始動
すやすやと小さく寝息を立てるウルリカを起こさぬよう、アベルはすり足で扉を開け、鍵を閉めた。さて、行くか。
夜も更け、人通りもまばらになった道を疾走し、目当ての通りへ突入する。
「そこの素敵なお兄さん、よかったらどうですか?」
若い娘に呼び止められた。貴方も十分素敵ですが、今は別に目指している所がありますのでと丁重にお断りし、先を急いだ。
派手なピンク色を煌めかせる魔法光看板がアベルを出迎えた。アベルはポケットの中にある小銭の感触を確かめた。
「アベル!」
ところで呼び止められ、振り返ると美女が目を三角にしていた。かなり急いでいたのか、ブラウスのボタンを掛け違えている。
「う、ウルリカ! 起きていたのか」
「ア~ベ~ル~! 私という美女がいながら、今どこに入ろうとしていたの?」
「いや、その、マッサージ店、というか」
アベルの視線が泳ぐ。
「マッサージなら私がしてあげるのに、どうしてわざわざこんな所まで来るの?」
「いや、疲れているだろうし、起こすのも悪いと思って……」
「だからってこんないかがわしい店に入ることないじゃない!」
「ち、違う!」
弁解しようと必死をこくが、いまいち気持ちが伝わっていない感触だ。どう言えば許してくれるのかと四苦八苦していると、通りの一角から怒鳴り声が響いた。
声の方を見ると、先ほどアベルをキャッチした娘が壁を背に座り込んでいた。そんな彼女を囲むように、安っぽい鎧を着た二人の男が立っている。
「黙ってついて来いと言っている! かのバロー伯爵が直々にご指名なさったんだぞ!」
背の低い方の男が叫ぶ。どうやら彼が娘を突き飛ばしたらしい。娘の方は絶望に顔をゆがめていた。
「どうしたのアベル? 早く帰りましょう?」
「……ああ」
足が重い。前々から、ドザを統治する伯爵の傲慢っぷりは耳にしていた。おおよそ、気に入った娘を邸に連れ込み、自分のものにしてあれこれしようという寸法だろう。自分には関係ないので、さして気に留める必要もないことはわかってはいたが、いざ目の当たりにしてしまうと、どうにも情が移る。
「私がいなくなったら妹たちは野垂れ死にしてしまいます! だからどうか、見逃して下さい!」
「やかましい!」
男は娘を蹴った。娘は苦しそうに腹を押さえたが、男は続けざまに蹴り続けた。
「いてっ」
そして四度目の蹴りはアベルの脚に当たった。
「何だお前!?」
男が睨む。いきなり目の前に割り込んできたアベルへの不信感が隠せないようすだった。
「僕はマゾなので、蹴るなら僕を!」
アベルはそう叫んで、両腕を広げた。
「き、気持ち悪い。さっさと失せろ!」
アベルは言われた通りに、すごすごと引き下がった。男たちは興が削がれたのか、黙って娘を捕まえて引っ張って行った。娘は連れて行かれながらも、奇異な物を見る目でアベルを見つめ続けていた。
「……何してるの」
ウルリカが低い声で言った。
「連れて行かれるのはどうしようもないとして、あんなに蹴られちゃ痛そうだもんな」
「よくわからないわ。貴方とあの売春婦は何の関係もないのに、どうして庇ったのか」
「関係、ね。彼女は俺のことを素敵だと言ってくれた……それだけだ」
ウルリカは納得できていない顔だった。
「つーか、別についてくることもなかっただろ。俺は夜寝れないんだから、勝手に外に出ることもあるって言ったじゃないか」
「アベルが私を裏切らないか確かめにきた」
「ああ、そう……ちなみに、確かめられたか?」
「浮気癖があることとマゾであることが確かめられたわ」
アベルはげんなりと肩を落とした。
「さっきのは嘘だ……それに浮気と言ってもまず俺はお前と交際していない……」
ウルリカはわざとらしく目に涙を浮かばせた。
「ひどいわ、アベル……私はそんなに魅力がないの……?」
どうしてそんな話になるのか。面倒くさいことになったぞ。とアベルが思っていると、後ろから声をかけられた。
「あの、少しいいかな?」
振り返ると、金髪の男がいた。男らしい声に反して、一瞬女性と見紛うような顔立ちだ。年は二十代後半から三十代前半といったところだろうか。レザーの鎧を着こみ、左手には子供が削ったようにごつごつとした木の杖を持っていた。
「何だ?」
どこの誰だか知らないが助かった。アベルは嬉々としてウルリカから視線を逸らした。
「先ほどの機転、見事だね。君はとても優しい心を持っている」
そう言って男は笑った。気品ある笑いと言うよりも、どこか親しみを感じられるような顔の崩し方であった。
「いや……あんなの誰にだってできる。それに、根本的な解決ができたわけでもないしな」
アベルは首の後ろを掻きながら言った。
「根本的な問題解決は、当事者がやることだからね。君はドザの市民ではないよね?」
「ああ」
「僕が凄いと思ったのは、当事者でないのに情をかけられたことだよ。君のような優しい人間こそが平和な世界を作ることが出来ると僕は思うんだ」
いきなり世界平和を語られても、特に自論を持たないアベルは語るものがなかった。そんなアベルに男は小瓶を一瓶手渡した。
「傷薬……?」
「彼女はお礼ができないみたいだから、僕が代わりにね。どうせ余り物だし。じゃあ冒険頑張ってね」
男は爽やかな笑顔で去って行った。その背中が人混みに紛れ見えなくなったあたりで、ウルリカが口を尖らせた。
「何、あの男……ひょっとしてホモ?」
「ホモなら俺は連れて行かれていた」
アベルは満足げに小瓶を荷物袋に入れた。
「さてウルリカ。宿に戻ろうか」
「それでアベル、さっきの話だけど、私ってそんなに魅力ない?」
「会って一日も経たないのに気を許せと言う方が無理な話だ。これでもだいぶ妥協しているんだぞ」
「ふうん……」
ウルリカは腕を組んだ。
「もし、本当に私が敵だとしたら、例えば何に見える? 盗賊? それとも教会騎士?」
心まで見通すような黒色の瞳がアベルを覗き込む。
「盗賊」
「ひっっどーい!」
実は何も見えていないのかもしれない。アベルは苦笑した。ウルリカはしばらく文句を言い続けた後、大きな欠伸をした。
「ねむ……そろそろもどろっか。アベル、私はいつでも準備ができているからね?」
「覚えておくよ」
二人は足並みを揃え歩き出した。相変わらず浴びせられる雨のような視線の中、アベルは唐突に尋ねた。
「ところで脚の怪我は大丈夫なのか?」
「え? ……あ、夢中でアベルを追いかけてる内に、痛みが引いたみたい」
ウルリカは小さくスキップを踏んだ。
「ならいいんだが」
素人目からは折れているように見えたのだが、思いの外大したことなかったようだ。アベルは安堵した。
「おいおい、またそれかよ。いい加減ほっとけよ」
背の低い兵士が不機嫌そうに言った。その右腕は娘の腕を掴み、がっちりと固定している。
「そうは言ってもなあ。一度エサをあげたらなんだか俺に懐いてきちゃって。素通りするのもしのびなくて」
「チッ、俺は先に行っているぞ。すぐに追いついて来いよ」
「おう」
背の高い兵士は路地裏へ入って行った。街灯の明かりが僅かに届く中、ぶち模様の猫が駆け寄ってきた。背の高い兵士は屈んで、右手に隠していた魚の干物を与えた。猫は静かにそれを食べ始めた。がっつくことも遠慮することもなく、淡々とした態度で食べている。
「動くな」
兵士の喉に、ぴたりとナイフがあてられた。兵士の身体は強張り、首を動かすことすら許されなかった。
「ごめんね。でも、必要な過程だから」
金髪の男が小声で言った。その左手には木の杖が握られていた。