30.
清花姉は、母の俺ばかり心配するのを見て、母が要領の良い自分を疎んじるほどではないにせよ好いてはいないと理解していたのだろう。改めて、清花姉の立場から考えてみれば、母の愛が俺に向けられているように感じるのも全く無理はない。むしろ、きっとそうに違いない、という考えさえ、頭に浮かぶほどだった。そう言えば俺は、ついぞ、母が清花姉を抱き締める所を、見た事がなかった。
ベッドの上から、かばんを見つめる。清花姉の洞察力は、さすがと言う他ない。その清花姉が、平安を、平穏を捨てる覚悟を促してきたのだった。
(……俺の夢か)
子供の頃の夢を、思い出す。今をかなぐり捨ててでも、それは叶えたい夢だっただろうか。
(…………)
ついに、腰を上げる。俺は、かばんに歩み寄って、中をほのかに照らしている携帯電話を手に取った。
『詳細な地図を添付しました。私の用意できる、最大に安全な侵入経路と、計画手順、それに脱出経路を付記してあります。この計画には、あなたの人生や、生命への危険が伴います。ですが、止めてくれても良い、とは、私には言えません。お願いします。どうか、あなたの命を懸けてでも、この日本を救って下さい。どうか、お願いします。パスワードは、「√scer」です。』
添付された地図を開いてみる。まるで空撮のような非常に精密な建物の形や高さ、塀の種類から抜け道の大きさ、警備の時間別強弱など、そこには必要な情報全てが、詰まっているようだった。
俺はこの、出処も分からない不審なメールに乗せられて、大それた事をしかかっているのかも知れない。せっかくの幸せな平穏を自ら放り出してしまうのは、これまで生きてきた俺のセオリーから言えば、明らかに間違いである。だが、だからこそ、俺は変わりたいと願った。
俺は、長く使っていなかった机に二枚の紙を置き、その前にある椅子へと腰掛けた。そして、その二枚の一番上に、辞表という二文字を書き並べた。辞表の書き方など、聞き習う時もなかったから、俺の書く文章はとてつもなくいびつで、礼儀も作法もなってはいないだろう。ただ、俺は、本当にやりたい事が他に出来たのだという事を、つらつらと書き連ねて筆を置いた。この辞表を提出すれば、もう後には戻れない。しかし今の俺には、もしあのメールが、根も葉もない嘘の塊であったとしても、俺一人で戦争を止める活動をしてやろうという気持ちがあった。
出来上がった辞表二つをそれぞれ別の封筒に入れると、何となくぐったりして、俺はいつも座っているベッドの上へと移った。ふかふか、とまではいかないまでも、ある程度の弾力性を備えたベッドは、やはり居心地が良い。仕事を始めた頃は、このベッドから離れ難い気持ちに悩んだものだった。
清花姉達にも、決心を伝えなければならない。何を馬鹿な事を、と、口には出さないまでも、三人は思うかも知れない。俺自身ですらそう思っているのだ。
(説得しないとな)
何としても、納得して貰う必要があった。だが、明日にしよう。そう思うと俺は、急に重たくなったように感じられる体を、ベッドの上へと横たわらせた。そのまま目を閉じると、俺の意識はどっぷりと、泥の中へ沈んでいった。
真っ暗だった空間は、月光のような、弱い光を帯びていた。どこから、誰が俺達を照らしているのだろう。その光に気付いているのだろうか、漂う俺は、薄く目を開いているようだった。
ここから出ていかないといけないと、見守る俺は悟った。ここには、何もない。ただ、何もない故の、平穏のみがあるばかりである。そんな場所で留まっている事を、俺は望んでいなかった。
漂う俺に、手を伸ばそうとする。だが、見守る俺に彼を掴む為の手は用意されていなかった。
どうやら、何からも離れる事で安穏を図ろうした漂う俺を、見守る俺は置いていかねばならないらしい。長く俺の真ん中にあり続けた彼を。
<人にできない事なんて、ありません>
声が、光を放つ天井から、俺に降り注いできた。
<相応の代償を……代償を支払えば、人にできない事なんて、ありません>
声は、両手で俺を誘っていた。暗い、この空間から、俺を連れ出そうと。
「さよなら」
漂う俺に、別れを告げる。そうして俺は、彼を置いて、上へ上へ、光の溢れる方へと、向かった。
■ ■
鬱げな朝だった。今日で、仕事を辞めるのだという意識が支配する中で、心が浮き上がる事は全くない。昨日、風呂にも入らず眠りについてしまった俺は、朝から清花姉に向けて、仕事を辞める旨を伝えた手紙を書いていた。
ある程度を書き終えてから、俺は一度ペンを置いた。母は、確かに清花姉を嫌っていたのかも知れない。俺にだけ手紙を送ってきているという事実だけでも、十分にそれが裏付けられてしまう。それを覆す証拠を、俺は一つとして持っていなかった。だが、
『母さんも父さんも、清花姉の事、大好きだよ。』
と、俺は手紙の最後で、そう強弁した。根拠なんて、もちろんない。だけど、そう書く事で、清花姉が少しでも救われるのなら、書くべきだと思ったのだった。
完成した手紙を、清水や紗季ちゃんが先に読む事のないように、清花姉の部屋へと扉を静かに開けて放り込んだ。相変わらず真っ暗な清花姉の部屋の全体像は全く掴めなかったが、音からしてカーペットの上へと首尾良く落ちたようだった。
これで良い。清花姉は賢いから、きっと俺の手紙を読んだ後、上手く清水に説明してくれるだろう。その役職を押し付けるのは忍びないが、どうにも俺には無理そうな役回りだ。いつも通り、変わらず用意してくれている朝食を食べ、弁当をかばんに詰めると、何となく一つやり遂げた気持ちになって、俺は一つ伸びをした。
やがて、時間がやってきて、俺は辞表二通を大切に懐へ持ちながら、仕事場へと家を出た。




