巨大タコが現れた場合
石造りでひんやりとした空気が流れる中、蘭雪は黙々と本のページをめくっていた。机の上に山積みになっていた本が二日で半分以下になっている。
その光景にも慣れたフェリクスは穏やかな笑みを浮かべながら蘭雪の前にティーセットを持ってきた。
「ティータイムのお時間です。少し休憩されてはいかがですか?」
フェリクスの言葉に返事はない。
これもいつものことなのでフェリクスは持ってきた簡易テーブルの上にティーセットを並べて静かにその場を離れる。
図書館の入口まで来たところで神官長が声をかけてきた。
「勇者様は相変わらずですかな?」
神官長の問いかけにフェリクスが頷く。
「はい。変わったことといえば本を読むペースが少し早くなったぐらいです」
「また早くなりましたか。とんでもない集中力ですな。しかし、いつまでここで本を読まれるおつもりか。たまには気分転換に外へ行かれたらよいのに」
「誘いましたか断られました」
「それにしてもフェリクス殿も努力家ですな」
「なにがです?」
「勇者様のことです。計画のためとはいえ、そこまでされるとは」
「あのような女性は今まで見たことがありませんから興味もあります。それに、あの魔力。計画とは関係なく是非、我が一族の一員になっていただきたいところです」
神官長が苦笑いをする。
「フェリクス殿ほどの容姿と家柄であれば、良縁はいくらでもあるでしょうに。まあ、百戦錬磨と名高いフェリクス殿ならいらぬ心配でしょうが」
「おや、神殿にそんな噂が流れているのですか?」
「人々の悩みを聞いて道を示すのも神官の仕事ですからの。あなたに関するうら若き乙女の相談が多いのですよ」
「それは苦労をお掛けします」
フェリクスが微笑みながら謝っていると、若い神官が早足で近づいてきた。
「神官長、大変です。港で大タコが暴れています」
「魔物か!?」
思わず出た大声にフェリクスが神官長の口を塞ぐ。そして、その場にいた全員が蘭雪の方を見た。だが、蘭雪は気づいていないのか黙々と本を読んでいる。
若い神官は声を潜めて報告をした。
「魔物ではありません。漁師たちの話では近海の主で滅多に姿を現さないそうなのですが、魔王の封印が解けた影響か突然姿を現しました」
「とにかく、行きましょう」
フェリクスと神官長は走って港へと向かった。
港には巨大なタコが足を船にからませて陸にあがろうとしていた。
周囲には兵士や魔導師が攻撃をしてタコを海に戻そうとしているが、まったく効いている様子がない。
「海に戻さないといけないのですか?」
フェリクスの質問に報告にきた若い神官が答える。
「漁師たちの話しでは、このタコは近海の主として海からの災いから何度も港を守ってきたそうです。できれば殺さないで欲しいと嘆願されました」
「そんなことを言っても限界がありますよ」
話している間にもタコの足が兵士を捕まえようと伸びる。
「火の精霊よ!我が呼び声に応えよ!壁となり彼のものを守れ!」
兵士が掴まれる寸前で炎が現れてタコの足が逃げた。
「このままではけが人が出ます。駆除しますよ」
フェリクスの確認の声に予想外の返事があった。
「短絡的ね」
声の先にはいつの間にか蘭雪がいた。
「全員下がりなさい」
よく透き通った声に威圧感が重くのしかかる。その場にいる全員どころか巨大タコまで一歩下がった。
突然の威圧感に困惑しているような巨大タコを見上げて蘭雪は言った。
「この異変はすぐに収めるわ。だから、あなたは自分の住処に帰りなさい。もし、できないのであれば私が相手をするわよ」
その言葉に当然、返事はない。
しばらく睨み合った後、タコはゆっくりと船から足を外して海に潜っていった。
その光景に今まで悪戦苦闘していた人々が唖然とする。
「なんで、こんなにあっさりと……」
「おれたちの苦労は……」
「まさか、言葉を理解したのか?」
フェリクスの呟きに蘭雪が答えた。
「知らないの?タコって意外と頭が良いのよ。災いから何度も港を守ってきたなら尚更ね。今回は魔王の封印が解けた異変を感じて自分で対処しようとして陸地に上がろうとしたのよ。出てきたところで、どうにかする前に干からびて干物になるだけなのに。まあ、それはそれで美味しく食べられるから良かったかしら」
そう言うと蘭雪が歩き出した。
「どちらへ?」
フェリクスが早足で追いかける。
「ちょっと街を見てくるわ」
「案内します」
蘭雪は足を止めることなく少し考えて言った。
「じゃあ、お願いするわ」
「よろこんで」
二人は後片付けも忘れて呆然としている人々に見送られて港をあとにした。
少し歩くと大通りがあった。そこでは露天が並び人々で賑わっている。フェリクスは簡単に店や建物の説明をしながら歩いた。
「今は封印の結界があるため船の出入りが制限されていますが、普段はいろんな人種の人がいて、出し物などもしていたりするんですよ」
「そう」
素っ気ない返事をする蘭雪をフェリクスは注意深く見た。
大通りに入ってから蘭雪の存在が薄くなったように感じたからだ。しかも、まるで蘭雪の体が透けているように見える。そして、これだけの美女なのに大通りを歩く人々が誰も騒がない。いや、蘭雪の存在自体に気付いていないようなのだ。
考え込んでいるフェリクスの様子を無視して蘭雪は行き交う人々を見ながら質問をした。
「他国との交流はどうなっているの?私が読んだ本ではアルガ・ロンガ国が急激に勢力を伸ばしているようにあったけど。この国が侵攻されるようなことはないの?」
フェリクスは安心させるように微笑んで説明した。
「いろんな国と友好に交流していますよ。それに攻撃はありえませんね。定期的に魔王が復活するような国を欲しがる国はありませんし、我が国を傷つけて魔王の封印が出来なくなったら大変ですから」
「それが、この国での認識?」
「我が国どころか他国にも浸透しています」
「そう。だから街が攻撃防衛に対して、こんなに甘い構造なのね。案内はここまででいいわ。ありがとう」
突然の案内打ち切り宣言にフェリクスの目が丸くなる。
「どうしてですか?まだ半分も案内していないですよ」
「あなたといると悪目立ちして、ゆっくり見れないのよ。あとは適当に見て帰るわ」
「悪目立ち?」
確かにすれ違う女性やお店の女性店員からうっとりとした視線や黄色い囁き声が集まっている。だが、それだけで実害はない。
首を傾げるフェリクスに蘭雪が言い捨てる。
「人が気配を消して目立たないようにしているのに、あんたがいたら意味ないの。じゃあね」
そう言って手をひと振りすると蘭雪はスッと人ごみの中に消えた。
「待って下さい!」
フェリクスが慌てて追いかけるが、結局、蘭雪を見つけることが出来なかった。
見つからないものはしょうがない、とフェリクスは軽く息を吐いて思考を切り替えた。
「仕方ありません。ここは戦略を変えてプレゼントでも買ってみましょう」
フェリクスが自分の胸ポケットを触る。が、そこにあるはずの物体がない。
「まさか、落とした?」
慌てるフェリクスの脳裏にふと蘭雪と別れた時のことが浮かんだ。あのとき手を振る蘭雪の手に見覚えのある物体が微かに見えた。
「財布を取られました……」
がっくりと膝を落とし、両手を地面につく。
滅多に見ることができない美形の膝つき姿に通行人から奇異の視線が向けられた。




