何かが音もなく動き始めているような気がした。
自室へ戻る足取りは、来た時よりも重かった。




