婚約破棄された弟の、その顛末
皆様のお陰で、月間1位になりました。
本当にありがとうございます。
「貴方との婚約は無かったことにしていただきたいのです」
その言葉が自分に向けられたものであることを理解しながら、どこか他人事のようだった。
婚約者であるソニア・ウェイバリー伯爵令嬢との、月に一度の茶会の席だった。
日が優しく降り注ぐ、麗らかな初夏のウェイバリー家のサンルームで。
いつも控えめながら、微笑みを絶やさなかった栗色の髪の少女が、初めて見る硬い表情で出迎えてくれた。
そしてその表情と同じ硬い声で、婚約破棄を告げられたのだった。
流石にこれは呪いか何かだろうか、と。
将来を期待される若き官吏、キール・オルコットは、胸中で一人呟いたのだった。
「ウェイバリー伯爵令嬢との婚約がなくなったそうだね」
久しぶりに立ち寄ったオルコット家のタウンハウスで、義兄が天気の話でもするようにそう口にした。
「相変わらずですね義兄上…まだ三日前ですよ」
学院にいた時から変わらず耳の早いエリオスの情報網は、この国のどこまで張り巡らされているのだろう。
今さら驚くことはないが、それでも溜息が出るような正確さと精度である。
学院卒業と同時に無事、王宮の官吏となったキールはこの屋敷を出て、今は王宮にある官吏用の宿舎で生活をしている。
お陰様で、同じ王都内のこの屋敷にも、しばらく寄りつくことが出来ないくらいに忙しい日々を送っていた。
「姉には?」
「まだ知らせていないよ。私が帰る時でいいかと思ってね」
卒のない義兄のことだ、領地の屋敷で働く使用人達にも言い含めておいてくれるだろう。
姉には暫く伏せておいた方がいい、と言うのは共通認識のようで安心した。
「姉は元気ですか?」
「ああ、母子共に問題はないと、今朝も手紙が来ていたよ。それとこれがね」
テーブルの上に並んでいるビスケットを一枚手にする。
それは今、王都で流行っているビスケットとは似ているようで少し違っていた。
表面にオルコットの刻印がないそれは、昔から見慣れた、姉の手製のもの。
「キールが来たら出してやってくれと書き添えてあったよ。だから今日は、これに呼ばれたのかと思って可笑しかったんだ」
君はビスケットを食べている時は大人しい。
と楽しそうに告げてくれる。
その事に自覚はないが、最近自室にも積み上げている市販品のことは、決して口にしないでおこう。
第二子を妊娠中の姉は今、領地の屋敷にいる。
引退し、別に居を構えている父が滞在して、姉と甥の面倒を見てくれていると聞いている。
エリオスは事業の方が順調で、その為に王都に来ていると知り、今日こうして尋ねたのだった。
「義兄上、また新しい事業を立ち上げたそうですね」
今やこの王都で、オルコットの名が聞こえぬ日はない。
ビスケットを始めとした食品事業の盛り上がりが冷めやらぬ中、次には、先日の夜会でシエラが身につけていた真珠を取り扱う事業を始めるとあって、社交界では噂の的だった。
「そう、その方がシエラが、気兼ねなく使えるだろうからね」
普通は、少しでも珍しく、他に誰も真似の出来ない希少性を競い合うのが貴族の社交界である。
それを妻が気兼ねするという理由で流通させようとは。
相変わらず、どこか浮世離れしたところのある義兄らしい。
あの食べ慣れた素朴なビスケットが、街の商店で売られている様子には、未だどこか冗談のような気がしている。
「ウェイバリーのことですが、きっと気にすると思うので」
忙しい義兄を捕まえて、いつまでも世間話に興じている訳にもいかない。
身重の妻を置いて出てきたエリオスも、少しでも早く、領地へ戻りたいだろう。
「そうだね。シエラはいつも君の事ばかり話しているよ」
自分に続いて弟までが婚約破棄されたとあっては、あの真面目な姉がどんな風に感じるか。
目の前の、人の機微に聡い義兄が、上手く伝えてくれることを祈るばかりだった。
「以前破談になった家の事業が持ち直したそうです。その幼馴染と、再度婚約を結び直したいと」
「そう。キール、君はウェイバリー嬢の事を、不憫に思っていたんだね」
「…そうですね、それがなかったとは言いません」
上司の勧めで整えられた婚約者との顔合わせの席で、以前の婚約が破談になったのだとソニアが口にした時、姉の姿がよぎったのは事実だった。
貴族にとって結婚は一つの義務のようなもので。
だからどうせ政略で結婚相手を選ぶのであれば、その誰か一人でも救えるに越したことはないと。
そう、思わなかったと言えば嘘になる。
それでも、実際に会ったソニアは、大人しいが、国外の本が好きと言うだけあって隣国の事情にも明るく、婚約に乗り気ではなかったキールも好感を持った。
読んでいる本について懸命に語ってくれるソニアの話を聞きながら、そんな所が姉とよく似ていて、彼女となら穏やかな家庭を作っていけるのではないかと、そんな風に思っていたのだった。
「さしてどうでもいい、と言う顔を隠せていないよキール。今頃、兄上の方が頭を抱えているだろうな」
面白そうにエリオスが口にした兄上とは、今キールが補佐を務める第二王子殿下のことだろう。
元々キールに婚約するように勧めてきたのは、その第二王子殿下なのだった。
「そうですね、隣国への派遣が、もう来月に迫っていますから」
キールを気に入ってくれている第二王子殿下が、その妻である王子妃殿下の故郷である隣国に、大使として赴く使節団の一人として、キールを指名してくれたのが半年前のことだった。
その際問題になったのが、未だ婚約者もいないキールの婚姻だった。
外交官として辣腕を振るう第二王子殿下は、その隣国を足がかりに、そのまま周辺国を回る予定となっている。
その間、一時帰国することはあるだろうが、基本的には周遊の身となり、当然、それに付き従う使節団も同じ旅程を辿ることになる。
予定は一年となっているが、不測の事態はいつでも起こり得る。
外遊に明るい先輩の官吏の中には、倍くらいの心づもりをしておけ、と言う者もいた。
何事にも真面目な人柄で知られる第二王子殿下が危惧したのは、未だ婚約者のいないキールの婚期が、その為に遅れてしまうだろうことだった。
そうして紹介されたのが、丁度前の婚約が破談になったばかりのウェイバリー家のソニアだった。
婚約式だけを先に済ませ、婚姻自体は旅程の合間を縫って、と言うことで纏まっていたのが、三日前、白紙に戻ってしまったのだった。
「このまま、行くつもりかい」
「そうですね、今から別の相手を探すのは、流石に殿下でも無理でしょうから」
元々キールは自身の婚姻には乗り気ではなかった。
卒業してからのこの二年、王宮での生活に、食らいつくのに必死だったと言うこともある。
それに、
「何か言いたいことがある顔だよキール」
面白がるような、それでいて全てを見透かしているような義兄を前にしていると、まるで未だ学院にいるような気がしてくる。
あの頃、生徒会の誰もが、生徒会長のエリオスを前にすると、何も隠しておく事など出来なかったのを思い出す。
「そもそも、相手がいないと一人前ではない、という考え方そのものが気に食わないんですよ」
血を残すことが至上の命題のようになっている今の貴族の結婚について、姉の前の婚約の際、ほとほと嫌気がさしたのだ。
それでもそれが、連綿とこの国を支えてきたと理解はしている。
幸い自分にはオルコットの血を残してくれる姉がいて、その点では急ぐ必要はない。
けれどその事が、自身の今の立場にまで影響してくるとは思ってもみなかった。
「まぁ、そうだね、分からないでもないよ。私自身、血を繋がないでいようと思っていた事もあったから」
側妃殿下を母にもつエリオスにとって、自身の婚姻は難しい選択だっただろう。
今この国の政情は安定しているとはいえ、降下先はずっと明言されていなかった。
それでも未婚と言う選択肢は、高位貴族であればあるほど難しい。
今のキールにとって婚姻は、今後王宮官吏として出世していくための、切符のようなものだった。
社交界では伴侶を伴うことが前提であるし、仕事が絡む場であってもそうなのだ。
第二王子殿下が気にしている点もそこにあることを、キールも分かってはいる。
「キールがしたいようにすればいいと私は思う。ただ、」
続く言葉は、当然結婚を勧めるものだろうと思っていた。
「オルコットの義父君がパンに、ナッツペーストとベリーのジャムを挟むだろう?」
「は?ああ…そうですね。昔から父の好物です」
「初めはギョッとしたんだけれど、食べてみたら美味しくてね」
時々無性に食べたくなるんだよ、と存外甘党な義兄が言う。
「自分で思う以外の選択肢が、意外と面白かったりするのを、私はこの結婚で学んだ気がするよ」
候補外だったであろうオルコット家を降下先に決めた経緯は、当事者であるキールにもよく分かっている。
付き合いが長くなってみると、あの時、冗談のように語っていたキールの存在も、それなりに大きかったのだろうと言うことも。
なんだかんだ言って、この義兄は人が良いのだ。
姉夫婦の仲が良い事は、側にいればよく分かる。
色々な偶然で結ばれた縁だったが、エリオスは想像以上に子爵家に馴染み、シエラを大切にしてくれている。
いつもどこか控え目だった姉が、子爵位を継いでから堂々として見えるのも、その立場だけの所為ではないだろう。
自分を信頼してくれる相手がいる、という事の強さを、まざまざと見せつけてくれている。
キール自身も、身近にそういう二人の姿を見ているし、婚姻が嫌だというわけではない。
ただ、
「今、女性達の雇用を拡充したいと奏上している所なんです」
「ああ、兄上から聞いているよ。夫を亡くした夫人や、様々な事情で未婚のままの令嬢達だね」
「そうです。それに、婚姻して家庭に入るしかなかった者達もいます」
学院で、キールと同窓だった女子生徒の中には、分野によっては主席であった自分よりも秀でた能力を持つ令嬢もいた。
けれど彼女達の未来は、学院に入る前にそのほとんどが、決まってしまっているのだった。
「私が貴族として半人前だというのは分かります。血を残すという点で、責任を果たしていないことも。けれど、その為だけに伴侶を求める事は、結局そういう女性達をも半人前だと、そう言っているのと同じ事だと思うんです」
キールの出世が遠のくような、伴侶がいてこそ一人前だと言われるような貴族社会では、彼女達の居場所など、永遠に作れないだろう。
どこへも行けず、選ぶことができない、貴族の家を繋ぐだけの彼女達。
あるいはそれは、キールのように継ぐ爵位を持たず、婚姻にあぶれた子息達だってそうだろう。
あの時、選ぶ道を持てなかった姉が辿ったかもしれない未来を思う。
婚姻を理由に、彼女達自身が、彼女達の人生が、侮られていい訳がない。
「先日、辺境伯家の彼が久しぶりに王都に来てね。学院以来ぶりに話をしたんだ」
エリオスと確か同窓だった辺境伯家の嫡男は、銀髪の美しい精悍な男だった。
その優秀さ故に生徒会に勧誘したかったのを、次期辺境伯として忙しいからと、断られた話を聞いた覚えがある。
突然話が変わった義兄を見つめ、自分の中で些か膨れ上がった感情を落ち着けながら、静かに、その言葉を聞く。
「北の地にいるトナカイの群れは、危機が迫った時、弱い子供達を中心に円を描くらしい。その中には番のいない雄や雌も一緒にね。ぐるぐると、何かの儀式のように壁を作って、そうして群れを守るそうだよ」
「子を持たぬ者にも、居場所はあるということですか」
「まぁそうだね。でも、なんて言えばいいのか、そうではなくて、」
穏やかに話す姿は、学院の頃と変わらないようでいて、間も無く二児の父となる者らしいような気もする。
「君が外国に行って、いずれその話を、私の子供達にも話してくれるだろう?そんな君を、きっと子供達は好きになるだろうと思うよ。冒険譚を読むよりも、ずっとワクワクしそうだ」
従兄弟達が自分より歳が上なこともあり、キールにはあまり、歳下の子供と接した経験がない。
だから子供を可愛いと思ったことがなかったのだが、二年前に初めて甥が生まれてから、自分でも意外な程、可愛がっているという自覚があった。
近況が知りたくて、姉宛てに、今まで一度も書いたことのなかった手紙を出すくらいには。
彼らが喜んでくれるなら、自分はきっと喜んで話をするだろう。
「キール、君が婚姻せずに生きる人生だって、そんな風にして、あの子達の人生の一部になっていくのではないかな。それだって一つの、このオルコットの血を繋ぐ営みであると言っていいのかもしれない。多分、生き物達は皆、そうして互いに関わり合って、もっと大きなうねりの中で生きているのではないかと私は思う。辺境の、あのトナカイの群れのようにね」
がむしゃらに王宮での生活を駆け抜けて来て、けれどそこには、見えない天井があるようだった。
一人では一人前だと見られない事を痛感して、勿論、そこには後ろ盾の有無だってある。
親王家派や、反王家派といった派閥や、新興貴族を侮る旧家の者達、爵位が全てといった頭の固い古狸。
有力な後ろ盾を持つことが、自分の人生を支えてくれることは分かっている。
個人の能力や、正論だけではどうにもならないことも。
けれどキールの価値とは何だろうと思うのだ。
婚姻を結ばないことがそのまま自分の評価だとしたら、自分には元々価値など無いと、そう言われているようなものではないだろうか。
これはきっといつかの姉が、姉と同じような令嬢達が、味わったのと同じ苦さなのだ。
けれどエリオスが言ってくれたのは、もっと大きな枠の話だろう。
貴族子息としてのキールでも、王宮官吏となったキールでも無い、ただのキールがいる意味はちゃんとあるのだと。
生き物が本能で命を繋いできたこの世界で、その大きな流れの中に、ちゃんと今キールは生きているのだと。
それは決して現状を打破する、直接的な助言ではない。
けれど、
「…義兄上の子達が、結婚しないと言い出したらどうするんですか」
「その時は何か考えるさ。誰か一人くらいは興味を示すかもしれないしね」
「僕が、無職になるのが先かもしれないですよ」
「新事業で忙しい今のオルコットに、優秀な人材は大歓迎だな。子供達のいい家庭教師になるだろうし、シエラが喜ぶよ」
だから思う存分やればいいと、その金色の瞳が楽しそうに告げている。
子爵家の者には無理だと、官吏試験を目指していた間、何度言われたことだろう。
その時もエリオスは、キールの思うようにやれと、ただそれだけを言ってくれていた。
姉は何も言わなかったけれど、このビスケットが、テーブルから消える事はなかった。
一枚とったビスケットの端を齧る。
ずっと変わらないそれは、けれどいつだってその時の配合がまちまちで、食べる度に微妙に違っている。
この不揃いな味が姉のビスケットだった。
市販されたオルコット印ではない、姉の、シエラにしか作れない味。
ならば自分も、自分にしか出来ないことをしよう。
最後の欠片を噛み砕いて。
自分の婚約破棄の顛末を、キールは自分で決めたのだった。
そのまま出立を決めたキールに、第二王子殿下は何も言わなかった。
殿下が可愛がっている末の弟であるエリオスが、兄に何か言ってくれたのかもしれない。
姉からは出立前に、こちらを心配する手紙を受け取った。
けれどそれは婚約が駄目になった事への労りの言葉だけで、心配性な姉には珍しく、キールの未来を憂うものではなかった。
「キールならどんな形でも、きっと望むものに辿り着けると思います」
手紙の最後は、そう括られていた。
エリオスから餞別にと渡されたのは、缶入りのビスケットだった。
その缶は、今まで出していた贈答用の物とは違い、装飾がなく無骨で、その代わり軽量になっていた。
馬車の揺れでも中身が崩れないその缶は、同行していた者達にも受けが良く、気付けばその後、最近国交が盛んになってきた隣国への旅行を楽しむ貴族や、商用で移動の多い商人達の間で好まれるようになったのだった。
相変わらず抜け目のない義兄に舌を巻く。
けれどもしかしたら単に、キールに渡したビスケットが割れないようにという、ただそれだけの兄心だったのかもしれない。
生まれて初めて国を出て、キールは、物理的な移動を伴う“旅”というものの良さを、しみじみと感じていた。
クタクタに身体が疲れ果てて眠る時には、国であった大小の問題など、全てどうでも良くなっているのだった。
巡る国の中には、女性の活躍が目覚ましい国もあった。
外交官として紹介された女性もいれば、男性達に混じって働く書記官もいた。
その中には、三人の子がいるという母親もいたし、王子を振ったという未婚の令嬢もいた。
いずれ我が国で、女性達の道筋を作る際には、参考にしたいと思っている。
そんな沢山の出会いの中に、キールの未来の伴侶がいるのかもしれない。
それはまだ、誰にも分からない。
あの婚約破棄もいつか、この旅の記憶と同じように、自分の一部となって、キールの人生を彩っていくのだろう。
姉の婚約破棄の一幕と同じように。
それを甥姪達に笑って話す日がきっと来るだろう。
あの国と同じように見える空の下で。
大きなうねりの中で輝く一瞬の光のような自分の人生を、今日もキールは生きていく。
それが、婚約破棄されたキール・オルコットの、幸福な顛末の今である。




