クレアの過去⑤
それから1ヶ月程経った頃。
クレアとトルシアンは、未だ全勝を誇っていた。
あれ以来、トルシアンは一度もあの頼みごとについて話してはいない。
むしろ、そんなことは無かったとでも言うような素振りだった。
クレアは一人、軽い片手で扱える槍を持ち、闘技場のフィールドへと続く門の前に立っていた。
門の外側の観客達はいつもにも増して騒がしく、興奮しているように聞こえる。
前の試合がそんなに盛り上がったのだろうか。
そうクレアは他人事のように思いながら、門が開くその時を待っていた。
相手が何であろうと、クレアは打ち破るつもりでいた。
生き残るために、そして自らの自由のために。
そう考えている間にクレアの目の前の門は開く。
そして、遥か遠くの反対側の門の先に、クレアは信じられないものを見た。
茶髪に、少しの白髪が混じった武器は何も持たない大男。
その男の事は、恐らくクレア誰よりもよく知っていた。
「……。」
クレアが沈黙し、ただ門をくぐれずにいると、門番の男が、早く入れ、といったようにクレアの背を押した。
クレアが1歩だけフィールドに入れば、真後ろで門が閉まった。
…なるほど、盛り上がっているのはこれのせいか…。
今一番勝ち抜いている男と、不死身と呼ばれる少年との戦いを見るため、いつも以上に観客の熱気が凄かったのだ。
茶髪の男、トルシアンはこちらの姿を見つけると、驚くことなくいつも通りに笑った。
…トルシアンは俺と当たることを予想していたのだろうか。
ずっと獣達と戦っていたのにも関わらず、急に人間であるクレアと当たったのは、恐らく運営側の思惑だろう。
クレアとトルシアンがずっと一緒に居るという事は闘技場の中には知れ渡っていた。その情を利用しようという魂胆だろう。
歴史あるこの闘技場は、1000勝すれば外へ出られるという一応の救済はあるが、実際それを達成したものは居ないのだ。
そんなトルシアンの表情にクレアはあまり違和感を感じなかった。
トルシアンの技術があれば、クレアを一撃で気絶させることなど容易なのだ。
この試合ならば、いつもの試合よりも気を張らなくても良いだろうとクレアは思っていた。
なにせ二人共、殺し合うつもりなどないのだから。
だが、少しぐらいは戦っているふりをしないことには、観客を満足させられない。
そう思ったクレアは、軽く、槍を前に向かって構えた。
全く槍を持つ手に力は込めておらず、叩かれでもすればすぐに槍はクレアの手を離れて落ちるだろう。
トルシアンの側の門も閉まると、トルシアンはにっと笑ったままクレアの方にゆっくりと歩き始め、5mほど離れた所で止まった。
「…。」
「…。」
一瞬目を合わせて沈黙した二人だったが、その沈黙を破るようにして、トルシアンが勢いよく拳をクレアの顔に叩きつける勢いで振るった。
「…!!」
それをかろうじて屈んでかわすと、右手で持っている槍の柄を回転させてトルシアンの腕を叩いた。
「ほぉ、今のを避けるか」
「…トルシアン、わかってるよね?」
「さぁ、何のことかな」
クレアの問いかけに、トルシアンはいたずらっぽく笑ってとぼけた振りをする。
そんな余裕があるという事は、クレアを気絶させればいいということは分かっているということだ。
クレアはそう解釈して、防戦に専念する事にした。自分には、トルシアンとやり合うだけの力は無いということを見せるために。
これは作戦だとかそういうことではなくて、実際にクレアはトルシアンに遠く及ばなかった。
技術面でも、純粋な力比べでもだ。
トルシアンは太い腕を勢いよく振り回し攻撃を続けるが、クレアはそれをかわしながら、もしくは捌きながら、後退していく。
そして、槍を両手で回して、柄の部分でトルシアンの怪我をしていないところで且つあまり突かれても痛くない場所を的確に突いた。
だが、トルシアンは微動打にせず、クレアの槍を掴むと、槍ごとクレアを横へ放り投げた。
「あんなチビだったのに、強くなったな! クレア。もう何も心配はいらんようだ」
「……」
クレアは何も言わず、ただトルシアンから目を離さずに起き上がった。
トルシアンであれば、少し隙を見せればそれを突いてくれるはずだ。
次に、トルシアンが掛かって来た時に隙を見せよう。そう思ったクレアの耳にトルシアンの言葉が届いた。
「じゃあ、そろそろいかせてもらうぞ。」
その言葉を、攻撃するという意味で受け取ったクレアは槍を構えるふりをして脇を開き、隙を見せた。
するとトルシアンはすごい勢いで突進してきたかと思うと、クレアの槍を持った方の手を掴んだ。
これにはクレアも予想外で、痛みを覚悟していた体の緊張が一気に解けた。
「トルシア…」
「お前は自由になれ。掴んだ自由をこんな老いぼれが縛るわけにはいかんからな…これでさよならだ」
クレアがトルシアンの名を呼ぼうとすると、それに被せるように、トルシアンが少しだけいつもと違う、寂しそうな笑顔で言った。
その意味をクレアが理解するのに、数秒時間がかかった。
だが、トルシアンはクレアが言葉の意味を理解するのを待ってはくれなかった。
槍をクレアの腕ごと引っ張ると、そのままトルシアンは自分の喉を切り裂いた。
「…え……」
自分に降りかかる赤い液体に、クレアは目を疑った。
こんなのは夢だ。
悪い夢でも見ているんだと思った。
だが生暖かく、現実的な風景と血の匂いに、これは現実であると実感せざる負えなかった。
「ありがとな…クレア…これで妻の元に行ける…」
トルシアンはクレアに寄りかかるようにして倒れると、擦れた声でそれだけ言った。
それきりトルシアンの目は閉じられ、二度と開く事は無かった。
最後のトルシアンの表情は、クレアには理解出来ないほど晴れ晴れとした笑顔だった。
クレアは呆然とし、重いトルシアンを支えながらその場に座り込み、自身の周りに広がっていく赤い液体を見ながら、まだ手に残る槍が何かを切り裂く感触を消そうと手を強く握りしめていた。
周りからは大きな歓声が上がる。
両方の門が開き、門の番をしている男二人がこちらへ駆けてきたが、その時その二人がなんと言っていたか、クレアは全く覚えていない。
いや、むしろ何もクレアには聞こえていなかった。
トルシアンは、試合が始まる前から、いや、クレアに殺してくれと話し、クレアが拒否してから、こうすることを決めていたのだ。
クレアには悪いことをすると思いながら、だが、クレアが一人でももう自由に向けて進んでいけると信じて。
この日、クレアは一番大切に思う人を失った。
その代わりに学んだ事である人の命の重さは、現在のクレアを形作る糧となっていっていた。
それから一年半ほどの月日が流れ、クレアはまた闘技場のフィールドに立っていた。
重く、両手でしか扱えないような大きな槍の柄で相手のみぞおちを突き、気絶させる。
クレアは倒れた相手を落ち着いた瞳で見つめると、目に少し掛かった赤髪を少し乱暴にかき上げた。
武器を変えたのは、あの何かを切り裂く感触が今も手に残っているから。
自身の髪が嫌いなのは、あの悪夢のような自身の周りに広がっていく赤と同じだからだ。
一年半ほど前のあの日の出来事は、少なからずクレアにとってトラウマになっていた。
門番の男達が駆け寄ってくると、点数の書かれた紙を渡されるが、それを倒れた相手の懐へ差し込んだ。
このクレアのいつもの行動に、門番たちは、変わった奴だ、と呟いた。
点数を他の者にあげる人など、ここには居ないのだ。だが、クレアはそんなもの要らなかった。最低限の生きるために必要なものが得られれば、それで十分だったのだ。
大きな歓声が観客から上がるが、クレアには何も聞こえていなかった。
もう長らく、人の声などクレアには聞こえていない。いや、一度も聞こうとしていないのだ。
トルシアンが居なくなってから、ただの一度もだ。
もうクレアは、周りに対する興味は全く持ち合わせていなかった。
そんな風になっても、トルシアンの『自由になれ』という言葉は覚えていた。
だがもうクレアは、何故自分が自由になりたかったのか、覚えてはいなかった。




