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異世界転移したけれど、さっさとお家に帰りたい  作者: 焼酎丸
第5章 アンラ神聖国に蠢く闇
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激突!大司教エクーニゲル その二

「お、おい!待て!」


 慌ててモスクルもドアを開き、エクーニゲルを追う。わしとデンテも後に続いた。


「くそっ!なんなんだあいつはっ!」

「えらくやり辛い手合いだのぅ」

「同感じゃ。初めてのタイプじゃわい」


 吹き抜けの大聖堂に出てすぐ視線を巡らせるが、廊下にも、階下にも、エクーニゲルの姿は見えない。しかし、わしはすぐにエクーニゲルのことなど忘れ、階下の様子に釘付けとなった。あまりにも現実味のない光景に、我が目を疑ったのだ。


「ぐあああああ!」

「うおおおおおっ!」


 声を上げていたのは、アンラの民だ。しかし、その絵面の惨たらしさといったらどうだ。肩を押さえてもがき苦しむ者もあれば、獣の如く四足で歩き、涎を撒き散らかしながら吼える者もいる。地獄絵図とは、正しくこれのことだろう。


「…」

「…」

「…」


 わしのみならず、モスクルやデンテすらも、その異様さに喉を鳴らした。大聖堂に入ってきた時、モスクルへと声をかけてきた男もまた、獣を思わせる四つ足で聖堂内を彷徨っていた。


「…なんじゃよ、これ…」

「わ、分からぬ…おそらくは、呪印なのだろうが…何がどうなっているのやら…」

「苦しんでいるのと、獣のような動きをしている奴らの違いはなんだ?」


 それ以降は誰しも声を発せず、手すりから階下を覗き込むのみで、わしら3人は人の尊厳を軒並み奪ったかのような光景に絶句していた。


「ふふふ。なかなかに良い絵になったでしょ?」

「っ!」

「どこだっ!?」


 声のした方へと顔を向ければ、再びわしらはぎょっとした。驚くべきことに、エクーニゲルは中空へ浮いていたのだ。吹き抜けの大聖堂は、天井にも見事な細工が凝らしてあり、素人のわしには、これをどのように作ったかなど想像もつかない。そんな天井の中央部には、大きな絵画が掲げられている。天上の世界を思わせる雲の上に佇む門を描いたものだ。エクーニゲルはその絵画の下にいた。


「良い絵だとっ!?悪趣味丸出しだろっ!」

「流石のわしも、そう思うぞ。これのどこが良い絵なのだ?」


 浮いていることへの驚きなどおくびにも出さず、モスクルとデンテは即座にエクーニゲルに噛み付くが、わしはちと違う思いを抱いていた。エクーニゲルの言う良い絵とは、もしかして、頭上の門を描いた絵画を指してのことではあるまいか?—と、考えたのだ。なんとなくだ。エクーニゲルを理解してきた—などということは、断じてない。


「…え?そうかね?美しいでしょ?天空の門」

「…」

「…」


 エクーニゲルは頭上の絵画を眺めながら呟く。そんなに美的センスが違うものかね?—とも宣っていた。己の考えが的中してしまったことに、ああ、やはりそうなのか—と、少しばかり残念な心持ちになる。あれを理解できてきたなどとは、認めたくない。モスクルとデンテが渋い顔を作ったのが、同時に聞こえてきた舌打ちで知れた。わしも舌打ちしたかったよ。


「…エクーニゲルよ。少しはこちらの質問にも答えよ」

「…それは…まあ、いいでしょ。特別に、一つだけ教えてあげましょ」


 エクーニゲルに要求を突き付けると、エクーニゲルは最初、眉をしかめた。しかし、すぐに思い直したらしく、一つだけならば応じるという。エクーニゲルは両の手を腹のところで握ると、聖職者らしい微笑を浮かべ、質問を待つ体勢になった。


「焦るな。どうやら、王都の者共は、すぐにどうこうなる訳ではなさそうじゃ」

「…すまんのぅ、クローディア。少しばかり頭に血が上ったわい」


 小声で二人に言い聞かせれば、デンテがこれに応じた。モスクルは未だに冷静にはなりきれないらしく、苛立たしげに舌打ちする。これは放っておくしかないだろう。


(さて、何を聞くべきかのぅ?)


 聞きたいことは多い。こんな馬鹿げた真似をした動機や、あり得ない強さの秘密。この呪印の解除方法もだ。どの情報を優先するべきか、何と尋ねるのが正解なのか、判断はつかない。


(いや、任せるべきじゃな)


 今更だが、わしはこの国において部外者だ。少しばかり腕が立つからと言って、しゃしゃり出る真似はしたくない。モスクルもデンテも、状況判断はできる者達なれば、二人に任せるのが良いだろう。


「モスクル、デンテよ。お主らに任せる」

「…ほっほ。ならば、モスクルに尋ねさせるとしようかのう」

「えっ!俺がかっ!?」


 まさかの指名に慌てたモスクルだったが、すぐに落ち着きを取り戻すと、目を細めて考え込む。デンテがモスクルを指名したのには、彼を落ち着かせる意図もあったのだろう。ナイスじゃ—と目で語れば、デンテは朗らかに笑って見せる。若返ったことで、好々爺然とした振る舞いが似合わない—とは言えなかった。


「呪印だ。何故、苦しんでいる者と、魔獣のようになってしまった者がいる?」


 モスクルの選んだ質問は、そこまで踏み込んだものではなかったが、ストレートに解呪方法を聞いても、素直に応じてもらえるとは思えない。このくらいがちょうど良い塩梅だろう。


「ああ、それはね、呪印は二つあったからでしょ」

「なんだと!?」


 エクーニゲルの回答に、モスクルのみならず、わしやデンテも驚く。そんな馬鹿な—と、これまで見てきた呪印の形を脳裏に描いた。ベロートに刻まれていた呪印こそ、二つなどというものではなかったが、王都民に刻まれていたものは、皆同一で、肩の呪印一つだけだ。


「…勉強不足でしょ。呪印と、呪術陣の形をよく思い返してみるといいでしょ」


 呪術陣の形?—と、眉を寄せて考え込む。大抵の呪術陣は五つの頂点を核とした五方陣だ。五芒星ではない。今回、王都民に刻まれていたのもそれである。そこに同じ核を頂点とした掩蔽式や、法術陣、錬金陣などが組み込まれ、複雑怪奇にして読み解くのが困難な術になっていたのみだ。


(…ん?待てよ)


 三方陣を基本とする錬金陣、四方陣を基本とする法術陣。そして呪術陣。これらは、各頂点を互いに連結させてはいなかった。四方陣はやむないとしても、三方陣の錬金陣を逆位置としていたのは何故か。それがお陰で、当初は六芒星の陣かと疑ったほどだ。多少形が歪にはなるが、各頂点を一体化させた方が、魔力ロスは少なくて済むのにだ。


(逆位置とした三方陣の頂点に意味がある—とか?)


 単なる思いつきでしかなかったが、勘は侮れない。オサカ曰く、勘とは、己の培った経験に基づく気付きであるそうなのだから。


(…引っかかる。何か、見落としていはしないか?)


 やはり、違和感がある。これはもしかすると、当たりかもしれない。より深く追うべく、三方陣を逆位置としたことに意味があったのだとしたら、それはなんであるかを考えた。


(六芒星が魔力ロスなしで作れる…)


 五方陣の頂点と、逆位置とした三方陣の頂点を用いれば、六芒星が生み出せる。ふむ—と、腕組みして鼻を鳴らした。これはなかなかに美味しい利点だが、今回の件には無関係だろう。六芒星を基礎とした制御文字の配置ではなかったからだ。他に候補を挙げるならば、逆位置の五方陣を置けるくらいだろうか。


「…そういうことか…」

「…うむ。納得いったわい…」


 電撃で撃たれたかのように唐突に閃くと、全てのピースが瞬く間に繋がる。デンテも思い至ったらしく、わし同様に渋い顔を見せていた。逆位置の五方陣、それが答えだ。あの呪印の更に下、もう一つ呪印が隠されていたのだ。逆位置に敷かれた五方陣を基礎とした、聖水にすら反応しない呪印が。見えている呪印に気を取られ、更なる可能性を見落としていた—否、見ようとすらしていなかったのだ。


「…してやられた…」

「わしもだ…まだまだひよっこなのだと、思い知らされたわい…」


 一気に体力を持ってゆかれた気がして、ガクンと肩を落とす。人間心理を巧みに突いた、実にいやらしい術だった。


「おいっ!二人だけで納得しないでくれ!」

「…後でちゃんと説明するわい」


 縋るかのように声を上げるモスクルだったが、デンテはにべもなく切り捨てる。可哀想に思ったが、術理に精通している者でもない限り、絵で描いてやらなくては理解できぬであろう。モスクルと視線が合ったので、後でな—という意味を込めて苦笑してみせれば、モスクルは渋い顔で追及を断念した。

 さて、わしとデンテが答えに辿り着いたことが、よほど嬉しかったらしい。パチパチと拍手しながら、上機嫌にエクーニゲルは続ける。


「見えている呪印は、フェイクなのでしょ。まあ、それそのものにも耐え難い激痛を齎す—という効果はあるのだけどね。その呪印を消すとね…あの通り、本来の呪印に縛られることになる訳でしょ」


 そう言って、階下の獣を指差すエクーニゲル。わしらも釣られて階下へと視線を向けた。一際着飾った、貴族の令嬢と思わしき娘が目につく。そんな者ですら、四肢を地につけて目を剝きながら歩いている。同じ女として、心が痛くなった。人の尊厳を踏み躙るという意味においては、最悪の術なのではなかろうか。


「ぐうううう…」


 すぐ側で唸るような声が聞こえ、ハッとして振り返れば、そこには、四足で歩く者共がいた。いつの間にか階段を上がってきていたらしく、今はわしらを睨み付け、歯茎まで見せてきている。今にも襲いかかってきそうな気配だ。


「おい待て…やめろ…」

「…モスクル、諦めろ。解呪を試みている暇などないぞ…」


 王都民を傷付けまいと、僅かに尻込みするモスクルとは違い、デンテは冷酷な判断を下したようだ。ゆっくりと彼の指先には魔力が集まってゆき、やがて水が生まれる。飛びかかってでもこようものなら、躊躇なく殺す気なのだろう。


(そうじゃ。フェイクの呪印一つとっても、わしらは未だに解呪方法を確立できておらん。破呪ならばともかく…この場での解呪など無理じゃ。数も数なれば、デンテの判断が正しい)


 術理に明るいがために、ことの難易度を理解できてしまう。人としてはモスクルのように優しく在りたいとは思うが、己が生き残るためには、非情で在らねばならないのだ。少なくとも、この場でエクーニゲルをどうにかしようとするならば。


「モスクル、デンテよ。やるか、退くか、決断せよ」


 わしの言に怪訝な顔を見せる二人だったが、すぐに思い出したらしい。擬似転移の魔道具だ。それを用いれば、直ちにここから撤退できる。エクーニゲルを逃すことにもなるが、ここで全滅するよりは、はるかにましだろう。もっとも、この事態を招いたのは、わしにも責任がある。二人が最後までやるというならば、付き合うつもりだ。


「…退くしかないな」

「…賛成だ。退くとしよう」


 即断だった。悩む素振りすら見せなかったが、苦渋の選択には違いないだろう。二人には守るべきものがあるのだから。現に、表情は苦々しいなどというレベルではない。この世の恨みを全てエクーニゲルに叩き付けるかのような、壮絶なものだった。


「もっとわしに寄れ」


 小声で呟けば、ジリジリと距離を詰めてくる獣共とエクーニゲルの間とで視線を往復させながら、二人はゆっくりと後ろに下がる。わしも直ちに亜空間を開くべく魔石を手にした。


「あ、ダメでしょ。まだその時じゃないからね」


 しかし、ここで予想外の動きを見せたのは、やはりエクーニゲルだった。今にもわしらに飛びかからんとしていた獣共は、エクーニゲルの言葉を理解しているかの如く、すごすごと後ろへ下がってゆくではないか。今度は何をするつもりか—と、油断なくエクーニゲルに視線を向ける。彼は嘆息し眼鏡の位置を正すと、さも残念そうに続けた。


「本当なら、アンラの呪印は私の仕業であると確信を持って、間違いのない者で完全武装した大人数を率いてやってくるはずだったでしょ。ところがどうでしょ。蓋を開けてみれば、君らは散歩にでも行くかのような軽装で、フラフラとやってきたでしょ。もっとも、この事態はクローディアがいるというアクシデントのせいでもあるけれどね」


 こう言われては、口を噤むしかない。ぐうの音も出ないとは、このことだろう。確かに迂闊だった。教会関係者が疑わしいのではないか—という思いがあったにもかかわらず、わしらは何の仕度もなく、女神教の総本山へとやってきたのだから。


(そうだとしてもじゃよ?まさか、誤魔化しようがない奴が出てくるなどと、思わんじゃろうが…)


 誰に言い聞かせるでもなく、内心で言い訳した。大司教のエクーニゲルと会話して、黒だと断定できたとしよう。それでも、ことを暴かず出直すこととてできたのだ。エクーニゲルとわしの間に接点がなければ。彼がこの件にどれほどの想いを抱いていたのかは知らないが、不幸を挙げるなら、わしがこの場にいたこと—否、悪戯に、エクーニゲルがわしへとちょっかいを出したことだろう。


「じゃあ、仕切り直しでしょ」


 訳の分からないことを言いながら徐々に高度を上げてゆくエクーニゲルを、わしとデンテは、はぁ?—と開いた口が塞がらず、呆けた顔で見送る。モスクルだけは慌てて追いかけようとするも、エクーニゲルが手を振り上げて指を打ち鳴らせば、暗い光が辺りを包んだ。


「おいっ!?ちょっ!ぐあっ!」


 何かの術か!?—と、慌てて闇から目を逸らす。腕でガードし全身を魔力で覆い、ただただ闇が過ぎ去るのを待った。


「うぬ…何が…」

「…これはっ!?」


 やがて、闇は消え失せ、見知った大聖堂が返ってくると、すぐに気が付いたのは静けさだ。先ほどまで耳喧しく聞こえていた呻き声、喚き声は鳴りを潜め、視線を送れど、すぐそこにいた者共の姿は見えない。身を乗り出して階下を覗き込むも、やはりそこには人の姿も獣の姿も一つとして見当たらなかった。


「…な、何をしたのじゃ?」

「何って…君らも使えるでしょ?亜空間に閉じ込めただけでしょ」


 こともなげに答えるエクーニゲルに、わしはゾッとした。この男は、レベル100ではない—という確信が持てたからだ。亜空間を開くという術は、人間族に限定すれば、多くの場合、レベルにして80前後が必要になる。総魔力量は元より、制御能力の問題もあるからだ。そこに至ってようやく、椅子やテーブル程度を出し入れできるサイズの亜空間を開けるようになるはずなのだ。


(外からも呻き声らしきものは聞こえてこない…まさか、まさか!?)


 ところが、これはどうだ。大聖堂全体—いや、外から物音一つしないことを踏まえれば、貴族街まで覆い尽くさんばかりの亜空間を広げたのかもしれない。しかも、わしらは亜空間に呑み込まれていない。これは、呑み込む対象の条件付けに他ならないだろう。ただでさえ厳しい亜空間制御に加え、条件付け。それらを、魔石なしでやって退けたのが、目の前の大司教、エクーニゲルという男だ。創意工夫でもってわしの上をゆくでなく、自力そのものがわしの上をゆくのだ—と、認めざるを得なかった。


「…お、お主…一体、何をしようとしておる?」

「…ふふふ。その質問には、答えられないね。私に勝てたら、教えてあげるでしょ」

 

 言うや否や、エクーニゲルは徐に手をかざすと、嫌になるほどの魔力を圧縮し始める。わしやデンテのみならず、術理に疎いモスクルまでも、それが何であるかを察して青くなった。


「三日後、王都アンラは生まれ変わるでしょ。君らはどうするのかね?遠くに逃げる?兵を率いて奪還にくる?」


 淡々と、それでいて嬉しそうに語るエクーニゲルの傍で、魔力の塊は更に濃度を増す。これが放たれれば、この辺一体は吹き飛ぶに違いない。慌てて擬似転移の魔道具を取り出そうとするも、手にした魔石の魔力が尽きていた。ハッとしてエクーニゲルを見上げる。


「おい、クローディア!早く逃げるぞ!」

「クローディアよ!どうした!?」

「…やられたわい」


 モスクルとデンテの喚き声も、魔力の収束してゆく音に押し潰され、小声にしか聞こえなかった。あの魔力の塊は、周囲の魔力を軒並み集めて作っているに違いない。すっかりと魔力の抜け落ちた魔石を二人に見せ、万策尽きた—と、ばかりに苦笑した。


「…お、おいおい!?嘘だろ!?魔術で亜空間を開けないのか!?」

「…詠唱しておる暇などないわ」

「…同じくだの。出来る限り離れるしかないかのぅ」


 デンテの言に、わしらは踵を返すと、一斉に走り出す。エクーニゲルに背を向けることになるが、今更どうこうするつもりもないだろう。現に、逃げ出したわしらの背には、何故かよく通る上機嫌なエクーニゲルの声だけが届いた。

 

「ははは。それがいいね。うんうん、それでいいね。では、三日後だ。三日後の早朝、私は動き出すでしょ。諸君らの奮闘を期待するでしょ」


 先頭を走るモスクルは、階下に降りるではなく執務室に走り込むと、勢いそのままに、窓ガラスを破って外に飛び出す。メットーラの民家の窓などは鉄格子で塞がれているのが一般的だが、ここ大聖堂は威厳のためか、はたまた治安が良いのか、鉄格子はない。


「クローディア!モスクルに続くのだ!」

「ええい!こっわいのぅ!」


 デンテも窓から飛び降り、なるようになれ—と、わしもそれに続く。なかなかに胆力が付いてきたなどと思っておったが、この時ばかりは顔が大きく引き攣った。


—ブワッ—


 瞬間、風のような柔らかい衝撃に背中を押されたかと思えば、それは瞬く間に強くなる。エクーニゲルが圧縮していた魔力を爆発させたのだろう。


「くっ!二人とも!」

「ぬん!」

「何をっ!?」


 吹き飛ばされながらもモスクルが手を伸ばし、デンテはわしを脇に抱えてモスクルの手を取る。ぐるぐると慌ただしく回転する視界の中、モスクルが何かしたのは分かったが、次の瞬間には一際大きな衝撃が来て、わしは意識を手放した。






 クローディアの話を聞き終えた私達は、誰一人として声を発することができなかった。大司教エクーニゲルの恐ろしさと、この先への不安から、思いが言葉にならなかったのだと思う。


《…真》

(…うん、大丈夫。大丈夫じゃないけど、大丈夫)


 心配そうに見つめてくるラヴァを一撫ですると、くさっ—と、ラヴァは顔をしかめて離れる。女子に臭いはないだろう—とジト目を送りつつ、恐る恐る手のひらの臭いを嗅いでみた。確かに臭かった。何だろうか、この独特の臭いは。


《膠ですよ、膠!貴女さっきから、その辺の瓦礫を手慰みに触ってたでしょう!?》


 確かに、クローディアの話を聞きながら、落ち着かなくなってくると、私は瓦礫を拾い上げては、ポンポンと手の上で数回跳ねさせる—なんてことを繰り返していたのだ。その時に付着したのだろう。


(…そっか、膠か。やたらとネバネバした瓦礫があったんだよね…)

《…勘弁してくださいよ〜。臭いが付いたじゃないですか》


 このシリアスな空気の中、膠のせいで怒られているのは、きっと私一人だろう。クシケンスが失笑しそうになり、慌てて咳払いで誤魔化していた。それはさておき、魔術で水を生み出し、手は洗っておく。少しはマシになるはずだ。


「む?丁度よく戻ってきおった」


 顔を上げるクローディアに倣い、私達も振り返る。モスクルと若返ったデンテの二人が遠目に見えるが、二人の表情は暗いように見受けられる。その後ろには、10人程度の冒険者と思わしき者達の姿があった。更に後ろには、宮廷魔術師と思わしき、煌びやかなローブを羽織る者達が数人いた。


「…あれだけ…なのか?」


 ボソリと呟いた、アイマスの言葉が脳内に木霊した。あれほど賑やかだった王都には、一体、どれほどの人間が暮らしていたことだろう。クローディアの言によれば、それらはエクーニゲルによって亜空間に閉じ込められたらしい。つまり、エクーニゲルの開く亜空間は王都全体をカバーしていたのだ。無事な者達が僅かにでもいてくれた安堵よりも、エクーニゲルの桁外れな強さを本当の意味で理解して、背筋が寒くなった。


「…遅くなった。ギルドや、平民街まで足を伸ばしていた」


 そう言って詫びるモスクルの表情は、やはり暗かった。彼は妻子持ちだ。話に聞いたことしかないが、綺麗な奥さんと、遅くに授かった娘さんを、彼は何よりも愛していたのだ。どう見ても、彼が連れてきた者達の中には、それと思わしき者など見受けられない。


「冒険者ギルドの中にの、アンラ出身ではなかったせいか、呪印を持たぬ者達がこれだけおった。こっちは宮廷魔術師じゃ。解呪ではなく、破呪により呪印そのものを破壊しておった故、ことなきを得たらしい」


 モスクルに代わり、連れてきた者達を紹介したデンテだったが、彼の表情もまた暗い。彼には同居する娘夫婦と、可愛らしい孫がいた。私も何度かお呼ばれしたので、面識はあるが、その者達の姿もまた、見当たらなかった。


「ベロート国王陛下、ブルーツ王妃陛下は、いらっしゃらないのかしら?♪」

「…いなかった。もぬけの殻だ。エクーニゲルに連れ去られたのか、はたまた、己で逃げ出したのかも分からん」


 ロドリゲスに受け答えしつつ、モスクルは王宮のあったであろう川中島へ顔を向ける。今は吊り橋があったであろう門の残骸が僅かに残っているのみで、後は瓦礫の山だ。何と声をかけて良いのか分からず、口を噤んだ。


「…女神教の奴ら…いや、呪印のある奴らが連れ去られた—ってことか?」

「そういうことなのだろうなぁ。この王都に暮らす者共は、皆、女神教の信徒だからのぅ」


 リーブリヒが誰ともなしに尋ねれば、答えたのはデンテだ。ちっ、くそったれ—と、忌々しげに毒づいた後、ハタと思い出したかのように、こちらへ振り返るリーブリヒ。私と目が合ったのをいいことに、私に尋ねてきた。


「…お前ら…呪印は?」

「あ、私は女神教の信徒じゃないよ?」


 リーブリヒの言いたいことは分かる。アエテルヌムはアンラに本拠地を構えながらも、誰も呪印に苦しんでなどいなかった。訝しむのも無理ない。けれど、アエテルヌムは一人を除き、女神教と接点などない。


「私は流れ者だ。生まれついての王都民じゃない。教会に行ったことなんて、ソティに用がある時くらいだ」


 私からバトンを受け継いだアイマスがしれっと応じ、隣の由香里にバトンを渡す。


「私も生まれついての王都民じゃないわ。女神教の信徒ではないわね」

「お、同じく…私、は…森羅の…出身、です。…森羅教徒…なので…」


 由香里からバトンを受け取ったクシケンスは、申し訳なさそうに、護摩札を象ったかのようなペンダントを取り出した。それを見たことがない訳でもなかったが、森羅教徒の象徴であるとは思っていなかったため、びっくりした。


《今まで気付かなかったんですか?薄情ですね》

(ち、違っ!?何か意味深なデザインだったしさ!聞き辛かったんだよ!)


 性格の悪い鷲はさておき、そうなると、視線はソティへ集中した。彼女はつま先から頭頂まで、全身が女神教の信徒であると如実に語っている。クローディアの話を聞くに、女神教の信徒であれば、余さず呪印に侵されているはずなのだ。それであるのに、どうして彼女には呪印の効果が浮かび上がらないのだろうか。


「私は見ての通り、敬虔な信心を持つ女神教の信徒で御座います。でも、呪印など、どこにもないので御座いますよ?」


 敬虔な信心を持つらしい本人も不思議そうだった。私をはじめ、皆の肩から力が抜ける。まさかこれも、神に愛されし美女パワーなのだろうか。それとも—


「あー、そいつは白だ。俺が保証する」


 もしかすると、ソティはエクーニゲルと共犯なのでは?—と馬鹿な考えを抱きかけた時、それを見越したかのような言が耳に届く。誰かと思えば、声の主はモスクルだった。皆がモスクルへと振り返り、視線を向けるが、彼は気まずそうに視線を逸らしたまま、頸を摩っている。白と断定する理由を答える気はないらしい。デンテに咎めるような視線を向けるも、デンテも苦笑するばかりだ。どうやら、デンテは理由を知っているらしい。後で聞いてみよう。


「…もう良いかの?」

「ああ、悪い。やってくれ」


 クローディアの声を助け舟とばかりに、モスクルは無言の追及から逃げる。それをクローディア自身も分かっているらしく、苦笑しつつ詠唱を開始した。


「え〜?そこの式はこっちの方がやり易くない〜?」

「うるっさいわい!気が散る!黙っとれ!」


 ここまでは大人しくしていたアシュレイだったが、クローディアに構ってほしいと見え、クローディアが魔法陣を展開すると、要らないちょっかいを出し始めた。クローディアも言葉の乱暴さはあるものの、嬉しそうに破顔している。少しだけほっこりした。


「よし、これじゃな」

「うっお!すげ〜!」


 やがて、クローディアは亜空間を開くと、中から大きな羊皮紙を取り出す。そこに描かれていたのは、高低差までもが一目瞭然の極めて精緻な地図だ。アンラ神聖国だけではなく、メキラ王国、帝国も南半分が描かれている。森羅や小国郡は未だに描かれていなかったが、元の世界で見た地図と比べても遜色ない出来栄えだ。皆の目も点になれば、何故かとても誇らしくなった。


「おおっ!?なんだ!あるんじゃん、地図」

「…言っとくがな。こんな巫山戯た地図を持つのは、こいつらだけだ」


 いつか、モスクルは地図などない—と、私に嘯いた。特にそれを蒸し返す意図などなかったのだが、モスクルには悪く捉えられてしまったらしい。そんなつもりで言った訳じゃないよ—と、慌てて詫びた。


「ふふふ。驚くのはここからじゃ。言っておくが、他言無用じゃ。もしも他言した場合…分かっておろうな、モスクル?」

「うぐっ…それも俺の責かよ…わ、分かった。冒険者ギルドの者達には、俺が厳命する。だが、宮廷魔術師団は、デンテの管轄だ!」

「ふおっ!?わ、わしのかっ!?そ、それはあまりに横暴だろう!?」


 何やら二人は大変慌てている。冒険者ギルドの元締めと、魔術師ギルドの元締め。立場ある二人が取り乱し、責任を押し付ける様は、実にみっともない。一体、あの地図に何があるのか?—と、由香里やアイマスと顔を見合わせた。


「ふふ。まあ、どっちでも良いわ。ほれ、見て驚け」


 クローディアが今度は駒らしきものを取り出すと、彼女のみならず、その背後に控えるクルスとファーレンもが、いやらしく笑う。


(随分とハードル上げるね〜)

《ええ。これで肩透かしを喰らったら、それこそお笑い種ですよ》


 ラヴァと冷めた目で地図を見ていたのだが、クローディアが駒を地図の上にコトリと置くや否や、彼女の背後に穴が空き、見知らぬ光景が現れる。巨大な城壁は、おそらくどこかの都市であろう。その傍らには、アトリアで見た輸送機があるではないか。あの輸送機は、どこに行くと言っていただろうか。


「…メ、メットーラ!?」

『ば、馬鹿なっ!?』

 

 徒歩で向かえば、それこそ季節が代わりかねない異国の地。それが今、私達の眼前に迫っていたのだ。開いた口が塞がらなかった。それは私だけではなかったことだろう。クローディアの愉快そうな声が、それの証左だ。


「ふふふ、驚いたじゃろ?」


 モスクルとデンテは、これを知っていたのだ。だからこそ、焦ったに違いない。確かにこれは他言無用だ。戦争が起こりかねない代物だろう。けれど、既に誰かに聞かせたくて、うずうずしていたりする。決壊は時間の問題と思われる。


「…ごめん、モスクル」

『すみませんね、モスクル』

「ははは、こりゃだめだ。すまないモスクル」

「ごめんなさいなので御座います」

「…す、すみません…」

「あはは。ちょっと私も自信ないかな。ごめんなさい、モスクル」

「何か分からんけど楽しそうだから〜。ごめ〜ん、モスクル〜」


 先に謝る我々に、わなわなと唇を震わせるモスクル。目はカッと見開かれているが、顔そのものは青く、玉粒の汗をかいている。凄く申し訳ないのだが、笑いそうになった。


「…おい、何で詫びた?何で詫びたお前ら!?」


 声を荒げるモスクルを無視して、笑いながら異国の地へ踏み込む。初めてのメキラ王国はアンラに比べて暖かく、見たこともない草花で彩られている。目につくもの全てが新鮮で、しばしその光景に見惚れた。


《…真》

(…うん、分かってる)


 きっと、楽しいのは今だけだろう。三日後には、エクーニゲルとの全面戦争が始まるに違いない。私の扱いがどうなるかは不明だが、できることに全力を尽くそうと決意を新たにした。

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