9.白翼竜、水辺で死霊王と語らう
「名前か・・・」
ヴェルは夜のテラスで一人考え込んでいた。あの娘の名前を考えるにあたって、いい考えが浮かばない。
「なかなか難しい顔をされているのですね」
ヴェルに話しかけたのはフレイアである。
「む、あの娘とグレンの世話はいいのか?」
「ええ、あの子たちは眠ってしまったので。
それよりも命名のことですけど」
「うむ、部下にも相談したのだが、なかなかいい名前が浮かばなくてな」
「まあ、そうでしょうね。
司祭などは慣れてはいますが、長老だとか家長だとかはそれこそ何日もかけて考えることですから。
なかなか面白いものですよ?赤子の名前を考える人々の会話というものは」
「なんだ、まるでそう言う人々を見てきたかのような言い方だな」
「ふふ、どうでしょう?」
まだ、10代そこそこの少女にも関わらず、フレイアの笑みが多くのものを含んでいるようにヴェルには見えた。
「ヴェル様もゆっくりと考えてはどうでしょうか。
時間はたっぷりありますから」
「・・・とはいえ、いつまでもあの子扱いも呼びにくいからな。
早く決めてやりたいものだ」
「お優しいのですね」
「そうか?」
「そうですとも」
こうして夜は更けていく。
―――
「ふーむ、文字の画数と組み合わせか・・・」
「ヴェル、ここに本は置いとくね」
「ああ、そうしてくれ」
次の日、結局いい案を持ってこれなかった部下をほかって、ヴェルは人間の命名について勉強をしていた。ヴェルの横にはカミラに持ってきた人間の命名本が積まれていた。
『後悔しない名づけの法則』
『幸運を呼ぶ名前』
『こんな名前をつけていませんか!?将来後悔する名づけのパターン』
それらの本をヴェルは爪先でつまむように読んでいく。
「ヴェル様、すっかり夢中ですね」
「あの人が夢中になるものがあるなんてなぁ」
「ま~、日がな一日空中散歩するよりはいいんじゃない~」
そんなヴェルを影から部下たちはひっそりと見守っていた。ヴェルは基本的に空中散歩でぶらぶらする以外やることがなかったため、こんなに何かに熱中するのは珍しかったのだ。
「例えば、その子供が生まれたときの状況、流れ星が見えるならそう名付けろ・・・。
うん、俺はこの子の産まれた状況は知らないから使えないな」
「あら、そうは言っても、この子にとっては、ここが生まれた場所も同然じゃないかしら?
だってヴェル様がこの子を見つけなければ、この子は死んでいたんですもの。
そういう意味ではこの子はここで生まれ変わったのですよ?」
今日もヴェルの傍らで赤子をあやすフレイアが答える。
「む、そういう考え方もあるか。
人間の考え方は面白いものだな」
ふと、ヴェルは自分が住んでいるところを思う、だが、意外と細かくは思い出せないし、ここがどういう由来で作られたかも、ヴェルは知らなかった。
(余程、ぼんやりとしか見ていなかったんだな)
ヴェルは普段の自分の不注意を内心笑う。
「そうだな、少し自分のいる場所について考えてみるか。
少しどいてくれ、フレイア」
フレイアをどかすと、ヴェルはその羽根を震わし、空へと飛び立った。
大空からじっくりと見る、我が家は意外と大きかった。谷間に広がる樹海、その最奥にたたずむ巨大な遺跡群と豊かな水場、そしてそれに絡みつくような大木。全景を見渡すと、ヴェルが今まで見てきた人間の集落のどれよりも大きかった。
「あの子はここで生まれなおしたのだな・・・」
ヴェルは一人呟くが、その声も風に乗って消えていった。
「そういえば、人間はこの木のことを世界樹とか言っていたな・・・」
この前の奴隷もそうだったし、人間はなんどかヴェルのことを世界樹に住む竜だと言っていたのを彼は思い出した。
「ふむ、世界樹で生まれなおしたのであれば、それに由来する名前もよいかもしれぬな」
大空から見ていると、水場に人影が見えた。最もこの場で人影でと言うと、人物は限られる。
フレイアはほとんど遺跡から出ないし、レギスはこの水場にはあまり近寄らない。人狼の姉妹は人前に出ない限りは狼の姿でいる。
もうずいぶんと水場に近づいているので、ヴェルの目からもその姿ははっきりとしていた。
「オルゴ―か」
「おぉ、ヴェル様、このような老骨に話しかけてくるとはめずらしいですのぉ」
「まあ、久しぶりに我が家を見て回っていたらお前が目についてな」
「ほほ、それも珍しい。以前のヴェル様でしたら、何にも興味がありはしない様子だったのに。
・・・そう、魔王の同盟者という地位も」
「売られた喧嘩を買ってたら、いつのまにか魔王に声をかけたられただけだからな。特に持っていたいものでもあるまい。
ところでここで何をしていた」
「それはもちろん、赤子の名前ですじゃ。
どうにも儂はしばらく人間を辞めていたせいか、人間的な感性がなくなってしまいて。
こうして、遺跡を見て、人間の営みを思い出していましてなぁ」
「ほほう、興味があるな。
こんな死んだ遺跡で人間の営みがわかるものなのか」
「ええ、そうですとも、そこの水場にある石壁を見てみなさい」
ヴェルがオルゴ―の指さす方向を見ると、水場の真ん中に長方形の黒い石が置かれていた。
そこには3人の女性の絵が刻まれていた。
「あれは『旧い女神』の絵でしてな。世界樹の根本の湖で世界樹の付ける実を守っていたというの伝説があるのです。
人間はそれにあやかって、村一番の木の近くにはこうして三女神の絵を置いていたのですよ」
「世界樹の実を守るだけの女神をか?
村の平安を願うならば、戦神でも祭った方がいいだろう」
「ほほう、確かにその通りかもしれませんな。
ですが、女神の守る世界樹の実は、時間を象徴するという説がありましてな。
実というのは、それを付ける樹がそれまでの時間を健康に過ごさなければなりませぬ」
「つまり、今までの積み重ねがないと良い実がならない、と?」
「そういうことですの。
人々の善き積み重ね、過去を司るものが女神の一人、ラーン」
「となると、残りの女神は」
「そうですじゃ。
過去から生まれこれから新しい樹、つまりいずれ未来となる実、現在を司るのがイズナ。
そして、実が地面に落ち、育つ新芽、つまり未来を司るのがエイルとなりますわけじゃ」
「なるほど、戦神による武力の守りよりも、人間は平穏な営みが続くことを望んだのか」
「そうですのぉ。
まあ、こうして魔物となって戦いの日を送れば、こういったことも忘れてしまうのですがな」
そう言って、オルゴ―がカカっと笑った。
「なるほど、人の善き営みかぁ」
ヴェルは考える。あの娘が大きくなってここを離れるとき、どういう人間になってほしいか。ここを離れたのであれば、どう生きようが彼女の自由であるが、それでもやはり自分の手で育ったものが魔物と戦うのは心苦しい。であれば。
「・・・よし」
「どうしたんですじゃ?」
「俺は、あの子の名前の案が浮かんだよ」
「ほう、このおいぼれの話から何か得られれば、嬉しいのじゃが」
「ああ、お前の話は十分役にたったよ」
そう言って、ヴェルはにやりと笑い、飛び去って行った。一人残されたオルゴ―はほとんど髭の抜け落ちた罅だらけの顎をさすりながら、水場を眺める。
「しかし、この遺跡、何千年も前からあるはずなのに、『旧い神』を祀っていたんじゃのぉ」