ECLIPES VEIN 1話
この世界には、「神脈石」と呼ばれる不思議な力を宿した四つの宝石が存在する。
炎、雷、風、水――それぞれの神脈石は、ヴァルカシア帝国、ライゼルク機政国、シルヴァレスト公国、ネレイディア海邦という四つの大国によって管理されていた。
四国は神脈石の力をインフラとして各地へ供給し、その莫大な利権によって圧倒的な繁栄を築き上げている。
一方で、神脈石を持たない国々とのあいだには、技術、富、軍事力、そのすべてにおいて埋めがたい差が生まれていた。
だが近年、その繁栄を支えてきた神脈石の力は、少しずつ衰え始めている。
世界が静かに綻びを見せるなか、神脈石を持たぬ中立国アルケイア王国の第一王子リオンは、やがてこの世界を支配する秩序そのものへ刃を向けることになる。
セイン「おい、起きろ」
朦朧とした意識の底に、聞き慣れた声が落ちてきた。
重いまぶたをこじ開ける。
視界は白く滲み、背中には固い地面の感触、口の中にはうっすらと鉄の味が残っていた。
――俺は、何をしていた?
途切れかけた記憶が、次の瞬間、一気につながる。
打ち込み。踏み込み。木刀の軌道。
そして、額に走った鈍い衝撃。
はっとして、俺は勢いよく上体を起こした。
リオン「兄貴……俺は……」
目の前には、木刀を肩に担いだ兄、セインが立っていた。
涼しい顔のまま、呆れたように俺を見下ろしている。
セイン「情けない奴だ。たった一発で気絶するとは。それでも次代の王たる者のつもりか」
リオン「返す言葉もないよ……」
後頭部の奥が、まだじんじんと痛んでいる。
何をされたのか、正確には覚えていない。ただ、気づいた時には地面に転がっていた。
セインは小さく鼻を鳴らすと、俺へ向かって手を差し出した。
セイン「ほら、つかまれ」
リオン「……ありがとう。やっぱり、兄貴にはかなわないよ」
差し伸べられた手をしっかりと掴み、俺はゆっくりと立ち上がる。
まだ足元は少しふらついていたが、兄の前でそれ以上みっともない姿を晒すのは嫌だった。
リオン「我ながら嫌になるよ。兄貴が次の王になってくれたらいいのに」
半分は冗談で、半分は本音だった。
兄、セインはこの国で誰よりも強い。
剣の腕は騎士団のなかでも並ぶ者がいない。
それだけではない。人間離れした身体能力に、常人では捉えきれないほど遠くまで見通す視力。走れば風のようで、踏み込めば地が鳴る。
ときどき本当に、同じ人間なのかと疑いたくなるほどだった。
だが、そんな兄は静かに首を振った。
セイン「何を言っている。俺は拾い子だ。王の血は引いていない」
兄セインは、父ローゼンによって拾われた子だった。
まだ赤子だった兄を、父はかつて国外遠征の折に連れ帰ったという。
けれど、王家の血を引かぬというその一点だけで、兄の価値が損なわれることはなかった。少なくとも、俺にとっては。
セインは一歩下がると、木刀を正面に構える。
その動きには一切の無駄がなく、陽光を受けた切っ先が真っ直ぐこちらを指した。
セイン「だが、騎士団長として、お前を一人前の剣士に育てる責務はある」
厳しい口調のはずなのに、その目の奥にはどこか熱があった。
突き放すようでいて、見捨てるつもりはまるでない。
そういう人だと、俺は知っていた。
リオン「お手柔らかにお願いします、騎士団長殿」
セイン「甘えるな。次は気絶で済むと思うなよ」
訓練場に乾いた風が吹き抜ける。
俺は木刀を握り直し、兄を見据えた。
そして今日もまた、兄との稽古が始まった。
稽古が始まってから、一時間。
その頃にはもう、俺は一方的に叩きのめされていた。
木刀を打ち合わせるたび、腕の骨まで痺れる。
受け流そうとしても、兄の一撃はあまりにも重く、まともに受ければそのまま身体ごと弾き飛ばされる。
やばい。
立て直さないと。
そう思った瞬間、セインの鋭い一閃が視界の端を裂いた。
リオン「速い……!」
木刀を握る手には、もう力が入らない。
さっきの一撃で体勢も崩され、腹に力を込めることすらできなかった。
受けることも、避けることもできない。
――もう、だめだ。
そう思った俺は、これから来る痛みから逃げるように、ぎゅっと目を閉じた。
セイン「……っ!」
短く、苦しげな声が聞こえた。
次いで、カラン、カランと乾いた音を立てて木刀が地面を転がっていく。
……あれ?
痛みが来ない。
おそるおそる目を開くと、目の前には頭を押さえ、その場に膝をつくセインの姿があった。
リオン「だ、大丈夫か、兄さん!」
慌てて駆け寄ると、セインは荒く息を吐きながら顔を上げた。
額にはうっすらと汗が滲み、いつもの余裕は消えている。
セイン「す、すまない……最近、痛むことが多いんだ。今日はここまでにしてもいいか?」
リオン「わ、わかった。ゆっくり休んでくれ」
心配と、稽古が終わることへのわずかな安堵を悟られないよう、俺はぐっと表情を作り直した。
セインは小さく頷くと、ふらつく足取りを隠すように背を向けた。
その後ろ姿は、いつもより少しだけ小さく見えた。
そのあと俺は汗を流して身体を清め、痛めた腕や肩に薬を塗ってから自室へ戻った。
あちこちがじんじんと痛む。
ベッドに身を沈めた途端、張りつめていた意識は急速に薄れていった。
よほど疲れていたのだろう。
気づけば俺は、そのまま意識を手放していた。
翌日、俺は城下町の噴水へ向かっていた。
今日は兄との稽古がない日だ。
俺にとっては、一週間ぶりの自由な時間だった。
兄の体調は相変わらず優れないようで、本当は気になって仕方がない。
けれど、今の俺が声をかけたところでできることなど何もない。
そう自分に言い聞かせ、半ば無理やり納得して、俺は噴水へと足を運んだ。
向かう理由は一つ。
会いたい相手がいたからだ。
レーヴ「おーい! 遅いぞー!」
もう先に着いていたらしい。
噴水の縁に腰掛けた少女が、大きく手を振っている。
リオン「悪い! 待たせた」
レーヴ「久しぶりに遊べる日なのに、今日も遅刻ですか。王子様は本当に偉いですねえ。これで三回連続ですよ」
彼女の名はレーヴ。
俺の幼馴染であり、王族の血を引く俺がただ一人、肩肘張らずに話せる相手。
そして、俺がずっと想いを寄せている相手でもあった。
レーヴ「ほら、ぼさっとしてないで。今日はあんたの剣を見に行くんでしょ?」
リオン「ああ、そうだったな。隣町のここの武器屋がいいと思うんだけど……」
俺は地図を取り出し、指で店の場所を示す。
レーヴは覗き込み、すぐに眉をひそめた。
レーヴ「そこ、質があんまり良くないって噂よ。行くならこっちの方がいいんじゃない?」
リオン「うそだろ? でも遠いぞ」
レーヴ「だから何よ。剣を選ぶんでしょ? 妥協したら意味ないじゃない」
そんなふうに言い合いながら、俺たちは武器屋を回り、ついでに薬屋や雑貨屋にも立ち寄った。
レーヴは真剣な顔で剣の重さを確かめ、柄の巻き方にまで口を出し、薬草の匂いに顔をしかめて笑った。
気づけば日は傾き、街は夕焼けに染まり始めていた。
レーヴ「今日は本当にありがと。楽しかった!」
そう言って、レーヴは満足げに笑う。
レーヴ「また時間が合ったら遊びましょ。行きたい場所があるの」
リオン「行きたい場所って?」
レーヴ「内緒。また今度!」
そう言って踵を返した彼女を見て、俺は思わず呼び止めた。
リオン「待ってくれ!」
レーヴが振り向く。
夕日に照らされたその顔があまりに綺麗で、一瞬、言葉を失った。
リオン「お前に言いたいことがあってさ」
レーヴ「言いたいこと?」
リオン「いや……その……」
喉まで出かかった言葉が、そこで止まる。
気持ちは伝えたい。
その想いは本物なのに、言葉にしようとした瞬間、胸のどこかが強く痛んだ。
王族である俺と、市民の彼女
同じ場所に立って笑っていても、本当は越えられない線があるのだと、どこかで分かっていたからだ。
リオン「……また今度!」
一瞬だけきょとんとしたあと、レーヴはふっと笑った。
レーヴ「うん。また今度」
そう言って彼女は手を振り、夕暮れの通りの向こうへ走っていった。
その背中を見送りながら、俺は今日という一日が、少しずつ遠ざかっていくような寂しさを覚えていた。
言えなかった想いだけが、夕焼けの中に取り残されたように胸に残っていた。
城へ戻ると、廊下で見かけたメイドに兄の容体を尋ねた。
だが返ってきたのは、思わしくない答えだった。
メイド「セイン様は、まだ酷くうなされておられます。熱も下がらず、お声をかけてもほとんどお返事がなくて……」
胸の奥が、わずかに沈む。
さっきまでレーヴと笑い合っていた時間が、急に遠いもののように感じられた。
俺は今日の買い物で手に入れた薬包を取り出し、メイドへ手渡す。
リオン「これ、町で評判の薬屋で買ってきたんだ。よく効くらしい。兄貴に使ってやってくれないか」
メイド「かしこまりました。お預かりいたします」
リオン「頼む」
頭を下げて去っていくメイドの背を見送り、俺は自室へ戻った。
扉を閉め、ベッドへ身体を投げ出す。
今日は思っていた以上にはしゃいでしまったらしい。
足も腕も心地よく疲れていて、まぶたまで重かった。
夕焼けに染まる街並み。
武器屋で真剣な顔をするレーヴ。
薬屋で鼻をしかめて笑う横顔。
そして、言いかけて結局飲み込んだ言葉。
今日のことを一つずつ思い返しているうちに、意識はゆっくりと薄れていった。
翌朝。
本来なら、早朝から兄との稽古があるはずだった。
だがセインはまだ寝込んでいる。
結局、その日も一人で鍛錬することになった。
朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、まずはいつも通り走り込みから始める。
城壁沿いを何周かしたところで、額に汗が滲み始めた。
けれど、一人でやる鍛錬はどこか味気ない。
兄の鋭い声もなければ、木刀のぶつかる音もない。
ただ自分の息遣いだけが、やけに大きく耳に残る。
少し考えた末、俺は城の外れにある兵士宿舎前の訓練場へ向かった。
そこはアルケイアの兵たちが普段使っている場所だ。
兄に稽古をつけてもらうようになってからは、ほとんど足を運ばなくなっていた。
こうして訪れるのは何年ぶりだろう。
朝の訓練を始めていた兵士たちが、こちらに気づいてざわめく。
ハイク「おお! リオン様じゃないですか!」
ひときわ大きな声を上げたのは、日に焼けた若い兵士だった。
勢いよくこちらへ駆け寄ってくる。
ハイク「覚えてますか? 俺です、ハイクです!」
リオン「もちろん覚えてるよ。最後に会ったのは……一年ぶりくらいかな?」
ハイク「いやあ、覚えていてもらえて光栄です!」
ハイクは人懐っこい笑みを浮かべたまま、まるで自分のことのように嬉しそうだった。
ハイク「今日はどうされたんです? いつもはセイン様と一緒でしょう?」
リオン「兄貴が体調を崩してるだろう? だから今日は、こっちで稽古しようと思ってさ」
ハイク「なるほど! リオン様と一緒に稽古できるなんてみんな喜びますよ! すぐ呼んできます!」
そう言うなり、ハイクは宿舎の方へ勢いよく駆け出していった。
その後ろ姿を見ながら、俺は思わず苦笑する。
リオン「……賑やかな人だなぁ」
けれど、その騒がしさは不思議と嫌ではなかった。
静かだった胸の中に、少しだけ温かいものが戻ってくる気がした。
やがて宿舎の方から、何人もの足音と話し声が近づいてくる。
その音を聞きながら、俺は木刀を手に取った。
兄がいなくても、立ち止まるわけにはいかない。
そう、静かに息を吐いた。
気がつけば、日はすっかり傾いていた。
訓練場を照らしていた西日も薄れ、空には夜の気配がじわじわと広がり始めている。
その日の稽古は、そこで切り上げになった。
そろそろ城へ戻れば、夕食の時間だろう。
そう思って訓練場を後にしようとしたところで、背後から慌てたような声が飛んできた。
ハイク「リオン様! よければ、このあと俺たちと一緒に飯でもどうですか!」
振り向くと、ハイクが少し照れくさそうに頭をかいていた。
その後ろでは、何人かの兵たちが期待するような目でこちらを見ている。
思わず笑みがこぼれた。
リオン「いいのか?」
ハイク「もちろんです! むしろ、来ていただけたらみんな喜びます!」
そこまで言われて断る理由もなかった。
俺は軽く頷き、そのまま兵士たちの食堂へ向かうことになった。
兵舎の食堂は、城の食卓とはまるで違っていた。
長机がいくつも並び、そこに大皿の料理と湯気の立つスープが豪快に置かれている。
焼いた肉の匂い、麦酒の泡、笑い声、木椀のぶつかる音。
決して上等な食事ではない。けれど、そこには妙に温かい活気があった。
ハイク「いやー、まさか飯まで一緒に食べてくれるなんて。ありがとうございます!」
リオン「こちらこそ、すごく嬉しいよ。もしよければ、明日も一緒に稽古してもいいかな?」
ハイク「もちろんですよ!」
ハイクは勢いよく立ち上がると、食堂中に聞こえる声で叫んだ。
ハイク「みんな!! リオン様が明日も来てくれるぞ!!」
その瞬間、食堂が一気に沸いた。
兵士A「本当か!?」
兵士B「明日は絶対遅れるなよ、ハイク!」
兵士C「おい、今日は酒を控えろ!」
兵士D「いや、むしろ今夜は祝うべきだろ!」
そんな声があちこちから飛び交い、空気はまるで小さな宴のように賑やかになる。
その様子を見て、俺は思わず笑った。
リオン「……こんなに楽しい食事、久しぶりだな」
気づけば、自然と口からこぼれていた。
すると、向かいの席に座っていた若い兵士が、ぱっと顔を上げた。
レオ「お、俺! レオっていいます! よろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げてきたその兵士は、周りの中でも一段と若く見えた。
日に焼けた顔立ちにはまだ幼さが残っていて、鎧もどこか着慣れていない。
リオン「よろしく、レオ。若いな。いくつなんだ?」
レオ「十六です!」
思っていた通り、まだかなり若い。
俺がそう思っていると、レオは真っ直ぐな目で俺を見た。
レオ「俺、リオン様とセイン様の力になりたくて、この騎士団に入ったんです!」
その言葉に、少しだけ驚く。
リオン「俺と……兄貴の?」
レオ「はい! セイン様はめちゃくちゃ強いし、リオン様も優しいって有名ですから! 俺、いつか絶対、アルケイアを支える騎士になりたいんです!」
まっすぐすぎる言葉だった。
飾りも計算もなく、ただ本気でそう信じている目だった。
その無垢さに、俺は一瞬だけ言葉を失った。
リオン「……そっか」
短くそう返しながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
俺は今まで、兄のように強くはなれないと思っていた。
父のように国を導く器もないと思っていた。
けれど、こうして誰かが自分を見てくれているのだとしたら――。
ハイク「こいつ、ほんとにずっとそのことばっか言ってるんですよ。『セイン様みたいになりたい』『リオン様に会ってみたい』って」
レオ「ちょ、ちょっとハイクさん! 言わないでくださいよ!」
食堂にまた笑いが広がる。
俺もつられて笑った。
けれど、笑いながら心のどこかで、妙に静かな重みも感じていた。
誰かに憧れられること。
誰かの明日を背負うこと。
それは、思っていたよりずっと重い。
それでも今は、その重さが少しだけ嬉しかった。
しばらくして、ハイクが木椀を両手で持ったまま、少し頬を赤くして笑った。
ハイク「俺、来月結婚するんです」
その言葉に、食卓のあちこちから口笛や囃し立てる声が上がる。
兵士A「またその話か!」
兵士B「何回言う気だ、お前は!」
兵士C「めでたいんだから何回でもいいだろ!」
そんな野次にまみれながらも、ハイクはどこか誇らしげだった。
リオン「それはめでたいな。相手はどんな人なんだ?」
ハイク「や、やめてくださいよ。そういうのは照れくさいんで……」
そう言いながらも、口元は緩みっぱなしだ。
本気で幸せなのだろう。それが見ているだけで分かった。
だが、ふっとその表情が落ち着きを取り戻す。
ハイクは一度だけ杯を置き、まっすぐ俺を見た。
ハイク「……でも、本当に言いたいのはですね。俺たちは、この国が好きだってことです」
食堂の空気が、ほんの少しだけ静まった。
ハイク「来月には俺に家族ができます。子どもが生まれて、そいつが大きくなっていっても……この国には、ずっと平和でいてほしいんです」
その声は、さっきまでの軽さが嘘みたいに真っ直ぐだった。
ハイク「だから俺も、もっと頑張らないとって思うし……リオン様、この国をお願いしますよ」
その言葉は、酒の勢いだけで出てきたものじゃなかった。
兵士として、これから夫として父として生きていく一人の男の、本気の願いだった。
俺は思わず背筋を伸ばした。
リオン「ああ、任せてくれ。……でも、俺が王になれるのはまだずっと先だ」
それでも、言葉を止めたくはなかった。
リオン「だけど、その時が来たら……みんなを導けるように、ちゃんと立派になってみせるよ」
ハイクはその言葉を聞くと、ぐしゃりと顔を歪めた。
ハイク「ほんとうに……俺……俺……この国でよかったです……」
言い終わる前に、ぽろぽろと涙をこぼし始める。
リオン「お、おい、大丈夫か?」
周囲の兵士たちが一斉に笑い出した。
兵士A「ハイクのやつ、泣き出しやがったぞ!」
兵士B「酔いすぎだ、酔いすぎ!」
兵士C「王子様を困らせるなー!」
兵士D「お前、来月結婚する前に泣き虫卒業しとけよ!」
笑い声が重なり、さっきまでのしんみりした空気が一気に崩れる。
ハイクは涙をぬぐいながら、「うるさい!」と顔を真っ赤にしていた。
その光景を見ながら、俺は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
父上が守ってきた国。
兄が剣を振るって支えてきた国。
そして、こうして誰かが家族を持ち、未来を願える国。
――こんなにも、素晴らしい国だったのか。
子どもの頃から当たり前のように見てきた景色なのに、今はまるで違って見えた。
同時に、その国をいつか自分が率いるのだという現実も、ずしりと胸にのしかかってくる。
重い。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
しばらく黙っていた俺は、やがて杯を置き、皆へ向き直った。
リオン「……なあ。俺の相談も聞いてくれないか?」
自然と、食堂の空気が静まる。
兵士たちがこちらを見る。
俺は自分でも驚くほど真剣な声で、そう切り出していた。
リオン「実は俺、好きな子がいてさ。そいつが俺のことをどう思ってるのか、よく分からないんだ。嫌われてはいないと思うんだが……経験があるハイクさんなら、何か分かるかと思って」
そう言った瞬間、食堂の空気がわずかにざわめいた。
さっきまで笑っていた兵士たちが、揃ってこちらに顔を向けてくる。
ハイクは一度目を丸くしたあと、にやりと口元を緩めた。
ハイク「その子って、よく街で一緒にいる子ですか?」
リオン「し、知ってたのか!?」
ハイク「ええ。俺たちが稽古してる間、楽しそうに歩いてるのをたまに見かけますから。というか、この街の人間なら大体知ってると思いますよ。リオン様、街にいるとすごく目立つんです」
ハイクは悪びれもなく、無邪気に笑った。
周りの兵士たちも、面白そうに肩を揺らしている。
兵士A「そりゃそうだろ。王子様が幼馴染と買い物してたら目立つに決まってる」
兵士B「しかも相手があの子なら、なおさらな」
リオン「す、すまない……今度から気をつけるようにするよ」
ハイク「いや、そのままでいいですよ。あれ、俺たちの日常の楽しみになってますから」
食堂にまた笑いが広がる。
顔が熱くなるのを感じながら、俺は思わず視線を逸らした。
ハイクは少しだけ真面目な顔になり、腕を組んだ。
ハイク「うーん……俺の経験豊富な目から推察するとですね」
わざとらしく咳払いをする。
周囲の兵士たちが「出たぞ」「始まった」と囃し立てる中、ハイクはもったいぶるように頷いた。
ハイク「両想いだと思いますよ」
リオン「……ほんとか?」
ハイク「ええ。あの顔は、好きな相手にしかしない顔です。俺はそう確信できます」
その言葉は妙にまっすぐで、ふざけているようでいて、思いのほか胸の奥に深く落ちた。
リオン「……そうか」
そう呟きながらも、すぐに喜びきれない自分がいた。
リオン「でも、彼女は王族じゃないんだ。父上に何と言われるか……」
その瞬間だけ、さっきまでの賑やかな空気が少し静まる。
兵士たちも、茶化さずに俺の次の言葉を待っていた。
ハイク「一度、ちゃんと相談してみればいいんじゃないですか?」
リオン「相談……」
ハイク「はい。ローゼン様は温厚なお方です。きっと、頭ごなしに否定するような方じゃない。話せば、意外と納得してくださるかもしれませんよ」
その言葉に、俺は少しだけ目を伏せた。
父上に話す。
それは簡単なようでいて、どこか怖かった。
けれど、ここまで来て何も言わないままなのは、それこそ卑怯な気がした。
リオン「……そうか。今度、一度ちゃんと相談してみるよ」
ハイク「それがいいですよ」
リオン「話を聞いてくれてありがとな。もしよかったら、またみんなで食事をしてもいいかな?」
ハイク「喜んで! 俺らも、リオン様とこうして話せてすごく楽しかったです!」
レオ「また絶対来てください!」
兵士A「今度はもっと早く来てくれよ!」
兵士B「王子様相手にそんなこと言うな!」
兵士C「いや、でも本音だな!」
ハイクは最後に、いつになく真面目な顔で俺を見た。
ハイク「……この国を、これからもお願いしますよ」
俺は静かに頷いた。
リオン「ああ」
ひとしきり食事を終えたあと、俺は兵舎を後にした。
外へ出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。
さっきまでの賑やかな笑い声が、まだ耳の奥に残っている。
兵士たち一人一人に、それぞれの夢があった。
来月結婚するハイク。
憧れだけを胸に騎士団へ入ったレオ。
あの食堂にいた誰もが、自分の明日を信じていた。
そして、その明日を守る側に、俺は立たなければならない。
兵舎は丘の上にある。
振り返れば、城下町の灯りが一望できた。
夜の街に散る無数の灯。
家々の窓からこぼれるそれは、ただの明かりではないように思えた。
あの一つ一つに、誰かの暮らしがあり、願いがあり、夢がある。
みんなの想いを背負う資格が、俺にあるのだろうか。
俺は兄のように、立派になれるのだろうか。
今はまだ、程遠い。
自分でもそれはよく分かっている。
けれど、だからこそだ。
明日からの一日一日を、ちゃんと生きなければならない。
逃げずに、目を逸らさずに、少しずつでも前へ進まなければならない。
王族として生まれたことを、俺はずっとどこかで重荷に感じていた。
自由に生きられないことを、運命のように押しつけられている気がしていた。
だが今は、その重みの先にあるものを、ほんの少しだけ見られた気がする。
誰かの未来を守れるなら。
誰かがこの国でよかったと泣けるのなら。
そのために背負うものがあるのなら、きっとそれは、ただ苦しいだけの運命じゃない。
兄は、兵舎に来た使いの話によれば、どうやら体調を持ち直したらしい。
明日から、また兄との稽古が始まる。
リオン「よし……頑張るか」
小さくそう呟き、俺は気合いを入れるように両手を握った。
夜の冷たい空気を吸い込みながら、俺は城への帰路についた。
翌日。
まだ朝の冷気が土の匂いを残しているうちから、俺と兄はいつもの訓練場に立っていた。
昨日、兵舎で兵士たちと過ごした時間の熱が、まだ胸の奥に残っている。
そのせいか、木刀を握る手にも、これまでとは少し違う力が入っていた。
リオン「兄貴、体調はもう大丈夫なのか?」
木刀を肩に担いで立つ兄にそう尋ねると、セインはわずかに目を細めた。
セイン「迷惑をかけてすまなかった。それより、兵舎の方へ行ったと聞いたが……何かあったのか?」
リオン「一人で稽古するのが、なんだか物足りなくてさ。それで兵舎に行ってみたんだ」
セイン「そうか。あいつらに何かされなかったか。お前は昔から、ああいう騒がしい場所は苦手だったろう」
リオン「楽しかったよ。みんなから、すごくいい刺激をもらえた。……だから、今日もよろしくお願いします、騎士団長殿」
俺が少しだけ胸を張ってそう言うと、兄はふっと口元を緩めた。
セイン「そうか。それはよかった。なら今日も、遠慮なく鍛えてやる」
その声には、いつもの厳しさがあった。
けれど同時に、どこか安堵したような響きも混じっている気がした。
兄との稽古は、その日も三時間近く続いた。
打ち込み、受け流し、踏み込み、崩し。
何度も何度も弾き飛ばされ、何度も立ち上がる。
それでも不思議と、いつもより身体は軽かった。
昨日、兵士たちの言葉を聞いたからかもしれない。
自分が誰のために強くなりたいのか、ほんの少しだけ見えた気がしていた。
とはいえ、やはり兄は強い。
途中までは喰らいついていけたつもりでも、最後の方は打たれ続けた記憶しかなかった。
気づけば息は上がり、腕は痺れ、膝も笑っている。
休憩に入るころには、俺は汗で全身びしょ濡れになっていた。
訓練場の脇を流れる浅い川へ入り、俺たちは火照った身体を冷やしていた。
澄んだ水がすねを流れ、熱を持った皮膚から、じわじわと疲れが抜けていく。
セイン「今日は動きが良かったぞ。余程、良い刺激をもらえたんだな」
川から上がったばかりの俺に、兄が布を差し出してくる。
俺はそれを受け取り、濡れた髪を乱暴に拭いながら笑った。
リオン「みんなと話してさ。クヨクヨしてても仕方ないなって思ったんだ」
セイン「……ほう」
リオン「この国の人たちを束ねる者として、みんなの夢を背負える人にならないといけないって。昨日は、そんなことを考えてた」
兄は何も言わず、静かにこちらを見ていた。
その視線に急かされるように、俺は続ける。
リオン「兄貴は、騎士団長としてたくさんの人の想いを背負ってると思う。俺にとって兄貴は、ずっと憧れの人だよ。本当に誇らしく思ってる。……どうすれば俺は、兄貴みたいになれるのかな」
その問いに、兄はすぐには答えなかった。
川辺の木に背を預け、少しだけ空を見上げてから、ようやく口を開く。
セイン「俺は、お前と違って王族の人間じゃない。だからこそ、弟であるお前を支えるために生きてきた」
その声は静かで、けれどいつもよりずっと深かった。
セイン「お前が立派な王になれるように。お前が率いるに相応しい騎士団を作れるように。俺は、それだけを思って生きてきた」
俺は思わず、布を握る手に力を込める。
セイン「お前が思うほど、俺は立派な人間じゃないよ。外から来た俺には、それしか生きる意味がなかっただけだ」
兄はそこで一度、薄く笑った。
だがそれはいつもの余裕のある笑みではなく、どこか自分を突き放すような、寂しい笑いだった。
セイン「この力だって、生まれ持ったものだ。努力して得たものじゃない。……もちろん、努力はしてきたつもりだ。だがな」
兄の目が、ほんのわずかに伏せられる。
セイン「俺は、ときどきこの力が怖くなる。俺は本当にここにいていいのだろうか、と。この国で、この城で、家族のそばにいていい人間なのかと……な」
その言葉は、予想もしなかったものだった。
俺にとって兄は、いつだって揺るがない人だった。
迷いも弱さも見せず、ただ前に立って導く人。
そんな兄が、今こうして自分の中の恐れを口にしている。
セイン「……すまない。こんな話をしてしまって。今の話は忘れてくれ」
自嘲するように、兄は小さく笑った。
だが俺には、その笑いがどうしようもなく痛々しく見えた。
セイン「結局、俺もみんなと同じなんだ。自分がどこから来たのかも分からない。どこへ行くべきかも、はっきりとは分からない」
兄はそこで一度、遠くに見える城下町へ視線を向けた。
川面の向こうには、今日も静かに街が広がっている。
昼の光を浴びた屋根、行き交う人影、遠くで揺れる旗。
俺たちが生きてきた、アルケイアの景色だ。
セイン「だからこそ、俺は自分が育ったこの街が、いつまでも続いてほしいと思う。……リオン、この国を頼むぞ」
その言葉は、不思議なほど真っ直ぐ胸に落ちた。
リオン「ありがとう、兄貴。兄貴の想いに、ちゃんと応えてみせるよ」
兄のように強くなりたい。
兄に認められたい。
そんな想いはずっとあった。
けれど今は、それだけじゃない。
兄が守ろうとしてきたものを、自分も守りたいと、心から思えた。
兄が、自分の弱さを話してくれたこと。
その本心を、俺にだけ聞かせてくれたこと。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
セイン「……そうか」
兄はそれだけ言って、わずかに目を細めた。
その時だった。
セイン「っ……!」
兄の表情が、突然歪む。
次の瞬間、セインは頭を押さえてその場によろめいた。
リオン「兄貴!?」
慌てて駆け寄る。
兄は何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
苦しげに息を詰まらせ、そのまま膝から崩れ落ちる。
リオン「おい、しっかりしろ! 兄貴!」
肩を支えると、兄の身体は驚くほど熱かった。
額には冷や汗が浮かび、呼吸も浅い。
セイン「……すま……な……」
かすれた声を最後に、兄の意識はふっと途切れた。
リオン「兄貴! 兄貴!!」
何度呼んでも返事はない。
さっきまでそこにいたはずの、あの強い兄が、今はまるで壊れてしまいそうに見えた。
胸の奥が嫌な音を立てる。
不安が、一気に全身を駆け上がっていく。
リオン「くそっ……!」
俺は兄の腕を肩に回し、なんとかその身体を背負い上げた。
重い。けれど、今はそんなことを言っている場合じゃない。
川辺の石を蹴り、足をもつれさせそうになりながらも、俺は必死で城へ向かった。
背中に伝わる兄の熱が、妙に怖かった。
どうか、大丈夫でいてくれ。
どうか、兄貴だけは――。
祈るような気持ちで、俺は城への道を駆けた。
兄をメイドたちに預けたあと、俺はひとり自室へ戻った。
本当なら、少しでも身体を休めるべきなのだろう。
兄を背負って城まで運んだせいで、肩も背もじんわりと重い。
けれど、どうしても眠る気にはなれなかった。
兄のことが気がかりで、頭だけが妙に冴えている。
俺は鎧を外し、ベッドへ身を横たえた。
けれど目を閉じても落ち着かず、結局はそのまま天井をじっと見つめる。
白い天蓋の布。
窓から差し込む午後の淡い光。
遠くで鳴く鳥の声。
部屋の中は静かなのに、心の奥だけが落ち着かなかった。
さっきまで、あんなふうに話していた兄が、今は意識を失って寝台に横たわっている。
あの強い兄が。
俺にとって、ずっと揺るがないものだった人が。
リオン「……何なんだよ、いったい」
誰に向けるでもなく、思わず小さく声がこぼれた。
兄の苦しそうな顔が、何度も頭に浮かぶ。
あの痛みは、ただの疲れや熱とは思えなかった。
だが今の俺には、心配することしかできない。
無力さが、じわじわと胸の奥に広がっていく。
その時だった。
遠くから、ざわめきのような音が聞こえてきた。
廊下を行き交う足音。
扉の向こうで重なる声。
普段よりも、城の空気がわずかに騒がしい。
俺はゆっくりと身を起こした。
――そうだ。
今日は、父上が戻られる日だった。
最近は兄との稽古に熱中するあまり、すっかり頭から抜け落ちていた。
父、ローゼン王は数日前から、隣国ネレイディア海邦へ赴いていたのだ。
神脈石の力が弱まりつつあるという報せ。
それを受けての遠征だったと聞いている。
表向きは視察と会談。
だが実際には、それ以上に重い話し合いだったのだろう。
リオン「……あとで顔を出してみるか」
ぽつりと呟き、俺はベッドから足を下ろした。
父上が帰還したばかりのところへ行くのは、少し気が引ける。
それでも、顔くらいは見ておきたかった。
兄のこともある。
それに、兵舎で皆と話してからというもの、父にちゃんと向き合わなければならない気がしていた。
レーヴのこと。
この国のこと。
そして、自分がこれからどうありたいのかということ。
まだ言葉にはできていない。
けれど、胸の奥で何かが少しずつ形になり始めているのを感じていた。
俺は立ち上がり、水差しの水で顔を洗った。
冷たい感触が、火照った思考を少しだけ静めてくれる。
乱れた髪を整え、服の皺を伸ばし、王子として人前に出ても恥ずかしくないよう身支度を整える。
鏡の前に立つと、そこには少しだけ疲れた顔の自分が映っていた。
まだ、兄のようにはなれない。
父上のようにもなれない。
それでも、逃げてばかりではいられないのだと思う。
俺は小さく息を吐き、扉へ向かった。
廊下へ出ると、城の空気はいつもよりわずかに浮き立っていた。
使用人たちが忙しなく行き交い、衛兵たちの声にもどこか張りがある。
王の帰還――それだけで、城そのものが息を吹き返したように見えた。
けれど、俺の胸の中は晴れなかった。
背中に残る兄の熱。
腕の中で意識を失ったあの重さ。
ついさっきまで兄を寝台に運んでいたはずなのに、今こうして別の用事で歩いていること自体が、どこか現実味を失わせる。
それでも父上の顔は見ておきたかった。
兄のこともある。
それに、兵舎で皆と話してからというもの、父にちゃんと向き合わなければならない気がしていた。
レーヴのこと。
この国のこと。
そして、自分がこれからどうありたいのかということ。
まだ言葉にはなっていない。
けれど、胸の奥で何かが少しずつ輪郭を持ち始めていた。
広間の前まで来ると、重い扉の前に控えていた衛兵が静かにそれを開いた。
中へ足を踏み入れた瞬間、まず目に入ったのは父――ローゼン王の姿だった。
長旅の疲れはさすがに隠しきれていない。
それでも背筋は真っ直ぐ伸び、玉座の前に立つだけで空気が締まる。
王というものは、こういう人のことを言うのだろうと、改めて思う。
周囲には側近や侍従たちが控え、遠征から戻ったばかりの父へ報告や確認が相次いでいた。
広間には活気があったが、同時にそれは、何か大きなものが動き出している時のざわめきにも聞こえた。
俺は父の前まで歩み寄り、深く頭を下げた。
リオン「父上、お疲れ様です」
ローゼン「おお、リオンか」
父は俺の顔を見ると、わずかに表情を和らげた。
だがその目はすぐ、俺の背後を探るように動く。
ローゼン「セインの姿が見えないが……兵舎の方か?」
その問いに、俺は胸の奥がわずかに沈むのを感じた。
リオン「いえ……それが、父上――」
俺は兄の容態について、できる限り落ち着いて説明した。
朝の稽古。
川辺での話。
突然の発作。
そして、そのまま意識を失ったこと。
話しているうちに、さっきまで必死に押し込めていた不安が、言葉の端々から滲んでしまっているのが自分でも分かった。
父は途中で口を挟まず、最後まで黙って聞いていた。
やがて静かに息を吐く。
ローゼン「……それは心配だな」
短い言葉だった。
だが、父が本気で兄を案じていることは、その一言だけで十分に伝わってきた。
ローゼン「実は、ネレイディアから薬をいくつか仕入れてきていてな。向こうの浄薬はよく効くと評判だ。あとでこれを、セインのところへ持って行ってやってくれないか」
父が侍従に目配せすると、小さな薬包が恭しく差し出された。
俺はそれを両手で受け取る。
リオン「わかりました」
薬包は思っていたより軽かった。
けれど、その軽さがかえって頼りなく感じられて、胸の奥が妙にざわついた。
少し迷ってから、俺はもう一度父を見た。
今の俺は、あまりにも何も知らない。
神脈石が弱まりつつあること。
そのことで父が何を見て、何を話し合い、何を持ち帰ったのか。
そして、レーヴのことも、今のうちに話しておきたかった。
リオン「……あと、父上。少し、お話があるのですが」
父は一瞬だけ目を細めた。
その表情には驚きよりも、むしろ興味に近いものがあった。
ローゼン「そうか。珍しいな」
それは王としてではなく、父としての声だった。
ローゼン「いいだろう。今は少し立て込んでいるが、食後であれば時間を取れる。その時に聞こう」
リオン「ありがとうございます」
ローゼン「お前の方から話があるとはな。なかなか楽しみにしておこう」
父がそう言ってわずかに笑った、その時だった。
広間の扉が、静かに開いた。
振り向いた先に立っていたのは、セインだった。
リオン「兄貴……?」
朝、あれほど苦しんでいたはずの兄が、何事もなかったかのようにそこにいる。
顔色も、所作も、乱れてはいない。
兄はそのまま広間の中央まで歩み出ると、いつも通りの動きで膝をついた。
ローゼン「セイン。もう動いて大丈夫なのか?」
セイン「ご心配をおかけしました。少し疲れが出ただけです。もう問題ありません」
ローゼン「そうか。無理はするなよ」
セイン「承知しております。父上こそ、長旅お疲れ様でした」
兄は静かに頭を垂れた。
その姿に、広間にいた者たちもほっとしたように息をつく。
セインがゆっくりと顔を上げる。
その視線が一瞬だけ俺に向いた。
セイン「リオン。先ほどは世話をかけたようだな」
リオン「……いや。体調が戻ったなら、それでいいよ」
セイン「そうか」
兄はそれ以上何も言わず、静かに立ち上がる。
広間には再び、人の動く音と報告の声が戻っていった。
王の帰還。
兄の回復。
本来なら、それで十分なはずだった。
それでも俺は、父と兄の姿を見つめたまま、しばらく動けなかった。
だが、次の瞬間。
セイン「ネレイディアでの会談のお話は、すでに伺いました。本当に、そのようなことをなさるおつもりですか?」
兄の声は落ち着いていた。
だが、その静けさの奥には、抑え込まれた強い感情が潜んでいた。
父は兄をまっすぐ見返す。
ローゼン「……大臣あたりから聞いたか。ああ、お前が聞いた話で間違いない」
その返答を聞いた瞬間、兄の表情がわずかに硬くなった。
セイン「なぜ、そのようなことをするのです」
一歩、兄が前へ出る。
セイン「民を危険に晒すようなことを!」
その怒号が、広間いっぱいに響き渡った。
空気が凍る。
侍従も側近も、皆はっとしたように口をつぐんだ。
さっきまで聞こえていた人の気配すら、今はどこか遠くへ消えたようだった。
静寂が、広間を支配する。
父はその沈黙の中で、少しも声を荒げずに口を開いた。
ローゼン「……そうだな。確かに、お前のように考える者もいるだろう」
兄の怒りとは対照的に、父の声はどこまでも静かだった。
だがその静けさには、揺るがぬ意志があった。
ローゼン「だが、このままではいずれ、この大陸で戦乱が起こる。そしてその時、この国が巻き込まれるのも時間の問題だ」
父はゆっくりと言葉を重ねる。
ローゼン「だからこそ、私たちはそうなる前に手を打たねばならん。たとえそれが、危険な道だとしてもだ」
兄の目が鋭く細められた。
セイン「……あなたは、人間を信用しすぎだ」
その言葉は低く、冷たかった。
セイン「欲に塗れた、この大陸の主要国家の人間を――本気で信じられるというのですか?」
父は一瞬も迷わなかった。
ローゼン「信じる」
短いその一言が、かえって重く響く。
セイン「あなたは、この国を自ら危険に晒そうとしている! 少なくとも、私は納得できません!」
それだけ言うと、兄は踵を返した。
そのまま広間を後にする背中は、いつもの兄のものだった。
だが、去り際に一瞬だけこちらへ向けられた視線だけは、今まで見たことがないほど冷たかった。
扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
しばらくの間、誰も何も言わなかった。
やがて父が、わずかに息を吐く。
ローゼン「……すまない、リオン。見苦しいところを見せてしまったな」
そう言った父は、少しだけばつの悪そうに笑った。
だが俺は、その顔を見ながらも、すぐには何も返せなかった。
兄があんなふうに感情を露わにするところなど、初めて見た。
それだけ、父の考えが兄の中の何かと相容れなかったのだろう。
だが、それ以上に俺の胸に引っかかっていたのは、最後に兄が向けたあの視線だった。
あれは怒りだったのか。
失望だったのか。
それとも、もっと別の、言葉にできない何かだったのか。
胸の奥に、嫌なざわめきが広がる。
この大陸で、何か恐ろしいことが起ころうとしている。
理由は説明できない。
けれど、そう感じずにはいられなかった。
気づけば俺は、父へ向かって口を開いていた。
リオン「父上」
父が静かにこちらを見る。
リオン「この大陸で、何が起ころうとしているのか……俺に教えてください




