シエラとエリオス
シエラは、活けたばかりの花を飾り棚の上に置いて、そっと溜息を漏らした。
今日エリオスが持ってきてくれたのは、青々とした葉を残したままの、ムクゲの花だった。
薄い白の花弁に広がる赤い筋が鮮やかで、夏の気配が濃厚に感じられる。
シエラが、侍女に任せず、自分で花を飾るのが好きだと知ってから、エリオスは一層まめに、花を贈ってくれるようになった。
それも、街中の花屋の切花ではなく、今日のように季節の花や実をつけた枝であったり、野花だったりと、贈り物には適さない様な、けれど折々の季節が感じられる花なのだった。
それらの花を、シエラはかつての婚約者から贈られた時と同じように、手ずから屋敷に飾っていく。
母のいないこの屋敷で、そういったことには無頓着な父と弟とに挟まれて、それらは自然とシエラの采配に委ねられていた。
けれど、とシエラは独りごちる。
(侍女に任せず自分で……なんてやっぱり、はしたないかしら)
最初に、シエラが花を活けるのが好きだと伝えた時の、エリオスの様子を思い出す。
この国の第四王子である彼にとって、彼の暮らす王宮では、そういった仕事は全て、使用人が担うのが当たり前の生活であるに違いない。
勿論、決して裕福とは言い難いオルコット子爵家であっても、それくらいの仕事を任せる使用人はちゃんといてくれる。
だから単に、花を活けるのはシエラが望んでそうしているのだが、おそらく、高位貴族の夫人たちは、手ずから茎を切り、水を揚げたりなんてことは、決してしやしないだろう。
自分のそんな振る舞いが、子爵位であることの証左のような気がして……シエラは、最近少し、気後れしている自分を感じるのだった。
(以前はそんなこと、気にならなかったのに)
白い花弁の縁をそっと指で辿る。
薄い花弁をいっぱいに広げている花は、今日の夜には儚く萎んでしまうだろう。
美しい花を前にしていてもどこか晴れないこの重苦しさを、シエラはなんとなく、持て余しているのだった。
結婚まであと半年足らず。
シエラにとって二度目の婚約は、順調すぎるほど順調に進んでいた。
それらは頓に、新しい婚約者であるエリオスのお陰だということは、シエラにも勿論、周囲にも自明のことだった。
学院での優秀さをそのままに、子爵家への降嫁、という些かセンセーショナルな自身の婚約に対する周囲への手回しは抜かりなく、そのお陰で、オルコット家への嫌がらせややっかみは、今日までシエラの耳には聞こえてきていない。
そして婚約者として接するエリオス自身も、常に紳士的で、申し分のないものだった。
王族であることも、優秀であることをひけらかすこともなく、あくまでも婿に入る者として、子爵位を継ぐシエラを立ててくれる。
それは、今日のこのムクゲの花からも分かるのだ。
ただ通り一遍の婚約者に贈る花ではなく、そこに彼自身の意思や、シエラへの気配りがちゃんと感じられて。
(私には本当に、勿体無いくらい)
ワゴンの上で揺れる茶器を見ながら、シエラは思う。
家族向けの居間には、この花を携えてきたエリオスと、学院が休みのキールがいるはずだった。
今日はこの後、シエラも当主教育を一休みして、領地から届けられたばかりのプラムを使って、タルトでも焼こうかと思っている。
こうして訪ねてくるエリオスを、狭いながらも客用に設られた応接間ではなく、家族用の居間に通すようになったのはいつからだったろう。
エリオスから、料理人ではなく、シエラが作った菓子を所望されて、そして食べてもらった日のことは、まだ記憶に新しい。
金色の髪の美しい、シエラのよく出来た婚約者。
まだ湯気の立ち上る素朴なビスケットを、珍しそうに、けれど嬉しそうに食べてくれていた彼。
そんな彼が待っていると思うと、なんの変哲もない居間に続く廊下が、何故か。
もう少し、続いて欲しいと願ってしまうのだった。
「最近少し、シエラの元気がない気がしてね」
扉の内側から聞こえてきた声に、思わず、シエラはノックをしようと上げていた手を止めた。
壁の薄さの割に重厚なオークの扉は、オルコット家では数少ない自慢の逸品だった。
ワゴンの音は、絨毯とこの扉に隔てられて、室内には聞こえていなかったらしい。
「どうにも私に、気を遣ってくれている様子でね。何か思い悩んでいるのではないかと思うのだけれど」
ワゴンを押す侍女に目配せをして、シエラは僅かに逡巡する。
立ち聞きなど、淑女としてはしたないことこの上ないが、どうやら入室のタイミングを完全に逸してしまったようだった。
「先日の夜会に、緊張していただけではないですか?婚約者としては初めての披露目でしたし」
キールの声は、エリオスよりも少し高くてよく通る。
小さい頃は、姉弟でよく似ていると言われた声も、キールの声変わりがあってからは、そう言われることも無くなってしまった。
先日、初めて婚約者として参加した王宮主催の夜会は、確かに、シエラにとって緊張するものだった。
それこそ、初めて王宮を訪れた、デビュタントの時よりもよほど。
そんな自分が、シエラ自身にとっても予想外だった。
何故こんなにも緊張しているのか、自分でも分からないまま、王宮の控えの間で、シエラは入場の時を待っていた。
気付けば、両手も僅かに震えてきている。
かつて何度か参加している公式の夜会でも、こんな風になったことはなかった。
『シエラ、大丈夫かい?』
隣に立ち、周囲の注目を遮ってくれているエリオスが、そっと長身を屈めるようにして、こちらにしか聞こえないくらいの声音で問うてくれる。
エスコートで手を取られたら、この手の震えも、すぐに気付かれてしまうだろう。
『……申し訳ありません、少し、緊張しているようです』
エリオスには、出会った時から、不思議なほど話しやすい雰囲気があった。
だから付き合いの短いシエラでも、彼には何故か、正直な気持ちを打ち明け易かった。
それはエリオスの生来のものもあるだろう。
けれど同時に、それは育った境遇も環境も、そして身分も違う自分達にとって、この一年という婚約期間は、あまりにも短いという実感がずっとあるからだろうとも思う。
エリオスはシエラにとって、言わばこの境遇を分かち合う同志なのだ。
身分差の突然の婚約、という難局に立ち向かう運命共同体の。
だから恥ずかしいなどとは言っていられない。
素直に自分の窮状を伝え、協力を仰がなければならない。
だって、シエラの失敗は、エリオスの評判にだって関わって来るのだから。
『大丈夫、今日はずっと君の側から離れる事はないし、頼ってくれればいい。いつも子爵家では、シエラが私の世話をしてくれているだろう?今日は私の番だよ』
そう言ってそっとシエラの右手をとると、もう片方の手で、安心させるように軽く甲を叩いてくれる。
緊張で汗の滲む自分の手よりも乾いた彼の手は、華奢な見た目よりもずっとがっしりしている。
熱い体温が伝わってきて、それが冷えた手にじんわりと染み込んでいくようだった。
『それにね、どうやら私も、いつもより緊張しているみたいだ』
『エリオス様がですが?』
オルコットの屋敷で会う時と変わらぬ相貌を、思わず仰ぎ見てしまう。
いつもよりもきっちりとまとめられた金髪が、煌々と灯されたランプの灯りに照らされている。
顕になった額が、男性ながら、惚れ惚れとするほど美しい様子だった。
『王族としての夜会は数え切れないほどこなしてきたけれど、多分初めて……私個人として臨むような気がするからかな。それに、出来ればシエラに、情けないところは見せたくないからね』
そう言って、金の目を細めて、見た目にはいつもと変わらない顔で笑ってくれる。
こうして時折エリオスは、その柔らかな胸の内を、シエラにそっと見せてくれるようなことがあった。
自分と同じ歳くらいの異性に、そんな風に内心を吐露されるのは、なんとも言えず、シエラを不思議な心地にさせるのだった。
家族であるキールや、幼馴染のようなかつての婚約者にだって、そんな風にされたことはなかった。
それはいつも、自分たち二人の関係に、今の状況に、まだ戸惑っているのがシエラだけではないことを、そっと伝えてくれているようで。
『……ありがとうございます、エリオス様』
例えそれが、シエラの緊張をほぐすための方便でも。
そんな風に気にかけてくれるエリオスの気持ちが、シエラには嬉しかった。
けれど、いつからだろう。
そんな風に彼の優しさに触れる度に。
(ちゃんと、エリオス様の婚約者として、恥ずかしくないように)
そう思えば思うほど、握られた手の熱さとは裏腹に、心の奥はどんどんと冷えていくようで。
それでも夜会は、終始エリオスのエスコートが完璧で、気がつけば帰路の馬車に揺られていたのだった。
(大きな失敗はしなかったけれど、それだって全部、エリオス様のフォローのお陰だった)
今まで見向きもしなかった高位貴族たちが、我先にと、笑顔で言葉をかけてくるのにも、全て鮮やかに対応してくれた。
自分はただ、彼の隣で、強張った笑みを必死に浮かべていただけで。
一つの山場を終えて、シエラの胸にあったのは達成感などではなかった。
「多分、怖いのかもしれない」
中から聞こえてきたエリオスの言葉に、どきりとする。
まるで、自分の胸の内を読まれたようなタイミングだった。
「子爵家のことも、下位貴族としての振る舞いも、私はまだまだ至らないことばかりだろう?だからシエラにとって、この婚約が負担になっているのではないかと思ってね」
そう、それはまさに、シエラ自身が感じていることでもあった。
(エリオス様の横に立つのに、私の方こそ、至らないところが多すぎて)
二人で初めて、街中に出掛けた日のことを思い出す。
エリオスは事前に、店に連絡を入れてくれていたのだった。
その時初めて、王族である彼が、気軽に店に立ち寄るなんてことができるはずがないことに思い至ったのだった。
下位貴族である自分たちが、目に留まった商会にふらりと入るのとは訳が違うのだ。
店の者達の態度も、今までシエラが経験したこともない慇懃なもので。
そうして、そんな彼の横に立つ自分の振る舞いが、シエラは急に心許なくなったのだった。
一度目の婚約を失って、失意の内にこの二度目の婚約をして。
初めは、毎日ただ必死だった。
そして目の前には、煩雑な手続きと、方々への根回しの合間を縫って、それでも子爵家のことを知ろうと通ってくれるエリオスがいて。
そんな彼に、有り難さと申し訳なさで、初対面の異性に対する恥じらいや戸惑いを気にする間もなかった。
けれど色々なことが落ち着いて、ようやく隣に立つエリオスと向き合う時間が出来てから、初めて、シエラはこの婚約の分不相応さを、じわりじわりと実感しているのだった。
(私への評価が、いずれどこかで、エリオス様の評判を損なうかもしれない)
シエラは今まで、子爵位である自分を、恥じるようなことはなかった。
まだまだ父には及ばない点は多々あるにしても、子爵位を継ぐために必要な知識も、努力も、怠っていないつもりだった。
貴族令嬢としての自分だって、子爵令嬢としては、そこそこに及第点であると思っていた。
たまに出る夜会で、華やかな高位貴族のご令嬢たちを、年頃らしく羨ましく思うことはあっても、それに比べて地味な自分の容姿やドレスを、卑下するような気持ちを持ったこともなかった。
けれど、眩い金髪の、美しい婚約者の隣に立って思うのだ。
高位貴族のマナーも所作も、この婚約が決まった後に教師をつけてもらいはしたものの、付け焼き刃にしかなっていない。
かつての、すでに家族のようだった婚約者には感じたことのなかった気持ちだった。
(以前の婚約では、私はずっと……甘えていたのかもしれない)
「殿下恐れながら。身内の惚気を聞かされる身になってください」
どこかうんざりとした口調のキールの声が聞こえた。
「これは惚気、かな?」
「惚気ですよ。だってなんとも思っていない相手に、失望されるかもなんて、思い悩むことはないでしょう?」
(……!)
そうかもしれない。
私が一番、恐れていることは。
(エリオス様に……、がっかりされたくない)
それは多分、キールの言う通り、エリオスのことを、シエラが好ましいと思い始めているからなのだろう。
だから、自分は戸惑っているのか。
いずれ子爵となる自分でも、長年の婚約者がいた自分でもない、ただのシエラとしての振る舞いに。
初めてで、自信もなくて、どうしたらいいのかわからなくて。
キールの言葉に続く、エリオスの返答が聞こえる前に、シエラは、くるりと踵を返して歩き出した。
茶の用意は侍女に任せて、今歩いてきた廊下を、厨房の方に戻ることにする。
とてもじゃないが、今の話を聞いて、何食わぬ顔で、中に入っていけそうになどなかった。
ああして年下のキールにも、素直に語りかけているエリオスの様子に、ふと彼が四人兄弟の末っ子だということを思い出す。
いつの間にか、父である子爵を筆頭に、オルコット中の料理人から庭師に至るまで、あの人好きのする王子に、ころりと参っているのだった。
けれど、年下の弟に色々と筒抜けなのは、姉としてはなんとも恥ずかしい。
(タルトはやめて……いつものビスケットを)
ずっともやもやとしていた胸の内に、あの弟がヒントをくれたことに変わりはないから。
なんて、そんなことを思うくらいには。
初めての感情に、浮かれた気持ちがあることは否定しようがなかった。
廊下ですれ違う、先ほど飾ったばかりのムクゲの花はすでに萎れ始めているようだった。
けれどエリオスが贈ってくれた枝には、まだいくつもの蕾が並んでいる。
また明日には違う蕾が、美しく花開いてくれることだろう。
(恋、なんて)
自分には一生、縁のないものだと思っていた。
物語でしか知らなかったそれが、思っていたよりもずっと、優しくも甘くもなく、重苦しい感情なのだということですら。
何となく、嬉しいような気がするのだった。
「今日のビスケットは、この間のとは違うね」
手にとったビスケットを眺めながら、エリオスがそう話しかけてくる。
「今日はジャムを一緒に焼いてみたんです」
いつもはそのまま、天板の上で長方形に切り分けただけのビスケットを、丸く成形して、真ん中にジャムを乗せたのは思いつきだった。
長年ずっと作り続けてきたビスケットを、そんな風にアレンジしたのは初めてで、さっきまで一緒に茶を囲んでいた弟も、不思議そうな顔をして食べていたのが可笑しかった。
ああ見えて、キールには保守的なところがあるのだ。
課題があると言って退出して行ったのは、本当なのか、気を遣ったのか……どちらなのだろう。
けれど、どうにも浮かれた自分の気分がビスケットに反映したようで。
その形状に言及されなかったことに、内心、ホッとしていたところだった。
オルコットの狭い居間は、応接間と比べて高級な家具もなく、さして広さもない。
けれど日に焼ける心配のない分、日当たりだけは良く、今も柔らかな日差しが、揺れるレースに合わせて床に模様を描いている。
「……エリオス様がくださったムクゲも、ちょうどこんな風に、中心が赤い色でしたから」
物語で読んでいた恋とは、もっと甘くて、可愛らしいものだと思っていた。
ちょうどこの、プラムのジャムのように。
甘酸っぱくて、赤く輝く、ときめく夢のような。
けれど実際はどうだろう。
こうして同じソファに座っているだけでも、声を上げて逃げ出したいような、そんな気持ちになってくる。
自分が作った拙い菓子が、王宮の茶会で目にした茶菓子とは違いすぎて、出す寸前まで、料理人の菓子と取り替えようか、本気で悩んでいたのだった。
けれど結局は。
(もうすでに、先日、一度お出ししてしまったのだし)
それにエリオスなら。
なんとなく、こちらの方が喜んでくれそうな気がしたのだった。
「なるほど、本当だね。庭園から拝借してきた甲斐があったよ」
ふっと破顔したエリオスは嬉しそうだった。
薄々そうではないか、とは思っていたのだが。
やはり王宮の庭園に咲く花を剪定し、贈ってくれたらしい。
あまり真剣に考えると、身震いしそうなので、礼を言うだけに留めておく。
「エリオス様は、どちらがお好きですか?」
焼いたジャムは煮詰まって、飴のように艶々と光っている。
歯につきそうなそれは、けれど甘酸っぱさが凝縮されて、悪くない味だった。
「うーん、そうだな。キールの反応を見るに、もしかしてあまりしないのかな?」
「そうですね、初めてかもしれません。いつも長方形に切るだけの方が簡単なので」
「そうか」
金色の瞳が、柔らかく細められる。
ビスケットを持った右手が、そのまま口元には運ばれずに、なぜかこちらの方に伸びてくる。
そうしてそのまま、こちらの口元に差し出された。
「あの長方形も、気取りのない、家族の味という感じで嬉しかったけれどね。でも今日のこれは、私用かな?だとしたら、それはそれで捨て難い」
その笑顔は、あの夜会で、貴族たちに囲まれていた時とはまるで違っていて。
気取りない、年相応の、どこにでもいそうな青年の顔だった。
驚くほど、美しいことを除けば。
思わず見惚れるシエラの口元に、
「はい」
「!」
うっかり口にしたビスケットを、落とさないように慌てて手で支える。
そんなシエラに、目の前の、同じ歳の婚約者は。
照れたように笑いかけてくれたのだった。




