エミリアの花として
少女は汚物の中で寒さに震えていた。
反射的に顔を背けたくなるほどの悪臭で嗅覚は破壊され、暴力を受けた全身の痛みも麻痺していた。
その代わり、発熱しているということだけが理解できた。
「りんご……」
風邪をひけば、母がいつもすりおろしたりんごを用意して、それをわざわざスプーンですくって食べさせてくれたことを思い出す。
道行く人々は、肩まで肥溜めに沈んで、口の端から胃液とよだれを垂れ流している少女のことなど目もくれない。興味津々に近づいてくるのは子供ばかりで、枝でつついたり、小石を当てたりして遊びはじめる。
母は「いい子にお留守番していてね」と少女の頭をなでて、一緒にいた若い男と出かけたきり二度と帰ってはこなかった。
「お母さん……」
少女は悲しくなって、誰にも気づかれずに涙を流した。
そのとき、ざんぶん、と何かが肥溜めの中に落ちて、少女の体が揺れた。
ぼやける視界の先には、全身真っ白の美しい少女がいた。雪の妖精のように可憐な少女は、質の良いドレスや体を汚しながら、ためらいなく肥溜めの海を進む。
同じ汚物にまみれているのに、雪の妖精の少女の美しさは損なわれることはなかった。
やがて、雪の妖精が少女の腕をつかみ、上目遣い気味に顔をのぞきこんだ。
「もう大丈夫」
人形のようにととのった顔は無表情だったが、その澄んだ青い瞳には軽蔑も嘲笑も浮かんでいない。
少女は、自分よりも小さな雪の妖精にすがるように腕をのばして、泣きじゃくった。
なぜこの子が自分を助けたか、なんて少女にはどうでもよかったし、考えるだけの力は残されていなかった。
気がつくと、久しぶりに乾いた大地の上に引きあげられていた。
隣には雪の妖精が寄り添っていて、少女は心地良い温もりに誘われたように寄りかかる。
少女の目の前には長い白銀の髪をもつ美女が立っていて、面白そうに少女たちを見下ろしている。
「エミリア、その子がいいのか」
エミリアと呼ばれた雪の妖精は、こくりとうなずいた。
「この子がいい」
誰かに必要とされたのははじめてで、少女はエミリアの手をにぎりながらすすり泣いた。小さな手がなぐさめるように少女の頭をなでる。
頭上で、くすっと笑う気配がした。
「女神の力のせいか我々は直感が鋭いからね、その子がきみにとって大切な花なのかもしれない。いいよ、可愛い子は大好きだ、おいで」
母とは異なる白い手に導かれ、少女は新しい名をもらい、エミリアの心を支えるための花として生まれ変わった。
「こうして、エミリア様と前王妃様に気に入られた少女は、エミリア様の侍女となりました」
語り終えたグレーテルが得意気に微笑むと、ヴォルフは目を見張った。
「その少女がグレーテル殿だったのですか」
「えぇ。私は魔術が使えませんが、エミリア様を幸せにするためなら、なんだってできるのです」
グレーテルはエミリアの両手をとると、まるでエミリアに言い聞かせるように言った。
聖戦時代の記憶に悩まされるエミリアを勇気づけるように、手を優しくにぎられる。
おそらく、ヴォルフの話を聞いてからエミリアの様子がおかしいことに気づいているのだろう。
いつだって心に寄り添ってくれるグレーテルに応えるように、エミリアは精一杯の笑顔を浮かべた。
「ありがとう、グレーテル」
「忘れないでくださいね。グレーテルはおそばにおります」
「うん……」
エミリアがグレーテルに手を差しのべたときのように、今度はグレーテルがエミリアを支えてくれる。
彼女の献身的な愛情に目頭が熱くなり、あふれる涙を必死でこらえた。




