第8話 愛車追懐
豚のような鳴き声はとても耳障りなものだった。
魔獣はよほど自分の力に自信があるのだろう、こちらに気づかれないように襲うどころか常に目立ち威圧しようとしている。
岩を蹴って飛び掛かってきた魔獣は大きく響く声を上げながら静夏を巨体の下敷きにした。
一番弱い個体ではなく、一番近い個体を襲うという驕りと怠慢。
そんな狩りのやり方でも今まですべて成功してきたのだ。
それだけこの魔獣にとって人間は脆く、自身は強く頑丈だった。
しかし砂煙が収まり他の人間の顔が見えるようになって魔獣は違和感を抱く。
ひとりは恐怖に染まった顔。よく見る弱い人間の顔だ。
更にもうひとりは怯えを含みながらも様子を見ている顔。なぜ逃げるより観察を優先するのだろう。
最後のひとりは僅かに唖然とした顔。
そう、僅かだ。そこに怯えも畏怖もない。
それは魔獣にとって初めて見る表情だった。
人間は自分を見てこんな顔もできるのか、と不思議な感情を抱いていると突如視界がぐらりと傾く。
慌てて踏ん張ろうとするも四肢が地面につかない。
なぜ? 地面がない?
見ればスカスカと空振りを続ける四肢の下に地面はあったが、今やそれは届かない位置にあった。
何者かが下から巨体を持ち上げている。
こんな状態では突進もできなければ自慢の牙で貫くこともできない。
明らかに混乱に陥った魔獣は抵抗虚しく空高く放り投げられ――
「はあァッ!!」
魔獣にとっては小さな、しかし逞しい拳に殴り飛ばされバラバラになった。
断末魔はやはり、耳障りな声だった。
***
「ああ、ああ、よかった! マッシヴ様が潰されてしまった時はどうしようかと!」
「心配かけたな、あれは地面に埋まっていただけだ」
魔獣を屠り、拳を拭きながら戻ってきた静夏は無傷な姿を馬車屋の店主に見せる。
心底ほっとしている店主は完全におじさんだったが、この中の誰よりヒロインのような表情をしていた。
ファンや信者はこうやって増えていくんだなと思いつつ伊織も内心ほっとする。
母がどうにかしてくれると確信していたが、埋まってしまった時は少し焦った。
「す、すごい、これがマッシヴ様の力……」
初めて静夏の一撃を目の当たりにしたリータは先程の光景を目に焼き付けようと必死になっていた。
「リータの里の魔獣退治にも役立てそうだろうか?」
「もっ、もちろんです! 荒れ狂う魔獣は巨岩をも砕くと言われていますが――」
リータは少し離れた地面を見る。
地面も固い岩だが、そこにぽっかりと静夏の埋まっていた穴が開いていた。
その頑丈さに加えてさっきのパンチ力。予想が合っているなら静夏も簡単に巨岩くらいは砕けそうだ。
「……マッシヴ様ならきっと倒してくれると確信しました!」
ならよかった、と静夏はこくりと頷く。
そして店主の方へ向き直った。
「店主よ、魔獣を退治した報告は早い方がいい。騎士団に無駄足を踏ませてはならないし、なにより早く他の者たちにもう安心して通れると知らせねば」
「しかしまだ目的地は……」
「そこで相談なのだが」
静夏はさっきまでの混乱の影響でいななき荒ぶっている馬の手綱を引き、その胴に優しく触れる。
それだけで馬はぴたりと大人しくなった。
「馬を一頭だけ借りることはできないだろうか? 世話をし、後ほどきちんと返すとお約束しよう」
「残りの一頭で私が街へ戻り皆に知らせる、ということですか?」
「うむ。商売道具と離れ離れになるのは不安かもしれないが……」
不安などありません! と店主は食い気味に言った。
そして煌めく瞳に静夏を映して一歩前へと出る。
「その大役、お任せください!」
「……! ありがとう」
静夏は口にした通り馬を一頭引き寄せ、そしてそれを伊織とリータに近づけた。
馬の鼻息を感じて伊織は目をぱちくりさせる。
「伊織、リータ、ふたりでこの馬に乗ってくれ」
「っえぇ!?」
仰天した伊織は馬と静夏を交互に見た。
乗馬経験はない。バイクと同じようなものならできるかもしれないが、そんなはずないだろと自分でツッコミを入れられる程度には現実味のない話だ。
しかもふたり乗りともなると未知すぎる。
「マッシヴ様は……?」
「私は徒歩で並走する。この方法ならふたりが呼吸をできないということもないし、私も加減する練習になるだろう」
なるほど! とリータは納得したようで、早速馬に跨ろうとし始めた。
休憩もしやすく、もし不意をつかれて魔獣が出た際もすぐに動けるため馬車を選んだが、脅威が去ったなら馬だけで駆けたほうが早い。
伊織が乗り慣れていないのが問題だが、ここからリータの里までの距離ならどうにかなるのではないかという算段だ。
そうわかっているものの、狼狽えながら伊織も馬の鞍を見る。
足を掛ける部分があるが、乗る時も真っ先にそこへ足を置くのだろうか?
体を引き上げる時はどこを持つのだろう?
馬の体に触れたら怒られるだろうか?
目を白黒させていると、ヒョイと馬に乗ったリータが手を差し出した。
「イオリさん、どうぞ」
「あ……す、すみません」
リータの乗る位置は前。伊織は後ろ。
聞けば森に暮らすエルフでも運搬目的に馬を使うため、リータのように乗馬技術を持つ者が多いのだという。鞍に跨る様子はさまになっていた。
(なんか僕が手綱を握る前提で考えちゃってたけど、そうだよな……うん、そうだよなぁ~……)
伊織は目を伏せて決意する。
今度ちゃんと馬の乗り方を勉強しよう、と。
***
馬に乗るだけでも想像以上に体力を使うのだなと伊織は思い知った。
ただしリータが思いのほか荒々しい乗り方をしていたというのも原因のひとつかもしれない。
有言を実行し馬と並走していた静夏が時折追い越しそうになり、それが良いスパイスになってヒートアップしてしまったのだという。
「すみません、すみません、馬慣れしてない人を乗せてこんな走り方するべきじゃないってわかってたのに! 私はなんてことを……!」
「い、いや、お構いなく。むしろ体力がなくて申し訳ないっていうか、ははは……」
道中で夜を迎え、三人は木陰で野営することになった。
一番疲弊しているのは明らかに伊織で、足だけでなく体を支えるのに負担がかかっていた背中と腕も早速筋肉痛に襲われている。ぼろぼろだ。
もちろん伊織もベタ村にいた一ヶ月の間に体力作りをしようと少しは鍛えたつもりだが、まだまだ付け焼刃だったようだ。
筋肉痛のだるさと痛みを感じながら、伊織は星空を眺めて小さくため息をつく。
(情けないなぁ……ああ、もう一度だけ愛車に乗りたい……)
ほんの少しの間しか乗ることが出来なかった愛車のバイク。
馬に乗る際に思い出したせいか、あれからついついバイクとの蜜月を思い返してしまう。
馬の走る速度は自動車に近い。故にもしここにバイクがあっても悪路と相俟って後れをとっていたかもしれないが、夢想するくらいはいいじゃないかと伊織は思う。
明日が早いこともあり、その夜は食事をとってすぐに就寝した。
眠りに落ちた後の暗闇の中、久しぶりにエンジン音が聞こえて心が躍る。
(あっ、珍しく普通の夢だ)
夢を見ることが稀な伊織だったが、あれだけバイクのことを考えていたからだろうか。薄ぼんやりとした景色の中で愛車に駆け寄り、嬉しくて堪らない気分になりながら車体を拭いてやる。
ここが夢だと自覚しても醒めないことに気がつき、伊織はこれ幸いとバイクに跨って草原を走った。
その中には日中苦労して馬で駆けた道もあったが、バイクは悪路などものともせずぐんぐんと進んでいく。
ああ、こいつも連れてこれたらよかったのに。
そう心から思っていると、前方に眠りについている自分たちの姿が見えた。
三人とも眠っている。本来なら静夏が見張りをしているか、近寄ればすぐ気配を察知して目覚めるはずだが、それでも微動だにしないということは本当に夢なのだろう。
そんな時――地平線から朝日が顔を覗かせ、この夢が終わることを察知した。
名残惜しいが、目が覚めてしまう前に伝えるべきことがある。
伊織はハンドルやメーター、バックミラー、ヘッドライトなどを目に焼き付けるように見つめながら口を開いた。
(夢に出てきてくれてありがとう、また会おうな)
なぜかさよならと言う気にはなれず、バイクをひと撫でしてから地面に降り立つ。
すると初めのようにひとりでにエンジンを吹かす音がし、一回だけクラクションが鳴った。
さあ見送ろうか、と思ったところで伊織は自分が何かを握っているのに気がつき、閉じていた手の平を見る。
そこには外した覚えのないバイクのキーがあった。
「え、これ」
振り返る。
バイクはない。
――気がつくと朝日に顔を照らされて目が覚めていた。
自然な目覚めに見えたのだろう、静夏がにこやかに挨拶をする。
「おはよう伊織、……どうかしたか?」
「お、おはよう。なんでもないよ」
ヨルシャミの夢を見た時に似ているが、どうにも違う気がした。
だがしかし普通の夢でもない、そんな気もする。
伊織はそうっと手の平を見下ろす。
――バイクのキーはなく、手の平の下で腕輪だけが朝日を反射していた。