ビスケットが語る、いつか
姿見に映る、自慢の金の瞳を見つめながら、ルシエラは空腹を感じていた。
朝早い列車に乗るために、まだ朝食をとっていないのだ。
目の端に、見慣れた赤い紙のパッケージが見える。
悩んだのは一瞬で、すぐにその端の重なった折り目の所から、気をつけながら封を開けていく。
ぎゅうぎゅうに重なって収められている中身は、最初の一枚が取り出しにくい。
玄関先に粉を落とさないよう慎重に、爪に引っ掛けてなんとか一枚を手に納め、はしたなくもそのまま被りつこうとしてふと気付く。
(“オルコット”って書いてあったのね)
五ミリほどの薄さのビスケットの表面に、オルコットという刻印がある。
その一枚を口に咥えてパッケージを見ると、パッケージのビスケットの絵にも、ちゃんとオルコットの文字が見える。
子供の頃から数えきれないほど食べてきたのに、今まで気にしたことがなかった。
「ルシエラ!急いで、タクシーが来たわ!」
ニ階から慌ただしく降りてきたジャッキーが、トランクをガタガタ言わせながら目の前を通り過ぎていく。
「早く!列車に乗り遅れるわよ」
水分の足りない口ではすぐに返事が出来ず、このビスケットを食べるのに水がないのは失敗だったと思いながら、飾り棚の上のハンドバッグを手に取る。
そして手に持っていた赤いパッケージを無理やりその鞄に押し込んで、トランクのハンドルを掴み、家を飛び出したのだった。
「朝からどっと疲れたわ」
タクシーの運転手を急かして駅に滑り込み、ポーターを捕まえて二人分の荷物を預け、そして乗る予定の列車の一等車の客室に二人して何とか収まって、二段ベッドの下段にようやく腰を下ろした所だった。
「最近はタクシーものんびりしてて嫌になっちゃうわよね」
急いだせいか、ジャッキー自慢の金色の巻き毛が、強風に吹かれた時のようにあちらこちらに跳ね回っている。
髪を整えるために帽子を脱いだ彼女が、ため息を吐いて言う。
「まぁよかったじゃない、とりあえず遅れなかったんだから」
朝から疲れたのは事実だが、間に合ったから良しとしよう。
ルシエラは昔から、済んだ事にはクヨクヨしない。
それが上手くいったことならば尚更。
「でも朝ご飯が食べられなかったのは失敗だったわ、お腹空いて来ちゃった。昼食にはまだ早いわよね」
一等車の前方にある食堂車は、一等車の乗客のために一日中開いている。
この後、ちゃんとした昼食が控えているのを思うと、中途半端な時間だった。
「ジャッキー、いいものがあるわ」
さっきハンドバッグに無理やり突っ込んだ、赤いパッケージを取り出す。
端が若干ひしゃげているが、中身は問題ないだろう。
「ビスケットよ。口がパサパサになっちゃうけど」
「珈琲を頼みましょうよ、有料だったかしら」
「一等車ならサービスだと思うわ。どのみちチップは必要ね」
丁度通り掛かった車掌を捕まえ、珈琲を二つ頼む。
髭を蓄えた壮年の車掌は、年若い二人の乗客にも慇懃な態度で接してくれた。
「流石一等室ね。二等とは全然違うわ」
「そうね、旧式の二人用のコンパートメントとは言え、一等だもの」
「まぁルシエラ、この客室だって叔父様のご厚意なんでしょう?そんなこと言ったらバチが当たるわ」
学生である自分達だけでは到底乗ることのない、豪華な寝台車の客室を見渡して、珈琲を待ちきれないジャッキーが、ビスケットを一枚取って齧る。
「そうよ、そのビスケットに書いてあるでしょう?オルコットの叔父様のお陰よ」
今から二人が向かうのは、そのビスケットの創業者一族の最後の生き残り、オルコットの叔父の屋敷なのだった。
ルシエラにとって母方にあたるオルコット家は、今はもう叔父とルシエラの母だけになっている。
母は結婚して姓が変わったので、厳密にはもうオルコットではないが。
「素敵よね、大きなお屋敷なんでしょう?」
「そうよ、もう何代も前の、このビスケットの創業者であるひいひいお祖父様がいる時に建った屋敷らしいわ」
夏の休みの間にその屋敷に遊びにいくのが、もう何年もルシエラの休暇の定番だった。
小さい頃は母に連れられて行った屋敷に、ここ数年はルシエラだけで帰ることも多くなっている。
今年は学院で寮が同室のジャッキーを、連れて行く許可をもらったのだった。
来年学院を卒業して働き出したら、休暇などおいそれと取れなくなるだろう。
そう思うと、これがオルコットの屋敷で過ごす、子供時代最後の休みかもしれない。
「ひいひいお祖父様って、前に言っていた王族の?」
「そうよ、エリオスお祖父様。めちゃくちゃ美形よ、絵姿が残っているから見せるわ」
オルコットの屋敷は、長い間手入れが行き届かず、使われていない部屋も多くて薄暗い。
歴史のある屋敷らしく、肖像画の並ぶ部屋や、今は使われていない暗い地下の保存用の食料庫、扉がずらりと並ぶ廊下など、どこもかしこも、重苦しい雰囲気が漂っている。
今だって夜中に一人では、絶対に歩きたくない。
ここに泊まりに来る度に、ルシエラ一人にあてがわれる、ただっ広い客室の大きなベッド。
それが小さい頃には嬉しさよりもどこか心許なくて、屋敷とは比べ物にならない程狭い自宅が恋しくなったものだった。
「ルシエラも王族の血を引いているのよね。ロマンチックだわ。その金色の瞳も王子様譲りでしょう?」
「そうよ、私と、今はもう叔父様だけね。何故か私にはこの特徴が出たんで、皆、驚いたらしいわ」
金色の瞳を持つルシエラを、母の弟である叔父は随分可愛がってくれている。
父にも母にも似ていない自分の瞳と、同じ色をした先祖達の肖像画を初めて見た時、確かに自分はオルコットなのだと感じたのだった。
「王族の血が入っていても没落しちゃうのね」
「そうねぇ、エリオスお祖父様は完全に王籍を抜けたそうだから、きっともう関係はなかったのよ」
すでに王が治める治世は議会制に代わり、貴族位がただの称号になって久しい。
伯爵位をはじめ幾つかあったオルコットの爵位は全て、母と叔父が小さい頃、父であった祖父が国に返上したらしい。
何代も前に領地は接収されていたし、残っているのは今の屋敷とその周囲の農園、そしてずっと受け継がれてきたいくつかの事業だけだった。
「このビスケットは元々エリオスお祖父様がシエラお祖母様のために立ち上げた事業らしいわ」
「そうなの?ますますロマンチックね。もしかしてルシエラの名前って」
「ひいひいお祖母様の名前から取ったそうよ」
子供の頃にまだ存命だった、名付け親の大叔母から聞いた話だった。
曰く、高祖父のエリオスの業績は数え切れないほどあるが、その全てが、妻であったシエラと、家族のためのものだったらしい。
「お祖母様と結婚するために降下したって聞いたわ」
「まるで物語みたいじゃない!大恋愛だったのね」
「そう、その時お祖母様には婚約者がいたらしいんだけど、決闘で奪い取ったらしいのよ。でも大叔母様のお話って毎回変わるから、ちょっと怪しいのよね」
緩やかなカーブに合わせて車体が傾き、滑り落ちそうになったビスケットの袋を慌てて押さえる。
「大叔母様が大事にしていた、シエラお祖母様の弟にあたるお祖父様の手記が、まだどこかにあったはずよ。確か、名前が…何だったかしら」
「その方もオルコットなのよね」
「そうよ、確かその頃には珍しく国外の方と結婚したらしいの。それで手紙やなんかがよく残っていたのよ…誰だったかしら、思い出せなくて気持ち悪いわ」
「そういう時は別のことを考えた方がいいのよ。叔父様は結婚していらっしゃらないのよね?」
「ええ、多分もうしないんじゃないかしら」
ルシエラと同じ鳶色の髪を持つ叔父は、見た目だけならまだ随分若く見える。
けれどずっと若い時分から、自分の代でオルコットが終わることを、もう決めているような節があった。
「じゃあこのビスケットはどうなるの?」
少し前に運ばれてきた珈琲は熱くて濃い、申し分のない味だった。
けれどこのビスケットを食べるには、些か量が足りないかもしれない。
薄くて何枚でも食べられるけれど、口の中の水分を容赦なく奪っていく。
「共同経営者がいるし、オルコットではない誰かが継ぐんじゃないかしら」
「じゃあこの刻印も見納めなの?でも見て、パッケージによると、創業当時からこの刻印って書いてあるわよ」
もう何枚目かになるビスケットを食べながら、ジャッキーがまじまじと小さな文字を見つめながら言う。
この友人が昨日、ダイエット宣言をしていたことに思い至るも、藪蛇になるので黙っておく。
「本当ね、初めて気付いたわ」
創業当時からなら、決めたのは高祖父であるエリオスだろうか。
「ねぇこれほんとに止まらないわルシエラ。いくらでも食べられそう」
「でしょう?軽くて、甘すぎないのがいいのよね。私なんか生まれた時から食べているけど、お陰様でまだ飽きていないもの」
叔父が頻繁に送ってくれるこのビスケットを、忙しい母がいつもおやつに置いていく所為で、幼少時、食傷気味になったことがない訳でもない。
けれど飽きてしばらくしたらふと、また食べたくなるのだった。
「そういえば叔父様はこれにジャムを乗せて食べるのが好きよ」
「それ美味しそう。向こうに着いたらやってみたいわ」
「多分あるわよ、いつだってこのビスケットだけは山のようにね」
(叔父様は飽きないのかしら)
屋敷で会ったら一年振りの叔父に尋ねてみよう。
どうにも思い出すことのできない、ひいひいお祖母様の弟の名前と一緒に。
次の駅が近付いてきたのだろう、減速した列車の揺れが大きくなる。
二人が向かう、オルコットのかつての領地だった場所までは、まだまだ先が遠い。
(田舎すぎてきっと驚くわね)
都会育ちのジャッキーは、一面の農地を見るのもきっと初めてだろう。
あの辺りは、かつてエリオスお祖父様が生きていた頃と変わらない、有数の穀倉地帯のままだそうだから。
もう残り少ない菓子を一枚手に取る。
自分が子供の頃から、味も見た目も変わらない、見慣れたビスケット。
あの並んだ肖像画に描かれた、何人もの金色の瞳のオルコット達。
彼らが食べたかもしれない味を、こうして今自分が味わい、そしてこれからも、未来の誰かが同じように食べていくのだろうか。
その中には、ルシエラやジャッキーの子供だっているかもしれない。
この先、叔父を最後にオルコットを名乗るものがいなくなっても。
この素朴なビスケットだけは残るのかと思うと、何だか不思議だった。
そう思うと急に、この一枚のビスケットが、何か大きなうねりを繋ぐ、神々しいものに見えてきたような気がして。
それでも胃の要求に従って、ルシエラは遠慮なく、それに齧り付いたのだった。




