16.引き寄せた腕
「あ~!! アメちゃん!!」
ビクッ
その声に大きく体を揺らしたアメと同様に、その頬に沿えそうなほど近づいていた颯人の手のひらはその動きを止め、勢いよく引っ込められた。
その一瞬の動きとともに、ハッと我に返る。
―――――俺、今?
信じられないような思いで、先ほど触れたその手を見つめ返す。
――――何しようと、した?
そんな戸惑いと裏腹に声の主は軽快な足取りで二人のもとに駆け寄ってきた。
もちろんその人物は……
「なんで、こんな時間にいるのさ~」
「ひっ、平田……さん」
キラキラの笑顔を侍らせて近寄ってきた平田に、アメは声を詰まらせた。
そして先ほど軒先の内側に寄せた体を、無意識なのか一歩一歩と後退させる。
ん?
平田を前にすればたちまち目を輝かす女性ばかりを目にしてきただけに、その様子は意外に映る。
……まさか、苦手なのか?
「なんで、こんなところに……」
「え~? 仕事が終わったからに決まってるじゃん。だってここは社員の通用口だよ……誰が来たっておかしくないでしょ……それとも、ここを通るのが二人だけだと思った?」
―――――は?
平田から予想もしない言葉が飛び出し、驚いて平田に視線を向けた。
アメもその含みのある平田の言動に戸惑ったのか、「ちっ、違います! な、なんで……」と、詰まりながらも言葉を返す。そんなアメを平田は面白そうに見つめながら、ちらりと颯人にも視線を向けた。
しかしその瞬間予想もしない視線の冷たさに息を飲んだ。
『今、何してたの?』
まるでそう言っているような……何か……尋問のような雰囲気を感じる瞳。
いつも楽しいことが好きでふざけたことしか言わない平田がそんな顔を見せるのは滅多にないことで、その驚きと問いに対する若干の後ろめたさが背筋を冷たくさせた。
いや、正確には何もしていないのだ。
ただここで話をしていただけ。なぜか胸に引っかかっていた出来事を、その誤解を解いていただけなのだ……それなのに……
平田のやつ……なんだ……?
その視線の意味を推し量ろうと平田をにらみ返すように視線を添えた。そしてその頭をフル回転させようとしたとき、それを無視するかのように平田の視線は再びアメに戻り、打って変わって楽しそうにアメに話しかけ始めた。
「アメちゃんに丁度会いたいなって思ってたんだ」
「……は?」
「ほら。前、言ったじゃない。僕の質問……そろそろその答えを聞きたいな」
「何を……ですか?」
「何って……ふふふ。わかってるくせに!」
惜しげもなくにこにこと笑顔を振りまいている平田と対照的に、アメは平田が現れてからというもの顔の筋肉が引きつったかのように不自然な表情を浮かべていた。
そしてさりげない動作で、また一歩後ろに下がる。
緊張しているというよりは、警戒しているように見える。それはアメの胸元に組まれた手が爪が食い込むほどに強く結ばれている様子からもありありと現れていた。
颯人と同様ただのカフェの顧客である平田をなぜ警戒する必要があるのかと疑問をもちつつも、今二人に繰り広げられている会話を考えればその答えは容易に想像できるというものだろう。
まさか平田の節操なさは、彼女まで及んでいるのか?
そう考えた瞬間、言いようのない苛立ちが胸の中に広がった。彼女の無垢な瞳が、たとえ怯えるようにでも今一瞬を平田に向けているのも我慢ならない。
そう思った瞬間、頭で考えるよりも先に勝手に腕が伸びていた。
「……えっ?」
驚いたアメの瞳が自分に向けられたことを感じながらも、彼女の腕を引き寄せ再び隣に引き戻した。
その動作の意味を推し量るようなアメの視線を受け、苛立った気持ちがさらに増幅していく。自分の行動の不可解さは自分が一番よく分かっている。そんな気持ちのままで彼女に接するべきではないことは分かっていたが、颯人自身どうすることもできなかった。
「濡れるって言ってんだろ」
「あ……」
不機嫌な気持ちを引きずるようにそう言い睨み付けてしまった颯人の視線が怖かったのか、アメはその瞳を揺らした。
そして小さく「……はい」と返事を返す。その声に後味の悪さを感じながらも、無言で引き寄せていた腕を離した。
アメは颯人に掴まれていた腕を反対の手で抑えるようにさすると、そのまま俯いてしまう。いつもならふざけたように茶化してくる平田が、今日は珍しく何も言ってこないため、その間が息苦しくさえ感じた。
「そろそろ……帰りますね。雨の日は暗くなる前に帰れって店長から言われてるので」
アメは俯いたままそう言うと、顔を上げ少し自信のない笑顔を颯人達に向けた。先ほどぶつけられた颯人の理不尽な怒りと苛立ちに、どうそればいいのか戸惑っている様子がありありと見え、胸の中に再び苦い思いが広がっていく。
そのまま視線を逸らしてしまった颯人の様子に何も言わないままアメは再び平田に向き直ると、幾分先ほどよりもきっぱりとした口調で口を開いた。
「先ほどのことですけど、何度聞かれても答えられません。店長からきつく言われているんです」
「でも、ヒントもなし?」
「そうですね」
「意味はあるんでしょ?」
「……あります」
「なら……それは、この“雨”? それともキャンディ? それとも名前の中の一文字なの?」
「それは……秘密です」
「ええ~?」
「そもそもどうしてそんなこと聞いてくるんですか? こんなこと知っても、平田さんにとって何の意味のないことでしょ?」
「意味は有るよ。女性の名前を知りたいと思うことは、極当たり前だからね」
「当たり前って……」
どうやら先ほどからの平田とのやり取りはアメの名前(おそらく本名だろう)に関するものだったらしい。
交際を迫っているのではないかと、予想していただけにその内容に少し拍子抜けする。そして、その申し出をきっぱりと断るアメの潔さに、不思議に心地よさを感じていた。
「だって……何回呼んだって“アメ”じゃ、君のことじゃないでしょ。君からも“その他大勢”だって言われてるみたいで悲しいんだよね」
平田はそう言うと、突如颯人に視線を移した。
「朝倉もそう思わない?」
「……は?」
「その他大勢ってさぁ……なんか、悔しくない?」
平田がそう言ってじっと颯人を見つめてきた。その瞬間―――――ああ、そうか、と思う。
平田は……アメが好きなのだ。
適当な女性関係と相反して自分のテリトリーに踏み込まれることに慎重な平田の性格を思うと、それは恋愛感情なのか、お気に入り程度のものなのかそれは分からない。しかしアメのことを知りたいと、踏み込みたいと考えるほどには、彼女のことを特別に思っているらしい。
それゆえに平田の本来の子供のような素直さが、親友の気持ちが、颯人の中に重なるように伝わってきた。
「そうだな……。“その他大勢”にはなりたくねーな」
その答えに平田は面白そうに顔を歪ませた。満足そうな笑みを浮かべている。その答えを待っていたかのような顔だ。
別に平田を加勢したつもりはないのだが。
「でしょ? ほらね。アメちゃん」
「……でも、だって……」
アメはその言葉に戸惑うように、平田と思わぬところから意見を繰り出した颯人を交互に見つめた。しかしながら意を決したように息を吸い込んで言い放つ。
「ダメなんです! クビにはなれません……ごめんなさい!!」
そう言うと颯人と視線を合わすことなく大通りのほうへ足を向け、帰ろうとするようにカバンの中を探り始めた。そして長い柄のようなものを取り出し、さっとその柄を伸ばす。
―――――あっ!
そう思った時を同じくして、颯人の背後から平田の声が響いた。
「あっ……その傘!!」
その声に驚いたようにアメが再び振り向き、平田に視線を向けた。
「……か、さ?」
「その傘……なんでアメちゃんが……だって……え?」
その戸惑ったような言葉をともに、平田の視線は颯人に送られる。
アメの手に収まっていたドット柄の折り畳み傘――――あれは間違いない。場違いな店で颯人が購入したものだ。夏の暑い日に動けなくなった颯人に差し出してくれたアメの桃色の傘……それを返す際に“礼”とだけ据えて、この傘も括り付けておいたのだ。生け垣に置いておくにはあまりに傘が不憫で、社の通用口の傘立てに置いておいた。アメからすれば、名前も聞かなかった見知らぬ人に“傘はその辺に置いておいてください”と言ったはずなのに、自分の職場の傘立てに置いてあるとは不自然に思ったかもしれない。紙にも、“礼”以外の言葉や、ましてや名前は書かなかった。あの日は気分が悪いのと光の眩しさに、顔を腕で覆っていたので、あの人物と颯人が同一人物だとは気が付いていないだろう。現に、一度もその事柄を匂わす言動をアメから聞いた覚えはないのだ。
颯人が選んだこの傘が、実際にアメの手に渡ったのか知る由はなかったし、今この瞬間までは使っているだろうとは露ほどにも思わなかった。
しかし今アメの手の中にあるドット柄の茶色の傘は、まるで初めから彼女のものであったかのようにしっくりと収まっていた。
贈るつもりなどなかった。買ったことすら後悔していた。しかし―――――今は妙な満足感を感じている。
しかしこの傘を贈るにあたって、一番気を付けなければいけなかったこと―――――それは、平田だ。
颯人が柄にもなく女ものの雑貨屋でこの傘を購入しているのをはっきり見られてしまっていたし、知られたらややこしい―――――そして今まさにそんな状況に陥っていると言える。
「……さっきのって、そう言うことだったの?」
「……」
「マジで? 朝倉、アメちゃんに本気なの?」
平田がただただ驚いたといった表情で丸い目をさらに丸くして颯人を見つめていた。一瞬忘れてくれていることを願ったが、女に関する超人並みの記憶力とともに他人の色恋ごとには妙に勘のいい平田がこの不自然さを気が付かないわけがないのだ。
誤魔化そうと思うが、下手なことをすれば今本人を目の前にしてばれてしまいかねない。それだけは避けたかった。
傘のことは元より、アメにはあんな情けない姿と同一人物だとは知られたくない。
「……ふざけてんなよ」
「ふざけるって……どっちが。だってこの傘……アメちゃんにあげるために買ったんだね」
直球過ぎる指摘に息を飲む。まずい―――――これでは誤魔化しようがないではないか。
唯一保たれたポーカーフェイスの表情と裏腹に、焦りから言葉を失う。今の平田の言動でアメは気が付いてしまっただろうか。いや、気が付かないほうがどうかしてる。そう確信してしまっただけに、アメを振り向くことができなかった。
しかし次の瞬間、意外なところから反論の声が届いた。
「ちっ、違いますよ! 平田さん!!」
「……は?」
振り向けばアメが先ほどよりも少し赤みの差した顔で懸命にそう叫んでいた。まさか否定されると思っていなかったのだろう、平田はアメの言葉に間の抜けたような声を出した。
「誤解です! 朝倉さんは関係ないですよ!!」
「………関係ない?」
一瞬苛立ちともいえる表情を浮かべ、平田の眼瞼が細められた。
「なんで隠すわけ?」
「かっ、隠すだなんて!? そんな……違います。誤解です。本当に違うんです……朝倉さんからだなんて、とんでもない……っ!!」
必至に否定を繰り返すアメは、この傘がまさか颯人から贈られたものだとは微塵も思っていない様子だった。
平田の言動に完全にばれてしまったと思ったのだが、その鈍感さに感謝せずにはいられない。
平田自身もアメがとても嘘をついているように思えなかったらしく、少々怪訝そうな表情を浮かべつつ、追求の勢いを弱めた。
「そうなの……?」
「はい!」
「ふ~ん。違うのかぁ……ごめんね。でも……この前バス停まで入れてくれた時違う傘もってたよね? こっちもよく似合ってるけどさぁ……アメちゃんが買ったの?」
「え? …………違います」
「違う?」
「前の傘……少し前に誤って支柱の一本を折ってしまったんです……それで使えなくなって。……偶然、最近この傘をいただいていたので使ってたんです」
「頂いたって、誰に?」
「……それは……」
アメはその問いに戸惑ったように、平田とその様子を黙って見守る颯人を交互に見返した。アメがこの問いに答えるすべを持っていないのはわかっている。たとえどんな風に答えたとしても、颯人が買ったものとこの傘が驚くほど類似している事実は隠しようがないのだ。平田がその矛盾に気が付かないはずがない。
そのためにはアメをさっさとこの場から追い出してしまえばいい。助け船を出すふりをして、適当に誤魔化して帰らせればいいのだ。
しかしその一言を言い出せないまま、答えを考えるように戸惑ったアメの表情をじっと見つめていた。
アメはなんと答えるのだろう、と―――――アメはあの夏の日のことをどう思っていたのか……あの日出会った見知らぬ人物を。本心が聞けるかもしれないその誘惑に抗うことができなかった。
「……わからないんです」
「わからない?」
「知らない人から……お礼の品としていただいたので」
「お礼? それ、どういう意味?」
「半年ぐらい前に……ある事情で私の傘……前の花柄の傘を貸したことがあるんです。後日返ってきた時にこの傘が一緒に括り付けられていて“お礼”だって書いてあったんです。大したことしてないのに……勝手に頂くのはどうかと思ったんですけど、まったく知らない人でしたし。でも返しようもなくて……使うつもりはなかったんですけど、前の傘が壊れてしまってそのまま倉庫に置いておくのも可哀想かなって……」
アメの言葉の端々に見知らぬ相手からもらったものを使用しているという罪悪感が滲み出ている気がした。
アメにとってはお礼を受けるほどでもない、何でもない些細な出来事だったのだ。そして本当にその人物が颯人だとは微塵も思っていないことが証明された―――――平田がこんなにヒントを与えているに関わらず。
鈍感なのか、はたまた絶対に颯人だとは思いたくないのか。
こんな無様な状況で気が付かれなくて安堵する反面、その理由が後者だとすれば少し……面白くない。
「へぇ~……見知らぬ人……ねぇ~?」
平田は意地の悪そうな声色を滲ませ、意味ありげな視線を二人に送りつけてくる。
アメはそんな平田の様子に、単に知らない人からもらった傘を勝手に使用していることを咎められたとでも思っているのか、怯えるように肩を震わせた。そしてさらに思わせぶりな視線を颯人に送っていることには気が付いた様子はない。
何とでも言え!
本人が気が付かないのならば、黙っていればいいだけのことなのだ。そうすればすべてに片が付く。
平田の視線に少し余裕の笑みを浮かべると、平田は驚いたように目を見開いた。しかしすぐに何か思い至ったように口元に笑みを携えた。
「ねぇ? その事情って聞いてもいい?」
「は?」
「だって……単純に、気になるじゃない。知らない人に貸したってこともそうだけどさぁ……名前ならまだしも、顔も知らないなんてどうやったらそんなことになるんだろうって……」
「え?」
“顔も知らない”――――そんなことは、一言も言ってねえだろう?
「だってさぁ……印象に残らないってはずないよね……ね、朝倉?」
颯人がさりげなく睨み付けると、平田はその視線に面白そうな瞳を向けてくる。
腹立たしい。
「……どういう意味ですか?」
「知らない人だとしても……普通ブ男だったとかちょっとぐらい特徴を覚えてるでしょ? 恐らくその人物の性格を推測するに、名乗らないと思う……もちろん直接返しに行くとも考えられない」
「……はぁ……?」
「でもその後も偶然会うってこともあるでしょ? 仮にもアメちゃんの傘を貸す時に一度出会ったわけだからさ。近くにいるってこともあるでしょ?」
「あの……?」
「でも、知らないんだよね?」
平田の魂胆が見えてきた。アメに傘を返した人物が颯人であるということは話さないつもりらしい。思わせぶりな言葉を投げかけて気が付かない相手が戸惑う様子を眺めて楽しむつもりにしたようだ。
しかしたまらなく面白ものを見つけたかのように嬉々として追求を始めた平田に、予想通りの反応をみせたアメの様子が不憫に思えて思わず静止の意味を込めて平田の名前を呼んだ。
「平田」
「どうやったらそうなるの?」
「おい……」
「例えば……」
「いい加減にやめとけよ」
「あれぇ~?」
「……なんだよ」
「珍しいなぁ~……助け船ぇ~?」
「ばか言え……お前がつまらんことをしつこく言いやがるから」
「へぇ~……僕が女の子と話をしているときは一切無視の朝倉が、こんなこともあるんだぁ?」
「ああ?」
「それとも何? 特定の人物限定にだけ解除されるの? “あれ”は……」
「“あれ”?」
「黒のお・う・じ・くんでしょ?」
その言葉に思わず苛立って「ちっ」と舌打ちをすると、同時に高らかな平田の笑い声が響いた。
「あはははは……面白い!」
「……ぶっ殺すぞ……」
「ははははは……怖い怖い。こんな時は……くっくっ……佐々木さんの漫画の僕への言葉を思い出してくれない?」
「……ふざけんな!!」
そんなやり取りをしていると、不意に戸惑ったように二人を見つめている視線を感じた。
アメがおろおろと、二人のやり取りを見て「あっ……」だの、「その……」だのと、意味不明の言葉をつぶやきながら会話に割りいろうとしている。
このようなやり取りは日常茶飯事とはいえ、はたから見れば喧嘩をしているように見えるのだろう。目に涙を浮かべながら必死で仲裁に入ろうとするアメの様子を見ていると、先ほどまで平田からからかわれたことなどすっかり忘れて、つい手を差し伸べてしまう。
「おい」
「え?」
「もういいから。今のうちに帰れよ」
「……え?」
「平田笑いだしたらしばらく止まんねーし、暗くなる前に帰るんだろ? バス間に合わねーぞ」
「あ……」
アメは颯人の言葉に思い出したのか、とっくに日が落ちて暗く陰った空を見上げバス停に目を向けた。帰りのラッシュに差し掛かり、ちらほらと人が並び始めていた。
「……でも」
「いいから。……ほら」
戸惑って平田と颯人を交互に見つめるアメを軒先に押し出し、その手の中にある傘を奪うと広げてアメに差し出す。
「私……」
「“礼”なら受け取ればいい。傘なんて使わなければただのゴミと変わらねーだろ。ゴミに気を使う必要はない」
「あ……の……?」
「行け」
そう言い放ちその手に傘を握らせると、道路に向けて背中を押し出した。アメは何度か振り返りつつもゆっくりと歩みを進める。
その時になって平田は我に返ったのか、アメがその場にいないことに「あれ?」と間抜けな声を発した。アメを送り出したのは、抜群のタイミングだったと言えるだろう。
このまま去ってくれれば……
そう思った颯人に反して、アメは数十メートル進んだのちピタッとその歩みを止めた。
茶色のドットとストライプの柄がくっきりと丸くこちらを見つめており、間違いなくアメがそこに留まっているが振り向く様子はない。怪訝に思って声をかけようにも平田が隣にいる今、そうすることはできそうになかった。
徐々に雨足が強まり、大きな雨音が黒く冷え切ったアスファルトに打ち付けられて、騒がしい音を響かせた。
やがてアメが振り向いた。そしてゆっくりと颯人たちが佇む軒先に近づいてくる。深く差された傘にアメの顔は隠れてどんな表情をしているのかはわからなかった。
そしてあと数メートルといった距離まで近づいた時、アメはその歩みを止めた。
颯人はそんなアメの一挙手一投足に目を逸らせず、じっと見つめていた。
「あの……っ!」
相変わらずこちらからはドットの柄しか見えないほどに深く差された傘をそのままに、何か詰まったような声が聞こえてきた。
下手すれば雨音にかき消されかねない声だが、その声を正確に拾ってしまうこの耳はどこかおかしいのかもしれない。
「アメちゃん、どうしたの?」
そんなアメの様子に平田が、嬉しそうに声を発した。
「もしかして僕と帰りたいの? 積極的でアメちゃんらしくない気もするけど、僕は受け止めるよ~」
どう考えても場違いで平田らしい言動が隣から聞こえてくる。しかしそんな平田に答える気がないのか、それとも指摘された内容があまりにアメの心理に当てはまって恥ずかしくなったのか、アメはじっと黙ったまま再びフリーズしたように動かなくなった。
図星……なわけねーよな?
平田のことが苦手なように見えたのだから、少なくとも肯定の内容がアメの口から出ることはないだろう。そう思っても、まったく予想外のアメの行動を不思議に思わずにはいられない。
しびれを切らせて颯人が理由を聞こうと口を開こうとしたとき、ぱっとアメの傘が上に持ち上げられた。
「あっ、あ、あめです!」
「……は?」
顔を真っ赤にしてこちらを(少なくとも目が合っていたのだから平田ではなく、颯人を見ていたのだろう)見つめるアメが、つまりながら発した意味不明な言葉に、思わず間抜けな返答を返す。
なんだって?
「あ……」
アメは自分の失態に気が付いたのか、一瞬口を手で覆って今にも泣きだしそうに顔を歪めた。
そして慌てて視線を横に逸らす。
どうしたものか……その仕草はたまらなく颯人の胸をくすぐってしまう。恥ずかしそうに視線を逸らし瞬きを繰り返すその表情も、耳まで真っ赤に染まった頬も、一つ一つが颯人の心を乱すのだ。
なんだ……?
俺はおかしい……おかしいとしか思えない。アメから目を離せない……こいつ……かわ……
「ごめんなさい。あの……実は、やっぱり少しだけなら……っ」
視線を泳がせたままに意味不明な言葉を発し、気持ちを落ち着けるためか(今度は失敗しないためか)アメは何度か深呼吸を繰り返した。そして遠慮がちに再び颯人に視線を戻す。
レンズ越しに上目遣いに見つめられ、ドキッと心臓が音を立てた。
「食べるアメです」
は?
「アメは……きっ、キャンディーのアメです」
「…………は?」
突然ふられた内容が、先ほど交わされた平田との話題だったことに頭が回らず、思わず聞き返してしまう。
しかしアメはそんな颯人の様子に気づくことなく「で、では、失礼します!!」と言い残し、その場から逃げ出すように大通りに走って行ってしまった。
「なんだっ……て?」
そんなアメの後姿を視線で追いつつ混乱した頭でつぶやく。その颯人の独り言に答えるでもなく、ただ不機嫌そうな平田の声が背後から響いた。
「名前、食べる飴から来てたわけかぁ……」
その声にはっと先ほどの内容が“アメ”という偽名の疑問に対しての答えを指すものだったと思い当たる。
しかし突然、どうしてあんな形で伝える気になったのか。あれだけ言えないと言っていたのに……。
「ふ~ん……朝倉には答えるわけねぇ……」
その意味ありげな言動に颯人が振り向くと、平田は目を細めて颯人を見据えていた。
「蚊帳の外っていうのはこういうことだよね」
「ばか言え。俺に言ったんじゃない。もともとお前と彼女との話だろうが」
「でも……違うでしょ。朝倉だって聞きたいって言ったじゃない……」
「なんでもお前と一緒にすんな」
関係ない。
確かに自分自身も気になっていたことだったとしても、そのことを口にしていなければ関係のないことだ。
「じゃあさ、あの傘はなに?」
その言葉に無言で平田を見る。平田は颯人が贈ったと確信しているらしい。アメは否定していたが、もらった人物が特定できないならば平田から見てもっとも怪しい人物は颯人しかいない。
しかしそれを平田に問いただされる筋合いは無いのだ。
「知らない」
「知らないっ!? はぁ? 馬鹿言わないでよ」
「知らねーもんは、知らねーよ」
「……しらばっくれる気だね」
「しらばっくれるも何も、俺は関係ない」
「ふ~……ん」
口元をぴくぴくと引きつらせてもなお笑って見せる平田の表情を、ポーカーフェイスで見守る。
これでは手も足も出まい。
「いつの間に知り合ったの?」
「知り合うも何も、そこのカフェの店員だろ?」
「……それだけなら、僕も聞かないよ。アメちゃんから傘を借りたことがきっかけだったわけ?」
「だから知らねーって……ていうか、お前、俺に何を聞きたいんだよ」
「アメちゃんが……」
そこまで言うと、平田は突然口を噤んでしまう。その先を言うのをためらうように。
そんな平田らしくない行動に、一つの答えが浮かんできてその内容に苛立つ。
その苛立ちを認めたくなくて、吐き捨てるように質問を返した。
「お前、あのアメって店員が好きなのか?」
「え?」
その問いに、戸惑うように平田の視線が颯人に向けられた。しばらく考えるように眉を顰め、やがて不機嫌そうに言葉を返す。
「……違うよ」
「なら、なんで俺にそんなに突っかかる。好きじゃないなら、根掘り葉掘り聞いてくる必要はねーだろ」
「そうだけど……なんかむかつくんだよ」
「だから……」
「朝倉の態度がそうさせるんだよ」
「ずいぶんな言いがかりじゃねーか」
「アメちゃんはさ……久しぶりに見つけた僕のおもちゃだったんだよ。小物のくせに正面から挑んでくる割に脇は甘いし、すぐほだされる……僕の魅力が伝わらないどころか警戒してる……あの怯えた顔もつぼなんだよ。お気に入りだったのにさ、朝倉ってば横からさっと入り込んで……いつのまにか仲良くなってるし……」
おいおい……アメはずいぶんな言われようだな……
「仲良くない」
「……自覚なし? あ~やだやだ。朝倉はさ、アメちゃんのあの顔……見てなかったの?」
「あの顔?」
平田が何を言っているのかわからず颯人がそう聞き返すと、平田は呆れたようにため息をついた。
「やだな……何それ」
「それはこっちのセリフだ。わけわからんことをつらつらと……」
「普段のあの勘の鋭さは時として鈍感になるんだね。なるほどね……ふ~ん……それはそれで面白いね」
そういうと平田は何を思い立ったのか、意地の悪そうな笑みを浮かべた。その気味の悪さにぞっと体を震わす。
「そういうことなら、もういいや。面白いほうがいい」
「……わけわからん」
「まあなんていうの……少し本気になってみてもいいかなって思っちゃったけど……結局僕は数多の女性をエスコートするために生まれてきたってことだったんだよね。そう思えば……運命も時として悪戯に僕を導くこともあるてことで……」
「帰る……」
これ以上平田の戯言を聞くに堪えず、そう言い放つと自分の傘を広げてさっさと歩みを進めた。その後姿を追って平田の声が聞こえてくる。やがて追いついてきたのか、すぐ後ろから楽しそうな声が響いてきた。
「それにしてもアメちゃんは、キャンディーちゃんだったわけかぁ。甘い甘い……ねぇ……ぐふふふふ」
その卑猥な笑いに思わず眉間にしわを寄せる。反射的に振り向くと、平田の頭をどついた。
「痛っ……て!」
「黙れ!」
「……ひっどぉい。無二の親友を無下に扱って……傷ついて泣いちゃうよ……」
「勝手に泣いてろ!!」
大げさに頭を摩る平田を睨み付けてから、ふと前を向くと目の前に大通りが広がった。
何気なくバス停にも目を向ける。
アメの姿はもうない。行ってしまったようだ。
「……淡いねぇ……」
いつの間にか立ち止まってバス停を見つめる颯人を、苦笑して見守る平田がつぶやいた言葉は、雨にかき消され颯人の耳には届かなかった。