32.
「Fun time elapsed easily.」楽しい時間は容易に経過する。和やかな昼休みは、まるで風のようにするりと俺の手をくぐり抜け、去っていった。同じ時間なのに、昔よりもずっと短く感じられたのは、間違いなく俺が変わったからである。この時間を愛おしく思う心が、そう感じさせたのだ。
昼休みを終えて、わずかの仕事時間を従事すると、俺は二人にじゃあな、とだけ声を掛けて、作業服を着替えた。
続いて、飛鳥道高架下工事現場を後にしようとした所を、後ろから現場長に声を掛けられた。
「お疲れさん。これ、今月の今日までの給料だ。ちぃとばかし目減りしてるけどな」
「えっ。貰えるんですか?」
一番最初に渡された従業規定には、突然の辞任については当月分の給料は出ない、とあった記憶がある。だが、現場長は豪快に笑って、
「いつも弁当を作ってくれる誰かが、居るんだろうが? すると、金が要るだろうからな。持ってけ」
と、言った。
「あ……ありがとうございます。ありがとうございました!」
俺は体と共に心から、現場長に頭を下げた。現場長がその場から立ち去るまで、ずっとそうしているだけの恩があるように思えた。
およそ一時間の後、俺は例の昼食の岩場から飛鳥道の工事の様子を眺めていた。
弥生道の現場長は、俺の辞表を手に取って読むと、何の感動も得なかった様子で、今日から来なくて良いよ、と告げた。いや、今日中は働きますよ、とはその冷たい目を見ては言えず、弥生道現場から離れた俺は、行き場もなくこの岩場へと辿り着いたのだった。
ふらつく夢花ちゃんを見て、何度も手を貸そうかという考えが頭をよぎった。サボる多田野を見て、幾度も殴ってやろうかという想いに駆られた。だが、今更そこに戻って二人に声をかける自分がどうにも格好悪く想像されて、俺は何もせず、ただ見守っていた。
「何だか、手持ち無沙汰そうですね」
そんな俺の隣に、見覚えのある声が座った。
「ああ。向こうの職場に行ってみたら、すぐに帰っていいって言われたんだよ」
「ふふ。それは、寂しいですね」
桜川は両手に何も持たず、ただこの辺りをたまたま通りかかっただけのようだった。
「今日も良い天気です。暖かくなりましたね」
「そうだな。……春か」
「はい。春です」
桜川が微笑む。遠くに飛ぶ鳥が、たった一羽のように見えていたのに、実は二羽だった時のような、そんな感触を俺は得た。要するに、孤独からの解放を覚えたのだった。俺はああ、と頷いて、また工事の様子を眺めた。
「……武司さん」
少しの沈黙があった後、桜川がそう俺に声を掛けた。
「うん?」
「これは私の、勝手な推測です。でも、多分……危ない事を、するんですよね? 武司さんに初めてお会いした時から、たった数日しか経っていないのに、武司さんは逞しく、格好良くなられました。できる事なら、ずっとここで、そんな武司さんを見守っていたかったんです。それは恋心ではない、何か他の欲求でした」
桜川の話し口は軽妙ではなかったが丁寧で、その内容の珍奇さを上手くかき消しているようだった。
「どうか、ご無事でお帰り下さい。そうしてまた、多田野さんと、夢花さんと、私と、一緒にご飯を食べましょう」
「……ああ」
俺は頷いた。聡明な桜川は、恐らく俺の一動作一所作から、俺が仕事を辞めた後にする事についての特色を感じ取ったのだろう。さすがとしか、言い表し様がなかった。
「そうしないと、井上さんにも怒られてしまいます」
「井上、か。懐かしいな。最近の事のはずなのに」
井上の姿は、今でもしっかりと思い出せる。あの不器用そうな言葉遣いの彼女が、奇跡を起こした先輩なのだ。別に、俺があのメールに従って戦争を止める事に成功するのは、奇跡と言うほどに難しい事ではないだろうが。
「そんなものですよ。優しい人でした。私もたくさん、励まされました」
「ま、とてつもないエネルギーだったよな。弁当盗まれたけど」
俺がそう言い切るか切らないかというぐらいの頃に、かんかんかん、と鐘が三つ鳴った。
「三時半の鐘です」
普段この時間にここに居ないから知らなかったが、そんな鐘も存在しているのか。どうせなら、三時ちょうどにした方が便利だと思うけど。
「では、私は帰ります。武司さんも、日に当たりすぎてお体を壊さないよう、お気を付けて下さい」
「ああ。またな」
立ち上がってお辞儀をし、歩き出した桜川の背中に、俺は大きく手を振った。




