第880話 頑張る息子には負けていられない
静夏は丘の上から助走をつけて走り下り、L字に曲げた右腕で魔獣五匹を巻き込んで多重ラリアットを食らわせる。
地面に叩きつけられた魔獣たちは衝撃波も手伝って体が半分の厚みにまで圧縮され、あっという間に意識を手放した。
静夏が着地点から弾かれたように飛び退いた瞬間、一拍前まで立っていた位置に薄茶色の足が空気を掻き切る音をさせながら飛ぶ。
それはしなやかながら力強く盛り上がった筋肉を持つ、カンガルーによく似た魔獣だった。
体格が素晴らしく、二メートルを越える静夏にも引けを取らない。
実際のカンガルーと異なるのは黒目がちな瞳に知性があり、明らかに長く太い猫のようなヒゲを生やしている点だ。
両者とも視線を交差させるなり実力を感じ取り、静夏は魔獣の筋肉を見つめながら様子を窺う。血管が浮き、はち切れんばかりの筋肉は闘争心に溢れていた。――緊迫感漂う戦場に歓声が上がったのはその時である。
「伊織……」
世界の穴の一部が力いっぱい縛られている。
全体を見ればまだほんの僅かであり、糸が金色をしていなければ見上げたところで一目でわかることはなかっただろう。
それでも息子のやり遂げた第一歩をその目にした静夏は、口元を綻ばせるとカンガルー魔獣に向かって構えを取る。
「魔獣よ、私と筋肉比べをしよう」
『くならま……?』
魔獣は魔獣にしかわからない言葉を発したが、筋肉に関わることだと静夏は感じ取った。それは聖女マッシヴ様だからこそだろう。
意思疎通が出来るような代物ではないが、これが自分にとっての第一歩なのだろうなと静夏は呟き、直後に「そうだ、筋肉比べだ」と全身の筋肉に力を込めて空気を震わせる。
それを真正面から受けた魔獣は同じく全身の筋肉にグッと力を込めて対抗し、そして――ほんの一秒の間を『溜め』に使い、互いに爆風でも受けたのかと思ってしまうほどの勢いで前進した。
「ふんッ!!」
『きうッ!!』
鋼鉄でも突き合わせたような音をさせて組みつき、仕上げとばかりに頭突きをしあう。頭から発されたとは思えない音はまるで銅鑼のようだった。
魔獣は恵まれた筋肉が脚力以外にも恩恵を与えているようで、上半身の耐久度、体幹、握力、すべてが優れている。
ほんの少し組み合っただけで静夏はそれを理解した。
そして、この魔獣のもっとも優れているところは脚ではない。
「……ッ素晴らしい尾だ」
筋肉の塊と呼んでも差し支えない、太く逞しい尻尾。
それが背後から肉体を押し上げ静夏の力に対抗していた。
オルガインが戦ったかつての筋肉ペンギンのナンバー2に生えていた尻尾と同じ役割りを果たしているのだ。
静夏はそれをずるいとは思わない。
己の肉体を活かした戦い方を出来るのは素晴らしいことだ。
「まるで足が三本あるかのようだが、私は負けられない。……いや」
静夏は相手の筋肉に敬意を払い、全身に等しく全力を注ぎながら力強い表情を覗かせた。
「頑張る息子には負けていられない」
『まっ……みけき……ッ!』
静夏の十指がぎちりと軋む。
その音が大きくなるにつれ魔獣の手が甲側から変形し、そしてついには反り返るように握り潰された。それでも魔獣は悲鳴を上げずに押し返そうと両足と尻尾に力を込め続ける。
そんな時、カンガルー魔獣との筋肉比べに静夏が集中していると悟り、一匹のシャクトリムシ型の魔獣が背後から飛び掛かった。ただのシャクトリムシではない。尻に備わった毒針には麻痺性の毒がある。
即死するような代物ではないが、行動不能になれば他の魔獣たちが袋叩きにするだろう。
いくら筋肉に恵まれた聖女マッシヴ様でも、麻痺してしまえば筋肉も重しにしかならないはずだ。
そうシャクトリムシは判断した。代わりに己の命は失われてしまうかもしれないが、目的を果たせるならそれでいい、と。
その思考は完全に怯えを知らないかつての魔獣と同じものだった。
しかしそんなシャクトリムシを貫いたのは、カンガルー魔獣が自ら舌で引き寄せ引きちぎり、弾丸のように口から射出したヒゲだった。
その気配に気づいた静夏は目を丸くする。
「お前……」
『はうすはいめ……!』
「し……あい、そうか、試合か」
心で感じ取った静夏はゆっくりと頷き、再び頭突きを繰り返しながら筋肉と筋肉をぶつかり合わせた。
この魔獣は初めからヒゲによる攻撃を行なえたのに、それを使わなかった。
静夏の筋肉比べ、つまり試合に対し真摯に対応したのだ。魔獣が、である。
静夏はセラームルで伊織から聞いたことがある。
同郷者には転生者の特徴である翻訳が作用していないのではないかと。
本来なら同郷故に翻訳を必要としないため、その範疇外にある。
今のところ転生者も日本人ばかりだ、不便はない。
しかし翻訳の機能が効かない中、相手側の言語が壊れていたら――否、人類の言葉とかけ離れた言語だったらどうなるのか。
魔獣は明らかに意思を持って言葉を発している。
それが翻訳されないとすれば、彼らは――自分たちと同郷者か、それに由来したものという可能性が出てくるのだ。
もちろんあくまで可能性である。
魔獣にはそもそも翻訳が効かない可能性だって大いにあった。
(だがもし当たっているとしたら……)
静夏は、ミッケルバードへ再び訪れるまでの間に覚悟を決めていた。
これまでも使命を果たすためなら魔獣ではない人間でさえも相手にする覚悟を持っていたのだ。そして魔獣だからと命を粗末に考えたこともない。
静夏は己のエゴで以て命を奪っているという自覚を持ち、魔獣相手でも常に真摯に向き合っていた。
今もそうだ。
本能だけで動いているように見える魔獣も、このカンガルーのように過度な恐怖はないが言葉を話す魔獣も、かつて大量に現れた怯えの感情に支配された『人間らしい』魔獣も。
そのすべてに同じ気持ちで接している。
そしてカンガルー魔獣の気持ちがわかったのは翻訳によるものではない。
互いに筋肉を纏い、誠実な想いで向き合っていたからこそだ。
「お前が、お前たちが何者でも……この世界を脅かすのならば、私が受けて立とう」
『……』
「そしてもし抗い難い本能に喘いでいるのならば、私が受け止めてみせよう」
静夏は優しく真剣な声音で言った。
魔獣はしばし絶句したような顔をした後、最後の力を振り絞って自ら頭突きを繰り出しながら踏み込み、体勢が崩れるのも厭わず静夏の顎に向かって蹴りを放つ。
静夏はそれを微動だにしない首で受け止め、
「――良い筋肉だった!!」
そう叫ぶように賞賛を送り、ドラゴンよりも硬い拳を魔獣の横っ面に食い込ませ地面に叩きつけた。





