キールとシュバルツ
石の上を、無数の足が生えた、見慣れぬ虫がカサカサと通り過ぎていくのを、キールはなんとも言えない気持ちで見送る。
この国に来てすぐに、港の露店で買い求めた、簡素な革のサンダルを履かなかった理由がアレだった。
砂地を歩くのにいいだろうと思っていたのだが、ここの青々とした草木が生い茂る庭園を歩くのには、剥き出しの足先では頼りなさ過ぎるのだ。
自分が意外と……虫が苦手なのだということは、キールがこの旅で、改めて知ったことの一つだった。
薄い桃色に染まった雲が、美しくたなびいている。
数日ぶりの美しい朝焼けだった。
大雨が数日間降り続け、昨一昨日、ようやく雨は上がったものの、厚い雲が晴れることなく空を覆い隠したままの日が続いていた。
舗装されていない剥き出しの土の部分は、水が引いてもまだ、酷くぬかるんでいる。
幸いに庭園の中を通っている小道は、歩けるくらいには石が乾いていた。
小道の脇の、柵の向こうは斜面になっていて、遠く広がる緑の湿地が見える。
斜面では一頭の山羊が、熱心に草を喰んでいた。
ここでの食事で供されるチーズやミルク入りの茶は、食べる度に目の覚めるような美味しさで、国にはない味付けやスパイスの風味にもかかわらず、ここしばらくの長雨の中で、一番の楽しみになっている。
あれはこの山羊のお陰なのかも知れない。
この数ヶ月で、馴染みになった騎士が、少し先に立っているのが見えた。
何の訓練も積んでいないキールの足音に、あちらは疾うに気づいていただろう、目を合わせて軽く会釈を交わす。
どうやら先客がいるらしい。
キールは、騎士の奥に立っている、黒髪の青年に声をかけた。
「おはようございます、殿下」
ラフな麻の上衣を纏い、斜面の向こうを見渡している青年……彼こそが、この使節団の責任者であり、キールの上司でもある、第二王子シュバルツだった。
毎朝の食事の席では、いつもきっちりと纏められているシュバルツの前髪が、珍しいことに、今はまだそのまま額に垂れかかっている。
寝癖一つない真っ直ぐな髪は、元々がそういう髪質らしい。
旅の間、寝起きに跳ねた髪が一日戻らないこともあるキールとしては、羨ましい限りだった。
キールの義兄と同じ金色の瞳が、こちらを見て瞬いた。
「……今そう呼ばれるまで、一瞬、自分が王族であることを忘れていたな。おはようキール」
そう言って笑うシュバルツは、その溢れ出る品の良さから、とても庶民には見えやしないだろう。
(でもこんな風に、気楽に冗談を言う方だとは、思っていなかった)
いつだって隙のない笑みを浮かべながら、豪放な兄王子を助け、老練な議会を相手取る、真面目で有能な執務官。
彼の下で働くようになってからまだ数年だが、その優秀さを目の当たりにして、気後れすることの方が多かったように思う。
それがこうして旅に出てみると、公務以外の場では存外に気安く、若輩のキール達とも食事をしたり、声をかけたりしてくれるのだった。
そのお陰もあって、使節団の雰囲気は今日まで、至極和やかなものだった。
そうして初めて知ったのが、王太子殿下もシュバルツも、十代の頃は、騎士団の訓練に随行することも多かったのだという。
王太子の剣の腕は、吟遊詩人に歌われるほどに有名だが、目の前の青年も、知の人だと思っていたら、思いの外、脳き……武の人であった。
けれど考えてみれば。
一国の王子が外遊に出るのに、身を守る術が他人任せ、と言う訳にはいかないだろう。
とはいえ、キール自身はそちらの方面はからっきしなので、旅の平穏を日々祈るばかりだった。
「申し訳ありません、邪魔をしてしまいました」
「いや、構わない。久しぶりに晴れたのが嬉しくてな。キールもそうだろう?」
涼やかな風が、互いの間を吹き抜けていく。
キールの国よりもずっと南に位置するこの国は、今は雨季の真っ最中である。
こうして実際に訪れるまで、南国の、過酷な暑さと湿度を覚悟していたのだが、滞在場所として用意されたこの館は、街を見下ろす高台にあって風通しもよく、自国よりも快適なくらいだった。
けれど、数日前に降り始めた、この地方特有の大雨は、事前に聞いていたよりもずっと激しいものだった。
バルコニーから見渡すばかりの広大な湿原が、みるみる間にちょっとした湖に姿を変えていく様は、言葉にならない程だった。
点在していた池や川が繋がり、草木が水に沈み、道は全て見えなくなっていく。
その大量の水が、今朝にはもう、どこへともなく消えてしまっていて、目の前には、再び緑の大地が広がっているのだった。
「こんな風景を見ていると……国でのあれこれが、遠い夢のように思えるな」
その気持ちは、この旅の中で、時折キールの胸にも過ぎる思いだった。
一歩国を出てみると、この広い大地の前では、シュバルツもキールも、単なる一国の民の一人でしかないのだと、そんな不敬なことをすら思うのだ。
人目を憚らずに笑い、その土地のものを食べ、暗くなったら眠る。
しがらみも身分も、国に残してきた問題も、あんなにも苦労して得たこの職すらも、何もかもを忘れて。
このまま、自分のことを誰も知らぬ場所で、どこへでも自由に……そんな、夢みたいなことを考えてみる。
今目の前で、同じ景色を眺めているシュバルツも、そんな風に思うことがあるのだろうか。
一際、空が桃色に染まって、全てが明るく照らし出されていく。
地平線よりも随分高い位置から太陽が昇る、何度見ても不思議な日の出だった。
数度目で、ようやく思い至ったのだが、あれは目視できないくらいの遠い先に、大陸一の山脈が聳え立っているからなのだった。
(そんな景色があるだなんて、どの書物にだって書かれていなかった)
「笑わないで聞いてくれるか?」
同じ様に東の空を眺めていたシュバルツの声に、キールは振り返った。
「こんなにも美しい場所で、こんな風に気楽に息をして、けれどな、ずっとどこか……帰りたいと、そう思っている己がいるのだ」
金色の瞳に、昇る陽が映っているのが見える。
キールの国で、最も尊く、美しい光の色。
「我が国へ帰りたい、という事ですか?」
「いや、厳密には少し違うな……国というよりももっと小さな、城の中の、自室のベッドで眠りたい、と言うのが一番近い気がする。薄情だろう?国よりも妻よりも、自室のベッドが恋しいなどとはな」
今、目の前で穏やかに語るシュバルツは、自分よりも僅かに年嵩の、ただの青年のようにも見える。
「不思議だな。ここの敷布は、自室のものよりも上質な絹で、隣国の寝具は、素晴らしい寝心地だった。執務の合間に仮眠を取るだけの自室のベッドに、そんなに思い入れがある訳でもない。旅空の下で願うのが……あんなにも出たいと思っていた王城の自室で、ただ心ゆくまで眠りたい、とはな」
その気持ちは、キールにも分かる気がした。
涙が出るほどに素晴らしい景色を見ても。
国賓として、どんなにか贅を尽くした歓待を受けても。
ずっとどこか……あのオルコットの、狭苦しい自室のベッドで、眠りたいと思っている。
良い香りのする最高級品の絹などではなく。
洗いざらしのリネンの、脂臭さの残ったシャボンの匂いに顔を埋めて。
キールが生まれ育った屋敷はもう、姉夫婦が継いで、様子も随分変わっている。
部屋はそのまま姉が残してくれているが、今のキールには、ちゃんと別に帰る場所もある。
それでも、この異国の地で、懐しく思い出すのは、何故かあのオルコットの自室なのだった。
「これが、故郷というものなのかも知れぬな」
そう言って笑う青年は、もういつも通りの、優秀な第二王子の顔をしている。
だから、
「……先ほどの言葉は、先日ご婚姻されたばかりの夫君としては、些か失言かと」
「そうだな。私達だけの秘密にしてくれ、キール」
聞かなかったことにしろ、とは言わないシュバルツが。
(つくづく、人たらしな兄弟だ)
そんな彼の下で、共に国を作る未来は。
きっと悪くないだろうと、キールは思うのだ。
陽が昇り、また新たな1日が始まる。
この数日の涼しさを塗り替えるようにして、強い日差しが、大地を照らさんと昇っていく。
この地に生きるすべてのものに、等しく与えられる始まりの光。
「今日の草案はできていたな」
「はい、部屋の方に写しをお預けしております」
「成果もなしに、おめおめと帰る訳にはいかぬからな」
一旦交渉の場に立ったら、決して譲らぬ、優秀な外交官の顔だった。
それはさながら、凄まじい勢いでこの地に降り注いだ、あの雨のように。
(今日は長い一日になりそうだ)
雨で止まっていた諸々の交渉を、巻きながら進めていかねばならない。
聞き慣れない鳥の声が、朝のしじまを破って、一日の始まりを告げるように響き渡っている。
これは旅だから。
自分たちが帰る日も、場所も、最初から決まっている。
(帰る場所のある幸福と、不自由さか)
けれども、とりあえず今。
内なる郷愁や、今日の議題よりも、一番気に掛かっていることがある。
「今日の朝食は何でしょうね、殿下」
「私は昨日の、米を炊き込んだものが好みだな」
その日の朝食は、柘榴の実とラディッシュを和えたサラダが、とても美味だったと。
旅の記録に、キールはそう書き記している。




