46.
心地良い、とまではさすがに言えなかったが、春の温暖な気候に守られて、晴れ渡る朝の日差しに、俺の心はいくらか照らされて、温かくなった。雨が降っていたらどうしようか、と悩んでいたところなので、この晴天は非常にありがたい。
紗季ちゃんの眠る病院へ行く。それは俺にとって、平和に戻った俺にとって、初めてと言って良い一大行事だった。
一大行事という言葉ほど、中身は軽くない。贖罪する機会があるかないか、それを確かめるのが目的で、もしその機会があれば、ある程度の犠牲を払ってでも贖わなければならない。清花姉に先を越されていないか心配ではあるが、とにかく行って話を聞かねばならないという使命だけは、明々白々とここにあった。
もちろん、今日は弁当もない。俺の背中を確かに押していた弁当がないというのは、新鮮であり不安でもあるが、何となく新しい船出という感じもした。親離れのようなものだろうか。あるいは、俺はまだまだ、子供なのかも知れない。
行ってきます、と誰にともなく一言声を掛けて、俺は家を出た。
「……あら、時間通り。おはよう」
そのまま道を進もうとしてすぐに、春前としては少し軽装をした女の子が声を掛けてきた。あれは……昨日の社長令嬢、山口咲歩だ。
「ストーカーは違法だぞ」
「失礼な言い様ね。私は、あなたが病院へ行くと聞いたから、その手伝いに来たのよ?」
板につかない笑みは、咲歩ちゃんの言葉の説得力を大いに損なわせていた。何と言えば良いのか、とにかく怪しい。
「誰から聞いたんだよ」
「あなたの姉から。ずいぶん心配していたわ。やっぱりあなた、あまり頼りにはならないタイプね」
咲歩ちゃんの魔の手は、既に俺の家族にまで及んでいるらしい。
「清花姉か。でも、清花姉にも言ってないんだけど」
「あとは、勘よ。病院に行かないといけない事情と、今日の突然の休暇願い……探偵山口咲歩には、全てお見通しなのよ!」
と、咲歩ちゃんは決めポーズをとる。恐らく、本人の脳内では、格好良い効果音が付いていたのだろう。
「とまあ、そんな訳だから、私も連れていきなさい」
しかし、困った事になった。こんな子供を連れていく訳にもいかないが、普通に断っても咲歩ちゃんは社長令嬢の権力を振りかざされては敵わない。そうすると、どうやって断れば良いのだろうか。
「十八禁なんだ。だからダメだ」
「それは嘘ね。……ほら、諦めて連れて行きなさい。大丈夫よ、私の口はせんべいより固いわ」
「半端な固さだなっ!」
つい、清花姉にするように突っ込んでしまう。怒るかと思ったが、咲歩ちゃんはくすくすと笑い出した。
「安心して、山口探偵局は万能よ。あなたの秘密を守る事なんて、多分できるわ」
「多分かよっ!」
残念ながら、咲歩ちゃんにプライバシーを守る能力は全く感じられなかった。情報洩れ洩れも良い所である。
「ま、何があってもついていくのだけど。私はあなたを引き抜きに来たんだもの」
「まだ言ってるのか、それ。さっき自分で言っただろ、頼りにならないタイプだって」
役に立たない人間を引き抜いて、どうしようと言うのだろうか。
「良いのよ。マゾヒストと正義漢は、探偵局に良い影響を与えるわ。あなたは前者ね」
「だから違ぇよ!」
「あら、あなたの姉から聞いたのだけど」
清花姉……。俺は一つ、溜め息を吐いた。
「そして、私はあなたの姉から依頼を受けたのよ。あなたを監視……。もとい、見張る……。でもなく、見守るようにとね」
「清花姉の髪型は?」
「自然なロングヘア。黒色」
当たっている。となると、清花姉は本当にそんな事を厄介な咲歩ちゃんに依頼したのか……。
「迷惑そうな表情ね……」
「あ、いや、ごめん」
咲歩ちゃんの声に何となく元気がなかったので、俺はついそう謝った。
「……良いのよ、気にしないで。さ、行きましょう」
「あ、ああ」
颯爽と歩き出す咲歩ちゃんの背中を追って、八歩ほど進んだ所で俺は気が付いた。
「おい、向き、逆だぞ」
「あ、あら、本当ね……わ、分かってたわ」
踵を返して、意地になって歩いていく姿も可愛らしい。それに見とれて、俺が『知らない間に咲歩ちゃんを連れていく事になっている事案』について思い出したのは、その三分ほど後だった。
「あなた、いつか悪質な詐欺に遭いそうね……」
三分歩いてやっと謀略に気付いた俺に、咲歩ちゃんはそう言った。
「今まさに遭ってるかもな」
「これは良質な詐欺よ」
「詐欺なのは認めるのか……」
いくつか、様々な方向性で連れていかずに済む方法を考えたが、どれも無為に終わりそうだった。ある程度にはシリアスな、真面目な用事なのだが、咲歩ちゃん同伴で行かざるを得ないらしい。
「そんなに、面白いものでもないけどな」
俺と咲歩ちゃんは、とことこと二人して、病院へと歩いた。




