31.
辞表を手渡すと、現場長は静かに一つ頷いて、急いでいるのか、と訊いてきた。
「はい。ちょっと……やりたい事ができまして」
「そうか」
現場長はそれから数秒、黙り込んだ。そして、辞表をもう一度眺め、分かった、と言った。
「今日までで構わねぇ。だがら、今日まではしっかり働いてくれよ」
「ありがとうございます。迷惑かけてすいません」
俺は深々と、お辞儀をした。
普段通りの作業場所へと向かうと、既に多田野も夢花ちゃんもそこに居て、二人で一つのスコップを持って大きな石を動かそうとしていた。
「ふ、ふぬぬぬぬ……っ。ぼ、僕の怪力でも、動かないね」
「嘘教えるのはどうかと思うぞ」
俺は、その石に苦戦する二人に後ろからそう声を掛け、そのスコップに手を掛けた。そのまま、力を込める。スコップはついに、石を持ち上げ、一輪式貨物車へと重たいそれを積む事に成功した。
「あ、ありがとうございます、武司さん」
「ああ、どういたしまして」
「おい武司。なに突然、僕の事嘘つき呼ばわりしてくれちゃってるのさ?」
「お前のソフトボール投げの記録、夢花ちゃんに言うぞ」
知らないけど。だがらまるで矢で射られた鹿のように、多田野はもがき苦しみながらやめてくれえと懇願した。よほど悲惨な成績だったらしい。可哀想だったので、見なかった事にして、先に言わなければいけない事を言う事にした。
「それはそれとして、ちょっと良いか?」
朝の小劇場を終えてすっかり仕事に取り掛かろうとしていた二人は、俺の言葉によって引き留められ、俺の方へと顔を向けた。言いにくい。そんな素直な気持ちを押しのけ、俺は口を開いた。
「今日で辞めるんだ。多田野、夢花ちゃんをよろしくな」
二人は、面食らったようだった。少しの沈黙を経て、ようやく多田野が、
「何だよそれ、本当なの?」
と訊ねてくれた。
「ああ。やりたい事が出来たんだ」
「ふぅん……。止めないけどね、寂しくもないもんね。……マジなの?」
「マジマジ」
「マジかよ……」
何とも可愛い奴である。女の子なら、だが。
「やりたい事って、何ですか?」
「ん……。それは秘密かな。まぁ、つまらない事じゃない」
夢花ちゃんと多田野は、再び押し黙った。そして、数秒の沈黙の後、声を揃えて、
「いってらっしゃい」
と言った。
「ありがとう。……何となく照れるな、夢花ちゃんに言われると。多田野はアレだけど」
「殊更に僕を強調するなよっ!」
「ははは。嫌だ」
「相変わらず酷いよね!」
心が休まる。多分、ずっとここにあったのだろうこんな温かな場所は、つい最近になって俺の手元でも輝くようになった。それを、これから捨てるのである。
「よし、作業するか」
「りょ、了解です」
「僕はサボりたいんだけどなぁ」
俺は、流れそうになった水の粒を、汗と一緒に手の甲で拭った。
お昼休みになると、いよいよ終わりが近付いている事を否が応でも感じさせられて、いつもの岩場へ向かう道での足取りも優れなくなった。
「武司さん」
そんな俺の後ろから、誰かが声を掛けてくる。振り返ると、それは桜川だった。
「おう、こんにちは」
「お仕事、お辞めになると聞きました」
「うん。さすが、情報が早いな」
大方、現場長に聞いたのであろう。桜川は両手を体の前に組んで弁当屋の袋を提げ、俺を見て立っていた。
「寂しくなります。あの岩場でお会いした皆さんは、もう多田野さんしか残っていませんから」
「桜川はうちの工員に人気だからな。夢花ちゃんも居るし、十分賑わうと思うよ」
「ふふっ。それは楽しそうです。……どんなご用時か分かりませんが、応援していますね。さあ、行きましょう」
桜川が歩き始め、俺の隣に並ぶ。俺もその歩幅に合わせて、また岩場への道を進んだ。
少しして着いた岩場にはもう、多田野と夢花ちゃんが座っていた。
「ふふん。僕のクリームクリームコロッケパンはあげないよ」
「長ったらしい名前だな。要らないけど」
「なんでだよ! そこは、もっと欲しがる所だろっ」
多田野がそう、パンの袋をぐるんぐるんと回したので、横に腰掛けた俺は体を傾けてそれを避けた。
「俺は弁当があるしな」
「え、ううと、私が貰います」
「え? い、いや、本当に貰われるとそれはそれで困るというか……」
扱いは簡単だが、いささか面倒なやつである。
「夢花さんのお弁当は、私が買ってきましたよ」
「わぁ、ありがとうございます!」
未だに俺達へはわずかながら警戒の念を持っているらしく、桜川から弁当を受け取る夢花ちゃんは、俺達には見せないごく自然な笑顔を見せていた。いつか、その笑顔が俺達にも向けられるようになるのだろうか。そう考えてみて、俺は今日が別れの日である事を思い出した。
「よし、食べよう」
熱い固まりが喉元まで上がってくるのを恐れて、俺はいつになく、そう急かした。




