深夜の市街戦
次の日、アベルは王立図書館の小奇麗な椅子に腰かけ、吸血鬼に関する書物を読んでいた。図書館という建物は誰でも自由に出入りができ、自由に読書ができる。期限内なら借りることも可能だ。収められいる書物の量は膨大で、ジャンルも多岐にわたる。
そしてアベルは3ページ目をめくったところで大きな欠伸をし、突っ伏して眠りこんだ。
結局午前中の殆どを睡眠に費やした後、アベルは読書を再開した。しかしどの本も吸血鬼の倒し方については曖昧にしか書かれていなかった。修道士が使うような光魔法が有効とは断言されていたが、ただでさえ魔法が使えないだけでなく吸血鬼であるアベルが光魔法を使えるはずもなかった。
そしてアベルが他の魔物についての本を読もうと探し始めた時には、閉館を合図する鐘が館内に響いた。王立図書館は便利だが、唯一の欠点が日の出ている間しか開いていないことだと、アベルは思った。
アベルは石畳の道を歩いていた。旅に必要な知識が万全になるまで、この街を出ないことに決めた。あまり宿に泊まると金が勿体ないため、そしてラシェルと出会う確率も高まるため、できれば早く出たいのだが。
アベルは図書館を出た足で酒場を目指した。ラシェルに会いたくないため、酒場マヌエラとは真逆の方面にある酒場だ。ビール一杯と、軽い食事をとった後宿屋に戻る。昨晩は夜行性という吸血鬼の性質上、夜は寝れずに暇で仕方なく、ぶらぶらと意味もなく外を歩き回っていたものだが、今夜はその必要はない。王立図書館で借りた、近隣の魔物の生態について書かれた本を三冊ほど借りてきたのだ。これで暇することはないな、とアベルは満足げにページを開いた。「イーアリウスの魔物」という本だ。
(知らなかったな、こんなの……)
ページをめくる度に、驚きの連続だった。アベルは魔物の生態について多少知っているつもりだったが、それは本当にトスウハ村の周りだけで、彼の見たことも聞いたこともない魔物が挿絵つきで載っていた。その記述は荒唐無稽で、事実かどうか疑わしいものもあったが、おおよそ説得力がある内容だった。
(それにしても、なんか、臭いな)
アベルは窓の外から漂っている臭いに顔をしかめた。獣のような臭いだ。馬でも通り過ぎたのだろうと気にしないでいたが、その悪臭は時間が経過するごとに増してきていた。
(なんか、どっかで嗅いだことあるんだよな、この臭い……)
アベルは窓から首を出し、外を見渡した。どの家も灯りが消され、街灯の橙色だけが道を照らしていた。そしてその道の遥か先、普通の人間ならまず視認できない距離に、アベルは歩いてくる生物を捉えた。
巨大な体躯、黒い体毛、口から滴る赤い涎。
(ヘルハウンド!)
アベルは剣の柄に手をかけた。あれと遭遇した市民は間違いなく噛み殺される。明日の朝刊で、惨殺死体の記事を見るはめになるのは後味が悪い。
アベルはヘルハウンドから目を離さないようにしながら、静かに窓から飛び降りた。犬はまだこちらに気付いていない。
(それにしても何故現れたんだ)
かつて森で戦ったヘルハウンドはラシェルの話の通り、間違いなく脳天を突き刺して、間違いなく絶命したはずだ。
(別の個体だろうか)
アベルはゆっくりとバスタードを鞘から引き抜いた。そしてその予想は的中していたことはすぐにわかった。
(でけえ!)
森で戦った犬はアベルほどの図体だったが、アベルの視線の先にいるヘルハウンドは間違いなく2メートルを越えていた。
バスタードの銀色の刃が街灯の明かりを浴びる。その反射で居ることがわかったのか、ずっと遠くで歩いていたヘルハウンドは突如速度を上げた。
(来る!)
剣を構えたまま、じっくりと待つ。ヘルハウンドの息がはっきりと聞き取れるほどの距離になったところでアベルは走り出した。
(次は一撃でケリをつける!)
猛スピードで接近し合う吸血鬼と犬。吸血鬼の、全身全霊の斬撃が犬の首筋へ放たれる。
「グギャア!」
ヘルハウンドは苦しそうな声を上げて吹き飛んだ。その首筋にははっきりと切り傷が残っていた。
「浅い!」
追撃を急ぐアベルだったが、とある声によって阻まれた。
「動かないでくれ、アベル!」
可愛らしくも、凛々しい声。姿は見えずとも、聞き覚えのある声だった。
「ライトニング!」
白い稲妻がヘルハウンドを撃ちぬいた。ヘルハウンドは関節が固まったように動きを止めた。アベルは犬の元へゆっくりと近づき、剣を額に突き刺した。これで死んだはずだ。
「またお前に助けられちまったな……ラシェル」
アベルは感謝しつつも、内心は複雑だった。正体がバレるとは思えないが、怖いものは怖い。
「また逢えて嬉しいよ、アベル」
路地裏から出てきた少女は微笑んだ。魔法を使った証拠に、右手に握られた剣が金色に発光していた。魔力を持つ剣、魔法剣である。
「よくヘルハウンドがいるってことに気がついたな」
「中々眠れなくてね。窓を開けて読書をしていたら獣の臭いがしたものだから、サーチの魔法を使ってみたらビンゴだったよ」
「魔力を探知する魔法だな。人の場合は魔法を使った時じゃないとわからんそうだが、魔物は常に魔力を駄々漏れにしてるもんだから場所がすぐわかるってことか」
「その通りだよ。詳しいね」
ラシェルはゴーレムを倒した時と同じ、白銀の鎧を身に着けていた。
「アベルが弱らせてくれたおかげで楽に仕留めることができたよ。正直なところ、不安だったんだ。ヘルハウンド討伐は初めてだったし、危険だと聞いていたから……」
「少しでもお役に立てたなら良かったぜ。止めを差してくれてありがとうな、ラシェル」
「うむ、こちらこそありがとう。それにしても、安心すると急に眠くなって来たな……ふああ」
ラシェルは大きな欠伸をし、目に涙を滲ませた。そのせいか、一瞬気がつくのが遅れた。
ヘルハウンドがアベルの背後から飛びかかってきたことに。
「アベル、後ろ!」
そう叫んだ時には既に、ヘルハウンドの牙がアベルの右腕に深々と突き刺さっていた。
「馬鹿な、止めは刺したはずなのに!」
アベルはそう言いながら、左手に持ち替えたバスタードをヘルハウンドの眼球に突き刺した。しかし離れる気配はない。ヘルハウンドは眼から大量の血を流したまま噛みつき続ける。
「今、その犬を引き剥がすぞ!」
「来るな! お前まで巻き添えになる必要はねえ!」
アベルはこの時、少女の前であるからか、平静を装っていたが、内心は痛みと焦りで冷静さを失っていた。その証拠に今のアベルは、自分が吸血鬼であることを隠すのをすっかり忘れていた。
「おらあああ離れろ犬公!」
ヘルハウンドを右肩にかついだまま、思いきり壁にタックルをかました。壁とアベルに挟まれたヘルハウンドはその圧力に顎の力を緩めた。アベルはその隙をついて、転がるように脱出した。
「はあっはあっ、食いちぎられるかと思ったぜ」
「な、なんて力だ。それよりも、腕!」
アベルの右腕は、服の上からわかるほどに牙の跡が痛々しく残っていた。そこから溢れる血の量は、騎士であるラシェルでさえ恐怖するほどだった。そのせいか、彼女は魔法を放つタイミングを逸した。
「ガルルルルッ」
ヘルハウンドが次に狙ったのはラシェルだった。
「きゃあっ!?」
間一髪、魔法剣で防ぐ。しかしあまりの力にラシェルは仰向けに倒れた。
「は、離せ」
ヘルハウンドは魔法剣に噛みついたまま涎を垂らした。赤色の液体がラシェルの顔にかかる。その生温かさと悪臭に、彼女は泣きそうな顔になった。
(このままじゃ、魔法が使えない……)
ラシェルは喰われないようにと、魔法剣の両端を持ってヘルハウンドを受け止めていた。刃を握ると痛いため手を開き、剣の腹だけを支えている。つまりじかに刃に触れているため、魔法を使えば彼女にも当たってしまうのである。魔法剣士である彼女の魔法は全て剣から放たれるのだから。
「おらああああ!」
もちろんそんなラシェルを見てアベルは黙っていない。左手に持たれたバスタードを、犬の腹から振り上げる。アベルの理想としては、犬が吹っ飛んで離れるというものだったが現実はそううまくいかないものだ。ヘルハウンドはラシェルから離れなかった。
「くっそ! なんてしぶてー犬ッコロだ!」
何度もバスタードをぶつけ続ける。しかしヘルハウンドの皮は厚く、肉を切り裂く手ごたえがない。特にその黒い剛毛が剣にからみつくようで、威力を奪っているようだった。
ラシェルが危ない、攻撃が効かない。そんな焦りが膨れ上がり、ついにアベルは普段なら思いつかない、普通の人間なら思いつかない、突飛な行動に出た。
犬の首筋に噛みついたのである。