親方
――その時だった。
広場の入り口から、祝祭の喧騒には似つかわしくない、硬い靴音が響いた。
一歩、また一歩と、規則正しくこちらへ近づいてくる。
やがて、温かな春の日差しに満ちていた広場へ、冷ややかな声が落とされた。
「この水道工事の責任者を出しなさい」
声の主は、一目でそれと分かる仕立ての良い上質服に身を包んだ、王国の文官だった。生地の色や刺繍の階級章を見れば、王都の中枢にいる高い役職の人間だとすぐに分かる。
一瞬にして、その場にいたスラムの人々、冒険者、街の住民たちの視線がその男に集中した。向けられたのは、歓楽の空気を踏みにじった怒りと、自分たちの居場所を守るための剥き出しの敵意だった。
人々が放つ凄まじい殺気と冷たい視線に、文官はさすがに顔を青ざめさせ、足元をたじろがせた。それでも引き下がるわけにはいかないと、震える声を張り上げる。
「き、許可もなく王都の地下を勝手に掘削し、貴重な水源を私的に垂れ流すなど……! 国の法に背く大罪です! そんな勝手な真似は、決して許されません!」
その言葉に、ガレスがガタッと椅子を蹴飛ばして勢いよく立ち上がった。その目はすでに戦闘態勢の光を帯びている。
「おい、ヒロ。止めんなよ。一発殴って目を覚まさせてやる」
ヒロもまた、冷ややかな目を文官に向けながら、バキバキと肩を鳴らして立ち上がった。
「そっちこそ、邪魔しないでよね、ガレス」
二人が一歩を踏み出そうとしたその瞬間――。
ガレスとヒロの頭にそれぞれ重しがかかった。
しかし、それはいつもの荒々しい拳骨ではなかった。
親方が、大きな手のひらを広げ、二人を押しとどめるようにそっと頭に添えていた。
親方は振り返りもせず、そのまま重々しい足取りで、文官の方へと歩き出す。その背中は、不思議と大きく、頼もしかった。
そして、親方はガハハと豪快にその大きな肩を揺らしながら笑い、文官の目の前にドンと立ち塞がった。
「おいおい、そんな怖い顔すんなって若造」
親方はフッっと鼻を鳴らし、堂々と胸を張って言った。
「俺が、この現場の責任者だ」
連行されていく親方の背中を見送りながら、ヒロは悔しそうにギュッと拳を握りしめた。
その固く引き結ばれた拳を、リリアがそっと自分の両手で包み込む。温かな体温が、ヒロの怒りを少しだけ和らげた。
隣では、ガレスが全身の筋肉を硬直させ、怒りに肩を震わせながら大剣の柄を死に物狂いで握りしめていた。
(……っ! 抜けねえ……!)
一触即発の緊迫した空気が広場を支配しかけたその時、女将の威勢の良い声が響き渡った。
「さあ、冷めちまうだろ! 飯にするよ!!」
その一声で、場の空気が変わる。
なんと、工房の職人たちはすでに親方の連行などどこ吹く風とばかりに、大鍋からよそった料理にかぶりついていた。
「おいヒロ! 立ってないで食えって! 最高の肉だぞ!」
あまりの温度差にヒロは思わず怒りと呆れが混ざった声を上げて詰め寄った。
「親方が! 連れて行かれたんですよ!? なのに、なんでそんなに呑気に食べてるんですか!?」
しかし、職人たちは食べる手を全く止めようとしない。
「うまっ! おい女将、このスープめっ茶苦茶うめぇな!」
「おかわりも頼むぜ!」
女将も「ふんっ」と鼻を鳴らしながら、巨大なおたまを振るう手を一切止めない。
「もっと食いな! まだまだ作るよ!」
張り詰めていたはずの空気が完全に崩壊し、スラムの人々も冒険者たちも、街の人々も、言葉を失ってポカンと口を開けていた。
そんな周囲の呆気にとられた様子にようやく気づいたのか、汁物を口に運んでいた一人の職人が、けろっとした顔で言い放った。
「……お前ら、親方のこと舐め過ぎだろ」
あまりにも当然のことのように言い放つ職人に、ヒロは思わず眉をひそめた。
「舐めるも何も……親方は僕の代わりに連れて行かれたんですよ?」
「だから、それが違うって言ってんだよ」
職人は呆れたように鼻を鳴らすと、それ以上説明する気はないらしく、再び手元の料理へと視線を戻した。
「ほら、冷めるぞ。食え食え」
まるで話にならない。
ヒロは納得できないまま、親方が消えていった広場の入り口へと視線を向けた。
当然、その大きな背中はもうどこにも見えない。
自分が勝手に始めたことだった。
国へ許可を取ることもなく、王都の地下を掘り進め、水源から勝手に水を引いた。
スラムの人々に安心して飲める水を届けたい。その一心で、それが間違っているなどとは一度も考えなかった。
けれど、どれほど善意から始めたことであっても、決まりを破ったという事実まで消えるわけではない。
それなのに。
責任を問われた瞬間、親方は何の迷いもなく自分たちの頭を押さえ、そのまま前へ出た。
『俺が、この現場の責任者だ』
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
(……違う)
ヒロは膝の上で拳を握りしめた。
親方は何も知らなかった。
自分がスラムの地下を掘っていたことも、そこへ水道管を通していたことも、今日初めて完成したことだって。
全部、自分が勝手にやったことなのだ。
「……やっぱり、僕も行ってきます」
そう呟いて立ち上がろうとした瞬間、肩にずしりと重い手が置かれた。
振り返ると、工房の職人が肉を頬張りながら、片手だけでヒロを椅子へと押し戻している。
「座ってろ」
「でも――」
「親方が責任者だって言ったんだ。だったら、てめぇが勝手に出しゃばるんじゃねぇよ」
「……っ」
強い言葉だった。
けれど、その職人の顔には心配も焦りも浮かんでいない。
それどころか周囲を見れば、工房の者たちは本当に誰一人として親方の身を案じている様子がなかった。
いつも通り酒を飲み、料理を頬張り、隣の仲間とくだらないことで笑っている。
その姿が、ヒロにはどうしても理解できなかった。
やがて、女将によって半ば強引に料理の盛られた皿を押しつけられ、ヒロも渋々その場に腰を落ち着けた。
隣ではガレスが、先ほどまで大剣の柄を握りしめていたとは思えないほど大きな肉を口いっぱいに頬張っている。
もっとも、その表情は明らかに不機嫌だった。
「……うめぇ」
「……うん」
「すげぇうめぇ」
「……そうだね」
二人は揃って苦々しい顔をしながら、それでも黙々と料理を口へ運んだ。
こんな時なのに、女将の料理は腹が立つほど美味しかった。
温かなスープが冷えていた身体へ染み込み、柔らかく煮込まれた肉を噛めば、濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。
(……くそっ)
ヒロは悔しそうにもう一口頬張った。
(……なんでこんな時まで美味しいんだよ……)
そんな二人の様子がおかしかったのか、向かいに座ったセレナが小さく吹き出した。
少しずつ、広場にも先ほどまでの賑わいが戻り始めていた。
最初こそ親方の連行に動揺していたスラムの人々も、あまりにも平然としている職人たちと、何事もなかったかのように料理を振る舞い続ける女将に押され、再び食事へと戻っていく。
子供たちの笑い声が聞こえ始め、冒険者たちの大きな声も戻ってきた。
それでもヒロだけは、どうしても心の底から笑うことができなかった。
誰かが広場へ入ってくるたび、反射的に顔を上げる。
違う。
また足音が聞こえ、振り返る。
それも違う。
そんなことを何度繰り返しただろう。
料理は少しずつ減り、春の空を高く照らしていた太陽も、いつしか西へと傾き始めていた。
「……遅い」
ヒロがぽつりと呟く。
隣にいたリリアが、その声にそっと視線を向けた。
「大丈夫だよ」
「……なんで、そう言い切れるんですか」
少し強い口調になってしまったことに気づき、ヒロはすぐに目を伏せた。
「……すみません」
リリアは何も責めなかった。
ただ、そっとヒロの隣に座ったまま、同じように広場の入り口へと視線を向ける。
その時、少し離れたところで酒を飲んでいた職人たちの笑い声が耳に入った。
ヒロはとうとう我慢できなくなり、勢いよくそちらを振り返った。
「なんでそんなに平気なんですか!」
広場の一角が、一瞬だけ静かになった。
「親方が連れて行かれて、もう随分経ってるんですよ!? もしかしたら、僕のせいで処罰されるかもしれないのに……!」
感情のままに声を荒らげたヒロを、職人たちは黙って見つめた。
やがて一人が、手にしていた杯をゆっくりと置く。
「だからよ」
男は困ったように頭を掻きながら、ヒロを見る。
「何回言わせんだ。親方を舐めんなって」
「だから、それじゃ分かりませんよ!」
「分かんなくていいんだよ」
返ってきたのは、あまりにもあっけらかんとした言葉だった。
「俺たちだって、あの人が向こうで何やってんのかなんざ知らねぇよ」
「……え?」
ヒロは目を丸くした。
てっきり何か事情を知っているからこそ、これほど落ち着いているのだと思っていた。
しかし職人は、そんなヒロの考えを否定するように肩をすくめる。
「でもな。あの人が『俺が責任者だ』って言って出てったんだろ?」
男はそれだけ言うと、再び杯を手に取った。
「だったら俺たちゃ、自分の親方を信じて待ってりゃいい」
ヒロは何も言えなかった。
信じる。
たった、それだけだった。
何をするのかも知らない。
どうやって切り抜けるのかも分からない。
それでも、あの人なら大丈夫だと信じている。
工房の職人たちが平然としていた理由は、それだけだったのだ。
ヒロは再び広場の入り口へと目を向けた。
それでも不安が消えたわけではない。
胸はにはまだ、重たいものが残っている。
ただ先ほどまでとは少しだけ違う気持ちで、ヒロは静かにその帰りを待った。
やがて――。
広場の喧騒に混じって、遠くから一つの足音が聞こえてきた。
また誰かが来たのだろう。
何度も期待しては違ったせいか、今度のヒロはすぐには振り返らなかった。
けれど。
「……遅ぇぞ、親方」
誰かが、笑いながらそう言った。
ヒロの顔が勢いよく上がる。
広場の入り口。
傾き始めた春の日差しを背にして、見慣れた大きな影がこちらへと歩いてくる。
先ほど文官に連行されたはずの親方だった。
しかも、その顔には焦りも怒りもない。
片手には、なぜか分厚い羊皮紙の束が抱えられていた。
それを見た工房の職人たちは、顔を見合わせながらニヤリと笑う。
「ほらな! 言っただろ!」
事情が全く飲み込めない人々がどよめきながらざわめき始める中、親方は一直線にヒロの元へと歩み寄る。そして、容赦なくヒロの頭めがけて強烈な拳骨を落とした。
「いてっ!?」
頭を押さえてうずくまるヒロに、親方は呆れたように、しかしどこか嬉しそうな声音で羊皮紙の束を押しつける。
「半端な仕事してんじゃねぇ!!」
渡された羊皮紙をヒロがめくると、そこには信じられないものが書かれていた。
水道管の正確な位置の修正図面、王都全体の地図の改変案、そして、まるで最初から国が認めていたかのような後付けの「施工完了報告書」の数々。
あまりの完璧な書類の山に絶句するヒロを前に、親方は腕を組んで次々と指摘を飛ばした。
「おい、考え方そのものは間違っちゃいねぇよ! だがな、詰めが甘いんだよ!」
親方の太い指が、図面の一点をビシリと指し示す。
「第一、水場の場所はそこじゃねぇだろ! もっと住民が使いやすい中央の広場に引き直せ!」
「それだけじゃねぇ! 上水ができて水が出るようになったら、汚れた水を流す『下水』はどうすんだ! そこまで考えとらんのか!」
「そもそも、国にちゃんとこうして正規の申請と書類を通さねぇとよ、後々の整備や定期点検はどうすんだ!!!」
怒涛の説教だったが、それは逮捕された男のセリフではなかった。
国の役人を丸め込み、その場で不足していた全ての公式書類と許可を完璧に整え、さらに技術的な不備まで見抜いて書き直してきた――「本物の責任者」の仕事そのものだった。
ヒロは震える手で羊皮紙の束をめくり、その最後の一枚に目を落とした。
そこにあったのは、先ほどの見慣れない書類とは違う、王国から正式に発令された依頼書だった。
『公共事業:スラム街下水施工』
そして、その発注主の欄には、この工房の名前がしっかりと、力強く刻まれていた。
それは個人の善意や突貫工事の限界を超えた、国が認めた正式な「指名依頼」だった。
最初は、親方が自分の不法な行動の身代わりとして連行されたのだと思っていた。
だが、違った。
親方は最初から、本当の意味での責任者になるつもりだったのだ。皆が一時の感情やその場しのぎで作った水道を、将来にわたって絶対に揺るがぬものにするために。
「全部、責任を持つこと」――。
半端な仕事で終わらせず、その先の未来に生きる人々へ暮らしを「運ぶ」仕事だった。
ポタリ、と羊皮紙の上に大粒の涙が落ちる。
抑えきれなくなった感情が溢れ出し、ヒロは声を上げて泣いた。
親方は、誰よりも親方だった。




